2ちゃんねるにレーゼシナリオのスレッドが立ってから7年。たしか、アメリカ建国記念日だったから、ちょうど7年のはず。私生活上はいろいろなことがあったけど、ウェブ上は特に脱線することなく、レナリオローグとしてやってきました。ここらで・・・フフフフッ
今月の、異義略語うんぬんのエントリーの末尾に、シナリオの細分化された呼称の案を、ミツカンナリオとか何とか並べたけど、センス悪かった。
冷泉から、「奥ナリオ(=制作用で、かつ未出版)」「出ナリオ(=制作用で、かつ出版された)」「空ナリオ(=制作用に書かれたが未制作)」という提案があったので、紹介します。
ボールドウィンのマルコムX物は、空ナリオで出ナリオってことね。
「リンダリンダリンダ」を観たときに、山下監督や脚本家向井やカメラマン近藤のことを「やっと同時代的感性の邦画人が出てきた」と思って嬉しかったので、彼らを「ヘイズコード撤廃(アメリカンニューシネマを可能にした、1967年の映倫規制の緩和)以降に生まれた世代」っていう風にカテゴライズしていた。その後「愛のむきだし」も同時代感性と思ったけど、園子温監督の前作「紀子の食卓」を観たときは「部分的にはイケてるが所詮アラウンド1960年生まれの感覚」(園は1961年生まれ)と思ってた。ホントに「愛の~」には意表を突かれた。で、山下らや園のことをお下劣ながら「ヘイズコード撤廃以降に恥毛が生えた世代」とカテゴライズしなおしたのだが、都合の悪いことが起こってしまった。三谷幸喜も園と同じ年生まれだからだ。三谷幸喜は、ワイルダー、ヒッチコックらが映画的教養のバックグラウンドにあり、ヘイズコード撤廃以前の感性で、園らと違って音楽的にもロックテイストは皆無で、ガーシュインとかコール・ポーターとかあのあたりだ。和田誠と意気投合したりしてジジむさい(作品は好きなものも多いが)。で、三谷は1967年より前の時点の四~五歳くらいの頃に生えたと見なすことにした。髭も濃いし、ありうるよな。
「リストラ」は、「リストラクチャリング」の略語だが、元々の意味である「事業再構築」のネガティブな点(要するに人員整理、つまり解雇)だけを指すようになった。
「サブカル」も、「サブカルチャー」の略語だが、「メインカルチャーじゃないもの全般」ではなく、その中でトンガったもの(反逆的であったり、お洒落であったり、スノッブであったりするもの)だけを指すようになった。オタク文化はダサいからサブカルじゃないのだそうだ。「ユリイカ」誌でも「サブカルvsオタク」という特集が組まれた(もっとも、特集の内容は、当事者たちの”オタクもサブカルチャーじゃないの?”という声が高く、対立は盛り上がらなかったそうだ。ようするに、単なるサブカルチャーの略語ではない”サブカル”という語はメディア業者以外にはあまり浸透してないようだ。他では、宮崎哲弥が、高澤秀次らとの鼎談本で、オタク的な民俗学者・大塚英志がサブカル論を語ったことを評して、ダサいオタクにサブカルを語ってほしくないと言った。宮崎いわく、サブカルとは、近田春夫のポップミュージック批評のようなスタイルの諸表現を言うのだそうだ。田中康夫の時評「たまらなくアーベイン」が、文学がサブカルに肉迫した唯一の業績だとか言っていた)
ともあれ、リストラにせよサブカルにせよ、略語したことによって本義よりも限定された(あるいはちょっとズレた)意味を表すようになった。これらを、「異義略語」と呼ぶことにしよう。
「レナリオ」は、私が提案する「レーゼシナリオ」の略語だが、「異義略語」の逆で「本義略語」だ。でも、ただの略語というのとはちょっと違う。「本義がたやすく転義に圧倒されてしまいそうな危険性がある場合に、本義を守る為の略語」だ。
転義に圧倒されるとはどういうことか?例を挙げてみよう。「付加価値」という言葉は、本来、売り上げからコストを引いた分、要するに「(俗に言う)カイシャ全体の儲け」という意味だ。なぜ「利益」と呼ばないかというと、厳密な定義の「利益」は従業員に賃金を払った後の金額を言うからだ。なぜ今、カイシャとカタカナ表記したかというと、戦後から昭和末期までのいわゆる日本的経営(年功序列と終身雇用、家族的人間関係)の会社は、従業員を内部者と見なすものであって、それは実は擬制であり、本当の会社はそういうものではないからだ。日本的経営という擬制の中の企業を「カイシャ」と呼んでみた。
さて、付加価値とは上記のような意味が本義だが、日常会話では「ギターが弾けると音楽自体の楽しさもあるが、女にもてるという付加価値がある」というように使われることが多い。つまり「オマケ」みたいなニュアンスだ。このように通俗的に使われだすと、「本義の付加価値はそうじゃないよ」といくら言ってみても既に遅し、転義が本義を駆逐してしまう。子供時代に転義のほうの付加価値を知ってしまったら、経済学部に入学したりして本義を学ぶときに、違和感が生じて頭に入りにくくなるのではないだろうか。
レーゼシナリオもまた、「付加価値」の例のように、「書籍化されたシナリオ」というような転義に堕ちていってしまう危険性の高い言葉だ。いったんそうなったらいくら本義は違うと叫んでも転義を回収できない。だから、先手を打って「レナリオ」という語を作っておけば、世間で本義が転義に凌駕されても、略語で保守できる。「レナリオ:原義のレーゼシナリオのこと」と辞書に載せておけばよい。
それ以外にも、レーゼシナリオの本義を守るためには、制作用か否か、出版されたか否か、文学的評価があるか否か、などの区分に基づいて、細分化した名称を与えるという方法もあろう。
たとえば普通のシナリオは、書かれて制作されて用済みならゴミ箱行きであるが、これを「通ナリオ」。
それらの中で雑誌に載ったり書籍化されたりする物があれば、刊行されたシナリオだから「刊ナリオ」。
J・ボールドウィンのマルコムX物のシナリオは、未制作の通ナリオで刊ナリオでもあるから「ミツカンナリオ」とか。あるいは文学的関心から読まれるシナリオだから「文ナリオ」とか。
あくまでも以上は案に過ぎないけど、そういう風に細分化した名を考えて付けていけば、レーゼシナリオの意味が無制限に拡張してしまうことも防げよう。誰かが転義を使ったら「それは厳密には刊ナリオだね」とか「それはミツカンナリオだな」と言えばよいのだから。
昔このブログで、レーゼシナリオという形式、スタイルで何かを言いたいのではなく、スタイルそのものが思想なのだというようなことを、岸田国士や村上龍や川本真琴を引用して書いたことがあった。http://ameblo.jp/maruki/day-20070710.html
要するに、ファッションリーダーたろうとしてきたんだけど、そういう「きゃりーぱみゅぱみゅ路線」はそろそろ卒業かな、と思えてきた。「成長しないって約束じゃん」とかつて川本は歌った。しかし、三代目魚武濱田某が、昔テレビで、ユーミンの「いつまでも変わらないでいようね」っていう女からの呼びかけの歌を替え歌にして、「彼女の言うとおりにしてたら、その後『進歩が無い』という理由でフラれた」男の自嘲的な気持ちを歌ったことがあった。
レナリオローグであり続ける意志は捨ててないが、「理屈じゃなくって、この形式カッコいいだろ?と言いたいだけさ」みたいな路線ももう最終段階かなとも感じている。んで、「最後の形式論」を準備中です。キーワードは「Fカップ」。ブラジャーじゃないよ(笑)
2009年あたりからしばらくの間、映画(DVD)鑑賞から遠ざかっていたが、去年の秋ごろから現代邦画を中心に観はじめた。北野武「アキレスと亀」、黒沢清「トウキョウソナタ」、園子温の「冷たい熱帯魚」などを観て思ったことを書きたい。
芸大のツービートこと武と清の二作は、巨匠の映画作家が新しい路線に挑んだが、結局、終盤でいつもの調子に戻ってしまったと思った。「アキレスと亀」は、全作「監督ばんざい!」で予言されたとおり、ヤクザや警察が(ちょっと出てくるけど)暴力を振るうようなシーンがほとんどない。そして、幼少期も青年期も非常によくできていてまさに新境地と思った。武本人が演じる初老期も半ばあたりまで(風呂場で溺れるくだりまで)は良いのだが、終盤はいつもの「孤独な男のタナトス(死への衝動)」に戻って失速、弛緩した。清のほうも、去年書いた通り、小津風のホームドラマは良いのだが、役所広司の泥棒登場以降に失速と弛緩があった。前に評したときは役所個人のせいにしたのだが今は、「ニンゲン合格」「アカルイミライ」「ドッペルゲンガー」などで描かれた「夢の断念」というモチーフがまたしても出てきたからウンザリしたのだという気がしてきた。それらの諸作品で「牧場」「クラゲ」「超ハイテク車椅子」などのマクガフィンが表していたのは「子供じみた夢」であり、上記の諸作品は、その夢と決別することで成長する、みたいな分かりやすいビルドゥングスロマンだったのだ。小泉今日子が、光が見えたとか言って小屋の外に探しに行って泣くシーンが「トウキョウソナタ」における「夢の断念」だったのだが、そして、小泉と香川照之が次男のお受験に付きそうシーンが「アカルイミライ」でも描かれた「次世代への夢の継承」だったのだが、前半にそこへつながってゆく伏線が張られているわけでもなく唐突なので、なんとなく「新路線に挑戦してるのに、いつもながらのやり方を封印しそこなった」つまり「相変わらず」という感が出てしまう。両作品とも、「姿勢が一貫しているからいつもの調子に戻ってきた」というのならいいのだがそうではなく、武も清も「いつものやり方を封印することを自らに課しているのに、それが貫徹できてない」という風に映ってしまうのだ。「またタナトスぅ?」「またぁ、夢の断念?」という風に思ってしまう。両者とも、「俺節」に戻った終盤が蛇足で、ここを削れば100分くらいの珠玉の名篇なのに、と思ってしまう。
いっぽうで、先月も取り上げた園子温の「冷たい~」は、芸大ツービートのケースとは逆に、映画作家として注目されてきた園が自らの作家性を貫徹できなかった終盤にガッカリした。園監督の「紀子の食卓」「愛のむきだし」「ちゃんと伝える」などでは、「家族ごっこ」というモチーフが繰り返し出てくる。「紀子~」を最初に観たときは、社会派ぶって家族の崩壊を叫びたかったのかと思ってそこがイヤだったのだが、よく考えると「家族の崩壊」なんて古めの題材だし、他作品でも毎回その種のシーンが出てくるので、これはこの監督のこだわりなのだと理解した。本作でも、終盤に、吹越満演じる社本が妻や娘を強制的に食卓に付かせるシーンがでてくる。そこで私は、「またか」とウンザリはせずに、「今回はどんな家族ごっこを見せてくれるんだろう」と期待したのだが、映画は腰も定まらずに殺害現場へと舞台を戻してしまう。自己模倣を恐れるほどには、まだ園監督は巨匠扱いされてないのに、自己へのこだわりを貫徹できなかったと見た。
巨匠の武・清は作家性を封印して新天地に挑んだのに結局封印を貫徹できず、売れ始めの園はまだ自己模倣を恐れず作家性で突っ走っていいのに及び腰になってしまった。芸大ツービートは「俺節封印」を貫徹できず、シオンは俺節そのものを貫徹できなかった。なぜこの監督たちは貫徹できなかったのか?「客が甘い」「批評とプロデューサーの不在」などが理由として考えられる。
追記:武の「アウトレイジ」はいつもの調子で撮っていて、かつ監督の内面の変化がちゃんと作品に反映されていて、手堅く面白かったよ。園の「恋の罪」は未見。清の新作も。
園子温監督の「ちゃんと伝える」「冷たい熱帯魚」について。
前者は良かった。序盤の父の不在の描き方が不思議な感覚で、観た当初は、父は本当はすでに死んでしまったのにそのことを認めたくない狂母が、あたかも夫が実在するかのようにふるまっているのかと思ってしまった。そして優しい息子が狂母の妄想に付き合ってあげているのかな、とも思った。監督の意図なのか何なのか知らないが、そう見えた。そうしたら何と、母は正気で父もまだ生きていて入院してるのだという。そういう始まり方が面白かった、というのがまず一つの感想。
そしてクライマックスの、葬儀の進行を断ち切って父の遺体をベンチに座らせて釣りをする場面の異様さ。オフビートなラブコメディとかオフビートな青春映画というのはあるけど、オフビートなホームドラマというのは初めて触れたような気がする。「ホテルニューハンプシャー」みたいに露骨に変なのや「家族ゲーム」みたいにネガティブでシニカルなのはあるけど、基本はオーソドックスなんだけどどこか変っていうのは、これが初めて(ホントは元祖ホームドラマの小津がそうなんだけど、元祖が変、というのも変な話だねw)。主演のEXILE某も初々しくて良い演技でした。
さて、後者だが、鑑賞後の印象は非常に悪かった。思い返してみれば、その悪印象の原因は、(終盤の直前までは良かったのに)でんでん演じるオッサンが死んでからが長すぎる、ということだった。面白いキャラはあのオッサンだけなんだから、彼が死んだらさっさと話を畳まなくてはいけないのに、グダグダと流血沙汰、暴力沙汰、愛欲沙汰を続けたのでウンザリした。
社本はオッサンを殺した後、血塗れのまま帰宅すべきだった。そして強引に妻子に一家団欒を演じさせ、携帯で通報して遺体の後始末の現場に警察を行かせ、自分は現場に戻らずそのまま食卓の光景を異様に演じつつけるほうがいい。その終わり方だと「紀子の食卓」の終盤とダブりそうだけど、それでもいいだろう。「紀子~」はどちらかというと子供目線から家族の回復を志向した話だけど、本作品のほうは一人の中年男の自尊心のために父権を回復するという趣になって、両作品の違いも鮮明になるだろう。そして最後の最後に妻と自分は死に、娘だけを残すが感謝されない、という風にすれば良かった。
獣性を取り戻した男に対して、妻は惚れなおし、娘はますます侮蔑する、というのは人間洞察としては正しそうで面白いが、その見せ方が巧くなかった。警察が殺人現場に社本の妻子を連れてくるのはどう考えても不自然で、最後に娘が「やっと死んだか、起きてみろ馬鹿おやじ!」と、断末魔の社本を蹴るくだりの面白さが半減したと思う。
震災から一年。関東の電力を東北地方の福島の原発から供給してたなんて、事故が起こってから知った。震災前にそのことってどのくらいマスコミで話題になったのか?知らなかったのは最終的には私の自己責任だけど、あまりにも・・・。
こういう社会は悪ですよ(私もその一部)


