夏の始まりを感じさせる曲というと、たま(作詞作曲・滝本晃司)の『夏の前日』だけど、夏の終わりというと何だろう?サザンの『海』は個人的には、夏真っ只中じゃなくて終盤のイメージなんだけど、サザンなら原坊の『恋はご多忙~』かな。アルバムならKAMAKURAは、確かサザンなのに(笑)夏が終わってから発売されたと記憶していて、そういうイメージがあるな。バイバイマイラブなんか特にね。


http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=_S2qkBiWT4o #! 夏の前日

http://nicoviewer.net/nm4026548 恋はご多忙~


小林よしのり『脱原発論』のコラムに、レアアースやメタンハイドレートなどの資源が、排他的経済水域を含む日本の領域で発見された、とある。後者にはエネルギー源としての可能性があるとされる。


本当ならワクワクするような朗報だけど、なぜ311や尖閣問題や竹島への韓国大統領上陸というような問題の浮上するこの時期に、こんな話が出てくるのか、ちょっと不審にも思う。


上記の資源はいちおう、権利を争っているボーダーライン上じゃなくて純然たる日本の領域内で見つかったらしいが、どこそこの国がこれらの簒奪を狙ってるなどという噂もきっと出てくるだろう。


分断して統治せよ、の原理で動く世界支配層のような存在がもし実在するのなら、こういう情報を流して、ナショナリズムの鼓舞から戦争へと駆り立てる、なんて企んでいるんじゃないかと疑ってみたくもなる。


石油枯渇や温暖化もデマだというし、原発についても情報の隠蔽などがあった。資源についての情報というのは、話題のスケールが大きすぎて、科学者たちも簡単に結論が出せないのだろうから、簡単にデマがまかり通るのではないか?だから今回の朗報も、いろいろ疑ってみる必要がありそうだ。

何を隠そう、私のレーゼシナリオ道の最初のほうに、ケン・ラッセル監督の映画『アルタード・ステーツ』の鑑賞体験がある。それは、ジョン・C・リリーとういう科学者がモデルになった映画だった。リリーの知己にドラッグカルチャーの教祖的存在で女優ウィノナ・ライダーの名付け親でもある心理学者ティモシー・リアリーがいた。


そして、レーゼシナリオを書いた作家であるバロウズやハクスリーやアントン・ウィルソンもT・リアリーの知己である。またメルトン4世にレーゼシナリオについてインタビューされた翻訳家・山形浩生氏がT・リアリーの本をいくつか訳している。


いっぽう、私は、本ブログで何回も経営学者ドラッカーについて言及してきた。『もしドラ』がベストセラーになる数年前からね。ドラッカーは経済人類学者カール・ポランニーの知己であり、ポランニーの姉が経営した幼稚園で育ったのが科学哲学者で政治小説家のアーサー・ケストラーだ。


T・リアリーの自伝『フラッシュバックス』に、T・リアリーとケストラーの出会いが描かれていた。ケストラーはT・リアリーからもらったヤクでトンじゃったくせに、こんな快楽は偽物だと抜かす。T・リアリーの冷静な筆致からもムッとしてるのが伝わってくる。


ともあれ、ドラッカー経営学とドラマティック・リテラチャー(劇文学)とドラッグカルチャーを結ぶ経路が見つかったのです。

2chを見ていると、「さよなら絶望先生」のラストの解釈に、ブレが出てるようだ。

それはおもに、絶望少女たちが代理生徒を演じているのは誰のためか、ということをめぐっての解釈である。大きく分けて二つの解釈がある。
①自分の臓器の提供者(ドナー)のために。(少女たちは、ドナーが誰なのかは知らないが、ドナーのための代理である、という自覚は持っている)
②ただ単に、高校に行けなかった、どこかの死者のために。


②の立場は、さらに二つに分かれる。
A、少女たちは自分と似た個性の死者の代理人役を当てられていた。
B、少女たちは、自分の本来の個性とは無関係に、死者たちの生前の個性を、誰かから伝達されて、演じていた(例えば、常月まとい本人は実はストーカー気質ではない)。

私は何の疑念もなく①だと思っていたが、②のような解釈も確かに成立しうる。

もし②だとすると、死後卒業というシステムと、各人のドナーが同一人物であったという設定のあいだに、直接の関係は無いということになる。たまたま、全員の臓器のドナーが赤木杏=風浦カフカという一人の人物だった、というだけの話。

さて、島を訪れた糸色交君は故人ヒロシの代理を務めることになるのだが、この際に糸色倫から「死線をくぐってない彼に務まるのか」という危惧が表明された。ここの捉え方で全てが決まるのではないだろうか。「交君も実は死線をくぐっていてヒロシから臓器を提供されたが、幼すぎてその記憶が無い。そして倫は、死後卒業システムのことも、雲隠れしていた長兄・縁の連れ子である交君の生い立ちのことも詳しくは分かっていない」と解釈すれば、①がスンナリと成立するのではないだろうか。実際、死後卒業については、倫は「複雑すぎて分からないから説明がほしい」と島で言っている。また、交の生い立ちについても、次男の望が長兄の縁の子・交の存在を知らなかったくらいだから、倫も同様であってもおかしくない。富豪の令息や令嬢には個人主義的な感覚が発達しているから、自分の兄弟姉妹の現状に無頓着であるというのはありそうなことだ。

小節あびる等が絶望先生を島まで追いかけてきて交君に自分たちの過去の秘密を告白するシーンで、臓器移植の話を詳しくしなかったのは、幼い交君に彼の出生の謎を悟らせまいという気遣いからであろう。

あびるや霧やカエレが術後にシルエットを見るシーンを、どう解釈するかという問題もある。「私は生きたかったのに」などという声は、いったい何なのか。自分の内奥から聞こえてくる、ドナーの臓器が発する声なのか。それとも、同時代のどこかにいた、無念の死を遂げた未知の誰かへの想像力が形を成したものなのか。私は前者だと思うが、だとすると、なぜ、シルエットはカフカの形ではなく、本人たちの形なのか?
カフカの形でないのは、ドナー情報は秘匿が原則で、自殺を図った彼女たちにはドナーがどんな姿かを知るよしもないからであろう。では、なぜ、誰とも特定できないシルエットでなく、各人たちのシルエットなのか?これは単に演出の問題であろう。彼女たちと未知のドナーとの融合体、というイメージを打ち出したかっただけなのかもしれない。
もし後者(シルエットは、生きたかったどこかの死者への想像力の具現)だとすると、その直後の「生きたかった魂と死にたかった魂が出会ってしまった」などというナレーションは少し大げさだろう。単に頭で他者を想像したことを「魂同士の出会い」と呼ぶのは無理がある。するとやはり、提供された臓器から聞こえてくる声と見なすのが自然であろう。
以上のことも、①説を裏付けよう。

 さて、これまで語ってきたのは、絶望少女たちが誰を成仏させようとしたのか、であった。私の出した結論は、少女たちの意識の中では自分の臓器のドナーだが、結果的にはカフカ=赤木杏一人であった、ということになる。


 もうひとつ、小さな謎が残っていて、「なぜ”風浦可符香”という名は、彼女が文章を書くのが趣味という設定があるわけでもないのに、”ペンネーム”なのか?」という点である。ただの”ニックネーム”でもいいではないか?
 ペンネームは略すとPNで、これはポストヒューマス・ネーム(戒名)の略でもあるという説もどこかで見たが、かりにそうであっても、ペンネームという言葉が一巻の最終話(普通ちゃん登場の回)に出てきた以上、どこかで可符香が作家の真似事をするとか、あるいはラジオに投書するとかのシーンが一度でもあってほしかった。そうじゃないと、なぜ「ペンネーム」なのか分からない。
 これは推測だが、当初の予定では天才的ストーリーテラー久藤准の語りで終幕、そして「ペンネーム・風浦カフカ」という文字が出てくるエンディングだったのかもしれない。久藤も輸血経験があり、それが赤木杏=カフカの血であってもおかしくはない。「唯一の男子カフカちゃん」というわけだ(本家の作家カフカは男だけど)。ならば、彼のペンネームが風浦カフカというのもありうるわけだ。
ところで、最後の1ページのウェディングドレスの可符香は、同じ十字架を首からぶら下げていた久藤の女装だとする説がある(たしかに、ペチャパイ気味なのだ)。語り部がこれは物語でしたと語って終わるエンディングというのは夢オチのごとく陳腐なものだから、もうひとひねりして、久藤の言葉ではなく肉体によって語らせたのだろう。だから、最後の絵を見て読者は心の中で「ペンネーム・風浦カフカ」と呟けばよい。そこで「ペンネーム」という伏線が回収される。


と、ここまで書いてきて、絶望少女たちが誰の代理生徒かについての、③説があることを想起した。

③「今までの私にさよならするための儀式」を、供養などという比喩で表現していただけ

というものだ。確かに、30巻半ばに出てきた「奈美の細胞が一年で入れ替わるから昔の自分の葬式を」というのは、その説の伏線になる。その場合、①と②に考察されたような、ドナーあるいは未知の死者の気持ちへの配慮というのは希薄で、明日の自分のために昔の自分と決別する、という利己的な動機の「供養」となる。交君は自殺未遂ではないが交通事故か何かで死線をくぐって、死にかかる以前の彼の足跡は縁起が悪いからヒロシからマジルに改名させて、さらにヒロシを供養するために島を訪れさせられた(本人の自覚はなかろう)と考えられよう。
ただ、その場合、各人自殺未遂直後のシルエットのことがやはり気になる。③説だと、シルエットは、「生きたかった、もう一人の私」ということになるだろうが、そうであれば「生きたかった魂と死にたかった魂が出会ってしまった」などというのはやはり大げさで、「生きたかった”もう一人の私”を発見した」とでも言えば済む。「出会ってしまった」と言うからには、自分には制御できない運命によって出会ったのであって、それは外部からの不意打ちである。

だから、③説をそれなりに摂取しながらも、やっぱり①なのだ。「今までの自分にさよなら」という意味での供養でもあるが、ドナーへの供養でもある、と考えればよい。というか、厳密に言えば、私自身は最初にざっと通読したときは③だったのだ。精読して①だと解釈し、②説があることをネットで知ったというのが正確だ。”さよなら「さよなら絶望先生」”と題したエントリーで、普遍的な、比喩としての卒業(他者を自分に取り込んで、昔の自分と決別すること)について言及したのもそれ故のことであった。


さて、もうひとつ小さな疑問が浮上した。第一巻の、マ太郎が主要キャラとして初登場する回(絶望が最後まで一回も登場しない回)で、智恵先生が出席をとってるときに、赤木さんとして返事をしているのは誰か、という問題だ。これは冗談のような仮説だが、私は、臼井影郎ではないかと思っている。臼井も久藤と同様、赤木杏から臓器提供された男子で、提供されたのは聴覚系のどこかの部位であると考える。鼓膜か、脳や神経の聴覚に関わる部位か。赤木さんという声を聞いて、「耳が覚えていたので」反射的に返事をしてしまった。週刊誌連載で第一巻の後半に収録されているということは、新学年が始まってすでに一ヶ月くらいは経っているので、自分の席の近くの誰かが当人とは違う人に返事をしてしまったら誰か気づくのが普通だが、臼井は影が薄いので、誰も気づかなかったのだろう。そして、絶望先生は出席を取らないので、先生が戻ってきてからは、そのような事態は二度と反復されなかった、ということである。読み上げられる出席簿の名が男子から女子に変わっているのに、臼井の男声が聞こえてくるのを変に思った生徒はいなかったのかという問題が派生するが、絶望先生が出席を取らないくらいだから生徒たちも名簿などには無頓着で、五十音順で最初の女子・赤木さんを五十音順で最後の男子・「若木さん」と聞き違えたのだろう。臼井(というより、彼に内蔵した赤木杏の聴覚)だけが目ざとく、いや耳ざとく聞き分けた、ということだ。自分の名前だからね。以上は、仮説と言うより辻褄合わせのためのコジツケだが、なかなかうまくいったと自負する。


後記:ペンネームの件だが、「暗号化好きな日本人」という新書の著者として風浦可符香の名が出てくるコマがあった。

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コインランドリーに少年マガジンが置いてあって、そこで面白い漫画を発見したので、洗濯が楽しみになった。別のランドリーで非売品のヤマダ電機の社史本を発見したのと同じ喜びがあった。


最初に読んだのは「トカゲの尻尾切り」をテーマにした回(23巻あたりに所収)だったろう。とうとう単行本を27巻あたりから、古本屋で安く売ってる物から順番にこだわらず少しずつ買い足していくようになって気づいたのは、初期のほうがギャグ漫画としての打率が高いということだ。中盤あたりからは、画力がアップしてキャラクターの魅力も上昇してきたが、ゲラゲラ笑える感じではなくなっていった。クスクスという程度だろう。でも、笑いのパワーが下がり始めた終盤近くから読み始めたのに大好きになったのだから、やはり総合力が高いということだろう。



そして、あのラスト。ちゃんと普遍的な「卒業」を描いてるのがいい。自分が嫌になるのが青春の一面で、でも他者との付き合いによって、他者の要素が自分の中に入る。あたかも蒔かれた種のように。その種が発芽して成長している中途段階が青春時代で、嫌いな部分もある自分像と異物のように侵入してきた他者像が融合しきって新しい自分が生まれたときに人は卒業する。


卒業を拒否するような感覚のほうが同時代的で、渡辺あやの『天然コケッコー』の脚本から卒業シーンを外した山下敦弘などに共感してきたが、山下も作家として立つ男を見事に描き、現代漫画を代表しそうな『絶望先生』も見事に嘘くさくない卒業を描いた。



自殺志願のボンボン男が生き続け、生を謳歌するポジティブな女が死ぬという取り合わせは、年齢構成はだいぶ違うけど、映画『ハロルドとモード』を想起させる。久米田先生は観たのかな。ラストの海沿いの景色は、なんだか似ています。


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山下敦弘監督、「苦役列車」を観た。主人公の数年後を描いた終盤のシークエンスは素晴らしく、作家が書き始めるということを、ああいう風に描いた映画は今まで無かったと思う。


①作家とは旧交を温める暇も無いほど孤独な存在だ。(高橋とのテレビ越しの再会はチンピラに遮られるし、正二や康子との幻想シーンでの再会も穴に落ちて遮られる)

②内奥にある原始的なものが首をもたげたとき、作家は書き始める。(ラストの主人公の後姿はほとんど原始人)


上記の2点の表現が傑出していて、中盤の動物ごっこのシーンも、②のための伏線だと思われた。


しかし、山下ファンとしてはやや物足りなさが残る。それは何故かと考えてみた。「主人公が書き始める」というのがこの映画の中心になる主題だが、もうひとつの中心が欲しかった、というのがその理由だと分かった。


「リアリズムの宿」では、凸凹コンビの珍道中という中核の他に、尾野真千子演じる謎の女という中核があった。

「ばかのハコ船」も、赤汁販売員夫婦の顛末という中核の他に、ベロニカ姉妹がもうひとつの核を形成していた。

「リンダ~」も、ペドゥナのアジア的な天真爛漫さという核と、西洋人の血が4分の1入ってるという香椎由宇の欧米的な厳しさという核があった。


多くの山下映画は二つの中心(数学的には焦点という)がある楕円形なのだが、「苦役~」は単なる円だった。そこが不満。古書店における前田敦子と田口トモロヲの話をもう少し膨らませて、もう一つの中心にしてほしかったな~。


念のため。中心が二つってのは、『インファナル・アフェア』みたいなダブル主演って意味じゃないよ。最初から狙ったところがうまく行けば、その作品は佳作になれる。無意識的な要素が功を奏して、やっと傑作になる。意識の核と無意識の核で楕円になるってな感じかな。