「この子らを世の光に」
神奈川県議会「ともに生きる社会推進特別委員会」県外調査で、
「滋賀県立近江学園」を視察しました。
滋賀県唯一の知的障害児入所施設「滋賀県立近江学園」は、
"日本の障がい者福祉の父"と呼ばれる当時32歳の糸賀一雄氏(県職員)、池田太郎氏(教員)、田村一二氏(施設職員)らが
戦後間もない1946年、知的障がい児や戦災孤児らの境遇に心を痛め、
独立自営の児童福祉施設として大津市に創設したのが始まりです。
障がい児らがともに生活し教育や療養を受けて、自立する場として全国に先駆けた取り組みでした。
1948年に県立施設となり、71年湖南市に移転します。
現在は70名のスタッフ、定員100名に6歳から32歳の79名が入所しています。
近年、入所者の約半数は被虐待等の理由で児童相談所によって措置された子どもたちだということです。
入所すると、窯業科と木工科に分かれてものづくりによる作業訓練を学び、
体力づくりのため毎日1.5kmのランニングが義務付けられたり、
職場体験実習や犯罪抑止のための警察の講義など、
社会的自立に向けて、きめ細かい支援が行われています。
「『この子らに世の光を』あててやろう、
というあわれみの政策を求めているのではなく、
この子らが自ら輝く素材そのものであるから、
いよいよ磨きをかけて輝かそうというのである。
『この子らを世の光に』である。
この子らが、生れながらにしてもっている
人格発達の権利を徹底的に保障せねばならぬということなのである」
「ちょっと見れば生ける屍のようだとも思える重症心身障害のこの子が、
ただ無為に生きているのではなく、生き抜こうとする必死の意欲をもち、
自分なりの精一ぱいの努力を注いで生活しているという事実を知るに及んで、
私たちは、いままでその子の生活の奥底を見ることのできなかった自分たちを恥ずかしく思うのであった。
重症な障害はこの子たちばかりでなく、この事実を見ることのできなかった私たちの眼が重症だったのである」
『福祉の思想』糸賀一雄(1968年)より
湖南市のここの施設だけでなく、1952 年、アフターケアの職業訓練を目的とした信楽寮(現在は信楽学園)をはじめ、
次々と施設が増やされています。
重い知的障がいや寝たきり状態の子どもの行き先は長年にわたり大きな課題でした。
1963年、糸賀先生は西日本で最初の重症心身障害児施設として「びわこ学園」を創設します。
四年遅れた1967年、児童福祉法の改正で、「重症心身障害児施設」が児童福祉施設の一つとして加わりました。
糸賀たちの活動を受けて、法律がついていくという形がここでもみられたのです。
2年前、相模原市にある県立障がい者施設「津久井やまゆり園」の入所者19人が殺害される痛ましい事件が発生した際、
近江学園からは、「一人一人が輝ける存在で豊かな個性がある、
『この子らを世の光に』と唱えた糸賀先生の思いを今こそ伝えたい」というメッセージが発信されました。