幽霊の正体見たり枯れ尾花? | 手仕事人まるひげのブログ

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脈絡がないのですが、幽霊などの現象を、超感覚で考察してみようと思いました。

まず超感覚というのは、ルドルフ・シュタイナーが人智学の中で紹介している、拡張された感覚認識のことです。
通常、てんで勝手な思考の活動を、事物に即して思考できるように訓練した、その先にある、新しい種類の認識です。
(集中力が増すので、感覚は拡大せずにむしろ絞り込まれます。通常の感覚に付け加わるので、拡張という言葉を用いています)
現代的な思考は、事物に対して様々な解釈を与えがちですが、事物に即して思考できるなら、事物そのものが、いわばその本質を物語ります。
そのため超感覚の前には、事物自体が、本質を明らかにします。
ちょうど世界全体が、その秘密を書き記した本のようなものになります。
世界の秘密、いわば神秘が、超感覚の前に明らかにされるので、それを科学的に考察するならば、それを神秘学と名付けることもできます。
(詳しく知りたい方は、シュタイナーの「神秘学概論」とかお読みください)

超感覚にとって物質世界は、”前物質的存在”と言えるものが、凝縮し硬化したものであるように認識されます。
”前物質的な存在”のことは、現代の用語で、”霊”に相当します。
”霊的なも”のが凝縮することで、物質が生じていると、超感覚には把握されます。
この”霊的なもの”は伝統的に、”四大元素”、あるいは”元素霊”(エレメント)と呼ばれています。

(日本では八百万の神々などに相当するようですが)
物質世界において、四大元素はその本来の活動を停止しており、それによって人間の持っている感覚は、感覚のとらえる対象のことを、物質であると認識できています。

もし、感覚世界において四大元素が本来の在り方をするならば、私たちの意識を朦朧とし、思考することは難しいでしょう。
現代の自然科学や物理科学は、いわば活動を停止した(仮死化した)四大元素、あるいは元素霊を、その研究対象としています。

感覚が拡張すると、自然科学は超感覚の領域にまで広がるのでしょうが、それはまだ先のことのようです。

(未来の自然科学は例えば、生命は物質存在ではなく、物質によって表現されている超感覚的なものであると、認識するでしょう)

物質世界で活動を停止している元素霊ですが、人間の感覚を通して魂の中に取り込まれると、本来の生命を蘇えらせることがあります。
例えば物質に付着している赤と呼ばれる色彩は、物理学的には電磁気の振動数ですが、魂にとってはそれ以上の意味を持ちます。
音楽は物理学的には空気の様々な振動ですが、魂にとっては単なる振動以上の意味を持ちます。
魂にとっては物質的な意味以上の意味を持つそれが、蘇えった元素霊です。

訓練されたテイスターの味覚がそうでない味覚と異なるように、超感覚のための訓練を受けた魂は、感覚的に認識されるものを普遍的に(つまり主観を排した姿で)魂の中で蘇えらせます。
(感覚的な認識を魂の中で普遍化させるのが事物に即した思考です)
けれども味覚の訓練を受けてない人の味覚の多くが主観的であるように、超感覚のための訓練を受けたことのない人の魂の中で蘇える元素霊の生命は、主観的な色合いに染まっています。
(例えば音や色彩への印象が、個々人によってばらばらだったりするように)
感覚的な印象が、自分でも意識できないような過去の記憶や印象と、自分の意思によらずに結びつきます。

(このことで感覚印象は主観的になります)
感覚的な印象が、ネガティブであったり恐怖であったりする記憶と結びつくと、その感覚対象を、”怖い”と思い、そう感じます。

ところで、物質的には存在しないものが見えるという時、それは身体的な機構に、依存しているようです。
統合失調症やある種の認知症において幻覚が見えるとき、脳の中のある物質が、その原因であることがあります。
出産の後の女性が、一時的にですが、見えないものを見ることがあります。
現代の科学はまだまだ本来の意味では科学的ではないので、多くの場合、先入観や偏見から、こういった事象について、きちんと研究しようとはしません。
(本来、その姿勢こそが、”非科学的”なのですけれども)
きちんと研究をするならば、将来、見えないものが見える身体的な機構を、解明することができるのではないかと思います。

(具体的には、夢を見る意識状態が覚醒状態にまで高まるときに、様々な”霊的”と呼ばれる体験をすることがあるのですが、ナルコレプシーの病理において、そういったことが研究され始めてはいるようです。精神医学で解離と呼ばれていう症状でも、覚醒と半覚醒の意識の混濁が見られますが、ここにも解明の余地がありそうです)

無意識に過去の記憶印象に結び付く感覚印象が、特殊な身体機構によって増幅されることによって、いわゆる”幽霊”などが、観られるようです。
(人によっては元素霊と親和性の高い身体的な機構を有していることがあり、そういう人の場合、それはより創造的な内容となります)
そう言うと、「幽霊とは特殊な身体機構によってもたらされる、すなわち幻覚に過ぎない」と結論付けられそうですが、実際のところはそうでもないようです。

”幽霊”などの現象の現れる場所に、超感覚(そのための訓練によって拡張された感覚)が観察しても、特有の印象を感じ取ることがあるからです。


これは、「空間心理学」と名付けても良いかもしれないのですが、人間の魂は、視覚情報などを通して流れ込んでくる、山や川など土地の形態、道路や家の中の配置などの空間的な形態に、影響されることがあります。
現代の心理学では、「ヒューマンエラーの心理学」と言える分野がありますが、それを発展させることができれば、「空間心理学」と呼びたいものが、その中に見出されるのではないかと思います。

(空間的な配置が、感じ方や思考内容に、影響を及ぼすのです)
空間心理学と呼びたいものに見出されるものは、”風水”と呼ぶこともできます。
この、特有の空間的な事象を、特殊な身体機構が受け取ることによって、”幽霊”と呼ばれているものを観てしまう、そういうことも、あるようです。

 

つまり、”観える”身体的機構を持っているからこそ、そうでなければ見えないものが見える、ということです。

(見えている内容は個人の記憶体験などに依るため、観る人によってそれが異なっていたり、主観によって色濃く染め上げられていることもあるようですが)


とはいえこの、幽霊が見えるような空間的な配置、構造は、幽霊が見えない人にとっても、多かれ少なかれ、心理的で具体的な影響を及ぼします。

(ネガティブなものであればネガティブな影響を及ぼし、ポジティブなものであればポジティブな影響を及ぼすということです)
理屈がちゃんと把握されていれば、空間的な配置を改善したり、空間的な印象を買えるものを配置することで、場の影響を、いわば風水を、改善できるようになるのではと、思われます。
この感覚と認識を持っていたかつての知恵者が、お札や風水などを、発明したではないかと想像されます。

”幽霊”などの現象を、超感覚的に考察してみました。
とは言えこの考察は、一面的なものにすぎません。
強い人間の想いが空間のエーテル(科学的でない用語ですみません)に強い痕跡を残すと、その想いがずっと続くようなことがあるようで、そういうことの認識から、慰霊碑や祠などが、建てられるようになったようですし。
少なくとも超感覚的認識は、漠然と怖いものをただ恐れるのではなく、適切な対処を、見出して行ける気はします。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」とは、心の在り方が見せる妄想的なものですが、単なる心の見せる妄想に過ぎないものであったり、そうでなかったりすることもあります。

その両者に区別をつけることも、超感覚にはできるように思います。