1.レーゼシナリオ、地球の裏側(ブラジル)でも注目(?)されたり、日本国内で歌のタイトルになったりする。


2.れいわ新選組、衆院選で躍進


3.BiSH、紅白出場決定

 

何故か急にデニス・ホッパーのことを思い出した。十年くらい前に死んで、彼はもうこの世にいない。

 

私が映画とくに洋画に興味を持ち始めたころにガイドブックの役割を果たしていたのは、別冊宝島『このビデオを見ろ!』というムックだった。そこでは、そのムックが刊行された当時話題だったデヴィッド・リンチ監督『ブルーベルベット』の影響か、妙にホッパーが持ち上げられていた。ホッパーについての記事を書いたのは当時まだ無名の田口トモロヲだった。私も乗せられて『イージーライダー』を始めとする彼の出演作品または監督作品を見てみたが、特に感心するものは無かった。『アメリカの友人』でリプリーを演じた彼は、ショーケンに似ていた。特に、サラリーマン風の姿で登場する時のリプリーが、『大阪で生まれた女』を歌うショーケンに似ていた。

 

ホッパーは、ウィリアム・バロウズのレーゼシナリオ『ダッチ・シュルツ 最期のことば』の映画化権を一時期持っていたという。

 

 

バロウズといえば、キャサリン・バロウズという名のアメリカの英文学者(ウェルス大学)が、クローゼット・ドラマ(レーゼドラマ)についての論文集の編集を手掛け、その序文で、ウィキペディア上にあったクローゼット・スクリーンプレイ(≒レーゼシナリオ)についての文章を銘句として引用していたことを、恐らく2019年頃にこのブログで書いたはずだ。それ以前に「クローゼット・スクリーンプレイ」というフレーズを論文で使った学者はブライアン・ノーマン(当時アイダホ州立大学、現在シモンズ大学)であり、恐らく彼が一番最初であろう。

「レーゼシナリオ」という語を論文中に使った学者(市井の研究者ではなく、大学に籍を置いている人)は、日本ならば、タイ文学者の宇戸清治(東京外語大)を筆頭に何人かいた。そして、このたび、外国にも論文中にレーゼシナリオという語を使った学者がいることを発見した。ブラジルのバイーア連邦大学のデシオ・トーレス・クルス教授だ(著書は英語で書かれている)。彼はその語をマヌエル・プイグについての論文の中に用いた。プイグの小説が映画的技法を取り入れていることは周知だろうが、レーゼシナリオではない。クルスが論文のタイトルで言っているように「シネマティック・ノベル」という表現がふさわしいであろう。しかし、文学における映画的技法を考察するために、クインビー・メルトンのレーゼシナリオ論に言及して、Lesescenarioという語を使った。

 

 

ハロウィンに似合う歌として、ユーミンの『サタデーナイト・ゾンビーズ』や『うる星やつら』のエンディング『宇宙は大ヘンだ!』をかつて挙げた記憶があるが、↓の曲なんかも合うかもしれない。

 

 

かつて、このブログのこのテーマ(用語)記事で、ポストニューシネマという造語をしたつもりでいたが、河原畑寧の論文や映画『モダーンズ』のパンフレット(25ページ)で既にポストニューシネマという語が使われていたのを知った。前者はともかく、後者は70年代前半の『北国の帝王』(R・アルドリッチ監督)などについてその語を使ったわけで、私がその語で指したかった80年代映画と違うものを指していた。

 



そこで重複しないように、新たな言葉を作ることにした。80才を傘寿と呼ぶ。「傘」の字に八十という文字が含まれているように見えるからだ。またスペイン語における家 casaのことを「カサ」「カーサ」と片仮名表記する。80年代アメリカ映画は私にとってのホーム(家)であると思うので、『モダーンズ』や『ブロードキャスト・ニュース』などの、私の「心のベストテン映画」を含むこの時期のアメリカ映画のことを、「傘」と「カーサ」をかけて「カーサ映画」と呼ぼう。


Buzzpexというバンドの、最近リリースされた『BlueMoon』というミニアルバムに収録されている。今月リリースされたようだ。このアルバムは『BurningSun』というエレキサウンド風のアルバムと対にして作られたアンプラグド系のアルバム。作詞はボーカルのHINAさん。レーゼシナリオという語はサビに出てくる。「先天的才能 それもレーゼシナリオ 完璧なようで 不揃いな行間に 『悲しい顔はしないで』」

御冥福を祈ります。

 

 

『古畑任三郎』をはじめとする色々なドラマで楽しませてくれた正和さんだが、私が一番に挙げたいのは『夏に恋する女たち』。

大貫妙子の主題歌に横尾忠則の絵画が何枚も出てくるオープニングが素晴らしかったのだが、かつてはYouTubeでも観ることができたが、今回検索してみたが、どうも見つからない。訃報にふれてアップする人が出てくることを期待する、というのは不謹慎か?

せめて、静止画だけでも横尾さんの絵を検索しようと思ったが、これも不可能だったのは驚き。昔は出来たはずだから。

 

『古畑~』の、ストッキングかぶって煙草吸う画像も、自粛。志村さんの時とは違うもん。


映画『リアリズムの宿』の続編『ランブラーズ2』が上映中、ネット配信中。
ランブラーズとは、海外で上映されたときの英語題名で、
日本では映画は原作と同名なので、
『ランブラーズ・ワン』などというものは無い。
このようなタイトルの付け方は、音楽界では、
山口百恵の『プレイバックpartツー』とか、
サザンの『ボディスペシャル・ツー』とか、
LOVE PSYCHEDELICOのデビューアルバムが『グレイテストヒット』だとか、
時々ある。
それとはちょっと違うが、『笑っていいとも!』で、関東では駆け出しだった松本人志が、
番組中に突然「森田一義アワー」という言葉を言い出して
笑いを誘ったことがある。
確かに、この番組には森田一義アワーというのが副題に付いていて、
毎日画面に映るが、
長寿番組になりつつあった『いいとも』に
そんな副題(というか枕詞)が付いていることは、みんな忘れていた。
「そう言えば、そんな枕詞が付いてたよな」というような、
日常が異化された笑いが起こったのであろう。
山下敦弘監督映画が海外で評価されていることは
日本でも報じられていて、
『リアリズムの宿』が好きだった日本の映画ファンにとって、
邦題の直訳ではない英語題名が付いてたことは、
記憶の片隅にはあったかもしれない。
『ランブラーズ2』というのも前述の「森田一義アワー」みたいな
面白さがある。

作品の内容のほうの話をすると、
ベケットのゴドーばりに「不在の存在感」を示していた山本剛史演じる船木が、

前から主要キャラであったかのように
かつての凸凹コンビ(木下と坪井)に溶け込んで三羽烏と化している。
話はさほど面白くないが、
ずっとこの映画の空気に浸っていたいと思わせる。

このブログの初期記事で、
今後の邦画界を背負って立つと評した山下監督は、
実際その後スター俳優と仕事をする有名監督になっていったが
原点回帰的な作品を撮ったのは、喜ぶべきことだ。


『遊びの時間は終らない』のテレビドラマ版の全編が
YouTubeにアップされていたのに気づき、観た。やっぱり面白い。
映画版がその後韓国でリメイクされたというのは驚きだ。映画版のほうも、日本では大して話題にならなかったからだ。

そう言えば、『ランブラーズ2』も、最後に韓国につながる。



スヌーピーで有名なピーナッツブックスのキャラで、
ルーシーとライナスの弟リラン(再放送を意味する名)の決め台詞に
「僕は一歳なのにもう過去に生きてる」というのがあった。
この「過去に生きる」という表現の意味が、
これを読んだ九歳の私には全く分からなかった。
実は成人しても分からなかった。
最近ようやく分かった気がするようになったのは、
老化なのか、それとも永劫回帰なのか。

 

芥川『影』、谷崎『月の囁き』から100年。日本レーゼシナリオ史を起承転結で表すなら、「起」が終わって「承」のエポックに突入。

 

(追記 2021年1月4日 芥川『影』のほうは再チェックしてみたら、1920年発表でしたが、その年の9月つまり下半期発表なので、四捨五入の発想で、100年としましょう。)

今年の十大ニュースを挙げる時期だが、重要な出来事なんて十個も思い付かない。

大江健三郎のシナリオ草稿『革命女性』を発見したことが圧倒的な一位なので、あとはどうでもいい。コロナとかも個人的にはどうでもいい。十位まで本件で埋めちゃえばいいか。そして、次点は「にゃんこスター破局」かw。『鬼滅の刃』という映画が歴代トップになるかというのは気になるが、挙げるほどでもない。

西暦はキリストの生年と思われていた年(厳密には四年ずれていた)を一年と数えるところから始まっているから、ゼロではなく一が最初だ。だから21世紀も2000年からではなく2001年から始まった。ディケイド(decade 十年紀)というのは、例えば1980年代なら1981年から1990年までだ。すると、今年は2010年代の最後ということになる。このディケイドの最初の年は2011年で東北震災の年だ。このディケイドは震災から始まりコロナ禍で終わったという感じ。震災は日本人にとって重要だが、コロナ禍はそれほどでもないのではないか。東洋人にとってコロナウィルスはあんまり怖くないものだと思う。台湾や韓国でも死亡者は欧米に比べて少ない。発生地の中国でもあんまり。なんとなくヴォネガットのスラップスティックを思い出す。

レナリオローグである私にとってのディケイドは、いつも最後に転回が起こる。西暦1990年(80年代の最後)に「シナリオ形式の文芸」ということを思い付き、2000年(90年代の最後)に「レーゼシナリオ」という語が既存であることを知り、2010年(00年代の最後)にも自分の認識の普遍性を確信するような出来事が起こり、そして今年2020年に大江の『革命女性』を発見。起承転結という感じだ。今年芥川賞をとって話題になった、櫻井敦司の息子・遠野遥の『破局』で、主人公の友人「膝」は、お笑いサークルに入ってるのだが、卒業ライブの際に「いかにも締め括りという感じにしたくなかった」という意味のことを言う。山下敦弘の映画などにも見られるような、21世紀の若者らしい考え方だ。私も(若者であるかどうかはともかくw)特にこのブログを何らかの宣言を発して締め括る気は無いし、大事なことを思い付いたらまた書くつもりだが、気持ち的には一段落ついてしまったのも確かだ。