三浦産真珠養殖復活プロジェクトが朝日一面に | 石川巧オフィシャルブログ「すべては三浦のために」Powered by Ameba

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三浦市は真珠養殖発祥の地です。
昨年より東大との真珠養殖復活プロジェクトがスタートしています。
プロジェクトについて昨日の朝日新聞夕刊一面に取り上げられました。

世界的にも珍しい豊かな生物相を有する三浦市の海は、郷土の誇りです。
東京大学三崎臨海実験所は、1886年わが国最初の
また世界でも最も歴史の古い臨海実験所の一つとして設立されました。
三浦市と東大は、2013年3月から海洋教育への取り組みで連携協定を結んでいます。



『朝日新聞 夕刊3.3』
「幻の三浦産真珠、再び~養殖発祥の地、東大など研究始動」


「三崎のマグロで知られる神奈川県三浦市で、
真珠養殖の復活プロジェクトが動き出した。
世界初の養殖技術はもともと、三浦半島先端(三崎町小網代)
にある東京大学三崎臨海実験所で明治期に研究されていたが、
地元で産業化されず忘れ去られていた。宝飾大手ミキモトも巻き込み、
幻の「三浦産真珠」に夢が膨らむ。
1月下旬、実験所の実習室。実験所のスタッフやミキモト社員らが、
約30個のアコヤガイを開いた。
昨年夏に小学生20人が真珠の芯となる直径5ミリの「核」を入れ、
近くの海で養殖してきた成果の確認だ。
かろうじて真珠になっていたのは1個。それも、とても商品にはならない。
「プロが核入れしても、商品になるのは10個に1個」。
ミキモトで真珠研究に取り組む樋口恵太さんは話す。

…1886(明治19)年に設立された実験所は、
近代日本の海の動物研究の拠点だ。
初代所長の箕作佳吉(みつくりかきち)が、
ミキモト創業者で「真珠王」と呼ばれた御木本幸吉に真珠養殖の
事業化に向けて技術的なアドバイスをしたとされる。
1899年には実験所に御木本が来て、箕作と研究の進み具合を話し合った
との記録も残る。だが、御木本は故郷の三重県の英虞湾で養殖に着手した。
一方、実験所では明治の終わりに養殖場を廃止。
戦後まで業者が三浦半島で養殖をしていたとも言われるが、
「三浦産真珠」は忘れ去られた。

…現在の実験所長でプロジェクトを主導する赤坂甲治教授(分子細胞生物学)、
学生のころから実験所に通う赤坂教授も、
ここが「真珠養殖発祥の地」だとは長く知らなかったという。
きっかけは2008年、ミキモトがシンポジウムでの講演を赤坂教授に依頼したこと。
再び縁は深まり、09年には実験所とミキモトが共同研究を始めた。
10年からは毎年夏に、ミキモトが小学生に核入れをしてもらう
体験会を実験所で行っている。

プロジェクトが本格的に動き出したのは昨年秋。
赤坂教授が中心となり、実験所に隣接する水族館「京急油壺マリンパーク」や
地元漁協、三浦市、ミキモトなどと復活に向けた協議を開始。
まずは、三浦産のアコヤガイを増やそうと、漁協が100個の母貝の養殖に着手した。
16年には、漁協で育てる稚貝の養殖を数千個規模にまで拡大させる計画だ。
ただ、ミキモトは三重県と福岡県に養殖場を構えており、三浦半島での養殖は
「あくまでも研究の一環」(広報宣伝課)として、本格的な養殖には否定的。
「三浦産真珠」が市場に出回ることは今のところなさそうだ。
一方、実験所は、真珠養殖を、子どもの海洋教育に役立てたい考え。

実験所の浪崎直子特任研究員は「貝の生態だけではなく、
物理や化学も学べるモデル教材になり得る」。
アコヤガイを養殖する地元漁協の出口浩さんも
「近くの海で真珠ができることを示し、
子どもたちに地元の海のよさを知ってもらえれば」と話す。
赤坂教授は「海洋教育に限らず、
将来的には観光者向けの核入れ体験など、次の展開もありうる」と期待する」



『神奈川新聞1.4』より

「『三浦真珠』の復活に向けて動き始めた三浦市の油壺周辺。東大三崎臨海実験所(三浦市三崎町小網代)の歴史や地元住民の証言をひもとくと、油壺周辺と真珠養殖のゆかりは深い。同実験所が養殖技術開発の重要な研究拠点だったのに加え、昭和30年代には産業として真珠の養殖が行われていたようだ。

真珠製造販売のミキモト(東京都中央区)によると、創業者の御木本幸吉が養殖に取り組むきっかけは同実験所初代所長の箕作佳吉(みつくりかきち)の勧めだった。1890年、東京で開かれた内国勧業博覧会にアコヤガイを出品した御木本に、箕作が「真珠の養殖は理論的には可能だが実際にはまだできていない。挑戦してみるのもいい」という内容の助言をしたという。

御木本は1893年に三重県で半円真珠の養殖に成功。文献によると、同年、シカゴで開かれたコロンビア世界博覧会に養殖真珠を出品し、箕作が立案者として賞状を与えられている。御木本は1905年には真円真珠の養殖に成功し、海外支店を開くなど世界的に産業として発展させていった。

一方、文献によると、同実験所でも養殖技術の研究が行われていた。1907年に箕作の弟子の西川藤吉が真珠形成法の特許を出願。西川は御木本の娘と結婚している。油壺には真珠養殖場が設けられていたが、1912年に廃止された。時を経た2009年、同実験所旧本館にミキモト真珠研究所の分室が設けられ、両者の交流は続いている。

油壺周辺で行われていたのは研究目的の養殖だけではない。詳しい記録はないものの、地元住民の証言では昭和30年代の1957~64年ごろに業者が小網代湾や諸磯湾で養殖をしていた。

小網代湾で長谷川造船所を営む長谷川満さん(66)は、小学校高学年から中学1年まで、同湾で現在は別荘が立つ場所に「真珠小屋」があったと記憶している。近くにいかだが設置された小屋では、女性がガラス板を斜めにして真珠を一つずつ転がしており、選別作業をしていたという。長谷川さんは「貝殻と駄目な真珠を外に捨てていたので、泳ぎに行って海パンに真珠玉をいっぱい入れて帰ってくる。仲間とゴム鉄砲の弾にしていた。豪華な真珠の弾だ」と振り返る。

油壺観光企業組合代表理事の清水秀男さん(77)は、20歳代後半に小網代湾で養殖をしていた三重県の業者の男性から真珠を譲られた。「何かのお礼でもらった」といい、横須賀の時計店でネクタイピンに加工。「今でも葬式や結婚式で着けている」という。このほか、諸磯湾にも「真珠小屋」があり、養殖を行っていたという証言がある」




御木本幸吉生誕150年記念シンポジウム「真珠の輝きを守る」
赤坂甲治教授

「私がまず、真珠養殖が始まった頃の歴史を簡単に紹介したいと思います。東京帝国大学臨海実験所の初代所長であった箕作教授と御木本氏との出会い、その場となった臨海実験所、そして養殖真珠への道を、最初にご紹介したいと思います。三浦半島の先端、相模湾につきだしたところに臨海実験所のある三崎があります。なぜ、三崎が臨海実験所の場として選ばれたのでしょうか。それは周辺の海岸の地形に特徴があるからです。非常に複雑で、それぞれの環境に適応する生物が生息し、磯では珍しい生き物がずいぶん見られます。干潟に行きますと、得体の知れない、不思議な生き物たちがいます。多様な沿岸環境のおかげで、三崎の生物の種類は世界一を誇ります。したがって、新種の発見や、進化の研究に最適な場と言えます。日常的に採取できる生物としては500種。魚や小さな生物を入れると一万種を超えると言われます。海流をみますと、夏には暖流に乗って亜熱帯の動物がやってきます。冬には寒流に乗って北方の動物もやってきます。そして、相模湾には深海があり、ここでちょうど生物の生息に適した温度の暖流と、栄養塩類に富む寒流がぶつかって、プランクトンが大量に発生します。その死骸、すなわちマリンスノーが降り注ぎ、深海に栄養をもたらすわけです。また、広くて人口の多い関東平野から流れ込む河川からも、栄養塩類が豊富に供給されプランクトンが発生します。このプランクトンから生じるマリンスノーは東京海底谷とよばれる深い谷を通って、相模湾の深海に到達します。深海には生きている化石が多く生息して
おり、深海生物は進化の研究に貢献します。外洋にある深海では、海水が貧栄養のためプランクトンがあまり生息しません。また、少ない死骸もバクテリアによって分解されるため、栄養が海底まで届かないのです。普通の深海では、動物たちは食べるものがなく、海の砂漠とよばれています。しかし、相模湾だけは、栄養が海底に十分に届くというわけです。

さて、三崎に臨海実験所を設立することを勧めたのはモースとデーデルラインの2人です。モースと聞いて思い浮かべられるのは、大森貝塚。実は、大森貝塚はたまたま旅行をしている時に見つけたものであります。本来の彼の職業は、東京大学の動物学教室の教授です。明治10年に初代教授としてやってきました。モースとデーテルラインは、休日にはよく、風光明媚な江の島に遊びに行きました。そこの土産物屋で目にしたものは、非常に珍しい動物たちの殻でした。土産物として売っていたのです。彼らはそれを本国に持って帰り、学術誌に新種として報告するくらい珍しいものでした。そこで、モースは臨海実験所を最初に江の島に建てるのですが、後に土産物屋に並べられていた動物たちは、三崎の漁師たちがとったということがわかり、三崎に臨海実験所を設立するようにと進言したのです。面白いことに、デーデルラインは「江の島の土産物屋を探しまわれば、一流の博物館に匹敵するほどの海産動物のコレクションを集めることができる」と書き残しています。つまり、それだけ三崎には珍しい動物たちがたくさんいたということであります。その頃、箕作先生は、幼少期から青年期を迎えています。箕作先生は、津山藩の名門学者の家系に生まれ、親族に物理学の長岡半太郎、法学の美濃部達吉、そして、初代動物学会長になった石川千代松がいます。14歳で東京大学の前身の南校に入学しますが、その1年後に、渡米し、工科大学に入学しています。しかし、どういうわけか工科大学をやめて、19歳で、エール大学で動物学を学び始めます。そこで海洋動物の重要性を認識されたということです。数年後、先ほど紹介しました動物学教室初代教授のモースに招聘され、24歳の若さで東大の教授となり、動物学教室を主宰しています。

明治15年、箕作教授が誕生、明治19年、臨海実験所が創立され、箕作教授が初代所長になります。1890年、明治23年に内国勧業博覧会に御木本氏はアコヤガイを出品し、御木本氏は審査員の箕作教授に出会います。箕作教授は御木本氏にアコヤガイの養殖を勧めて、人工真珠について助言をしました。御木本氏は、三重県の志摩でアコヤガイの養殖に着手して、3年後の明治26年に半円真珠の採集に成功しています。今の真珠はまん丸ですが、その頃は半球の真珠しかできていませんでした。それからシカゴで開催された世界博覧会に出品して、立案者として箕作教授が表彰されます。この当時の日誌が三崎実験研究所に残っています。1899年、明治31年、8月7日。「北風軟らかくも、波高き為退潮著しからず~」最後に御木本氏来訪と書いてあります。その前に、谷津君と書いてあります。谷津先生は、3代目の所長になる人です。その先生を君と言っているくらいですから、これは箕作先生の直筆ではないかと思われます。
さて、箕作先生は1905年、米国の学術誌に養殖真珠の論文を発表しています。この真珠養殖をさらに発展させた人物がいます。東京大学動物学教室の西川藤吉氏です。彼は、真円真珠という丸い真珠を作ることに成功し、明治40年、特許を出願しています。この西川氏は、御木本幸吉氏の二女と結婚することになります。明治40年、三崎の油壷湾で3000個のアコヤガイを養殖したという記録が残っていますが、おしいことに特許出願の2年後に亡くなってしまいました。これをさらに発展させたのが、東京大学臨海実験所助手だった藤田輔世です。輔世の日記を見ますと、明治41年に12000個のアコヤガイを養殖して、鉛の散弾を核として入れていたと記されています。東京大学は、20年間にわたり真珠養殖の実験を三崎の油壷湾で行っていましたが、真円真珠が完成したということをもって、目的は達したとして、研究をやめています。一方、御木本氏は志摩で研究を続け、さらに発展させて真珠養殖を産業にまで発展させていきます」

http://kokichi.mikimoto.com/pdf/mikimoto-symposium.pdf