人間と悪魔 | 手仕事人まるひげのブログ

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 相撲と芝居、ときどき神秘学、その他日常…

今から30年位前のインターネット黎明期。

世界中がネットでつながれば情報格差がなくなって、世界中から貧しさがなくなると思っていました。

世界がネットでつながった今、けれども富の局所的な集中はますます強まり、地球上の貧富の差は、より際立つようになりました。

経済のことがわかるようになった今では、弱肉強食経済の在り方をやめない限り、経済格差をなくすことは不可能であると思うようになりました。

ネットで世界中がつながるようになった現在、むしろ国々の分断は大きくなっています。

弱肉強食経済の下では、まるで自国ファーストが正しい国の在り方のようです。

自国ファーストでないと、より強い国に、自国の富(やさまざまな資源)が奪われ、流出するのですから。

日本には”近江商人の三方よし”という経済理念があります。

ウインウインを超えた、”売り手よし買い手よし地域よし”というもの。

自然環境に喩えるなら、生物多様性経済ということです。

自然環境において弱肉強食が発生すると、発生した地域の自然環境は崩壊します。

経済においても弱肉強食経済によって、地域の商圏が崩壊し、地域の文化も崩壊します。

弱肉強食経済は地域の文化や経済圏のみならず、自然環境も破壊します。

国々の分断と対立が進み、新たな世界大戦へとつながってもおかしくない世界情勢。

さらに地球規模で自然災害が起こるようになった昨今。

人類はいったいいつになったら、弱肉強食経済を手放せるのでしょうか。

 

 

さて、神秘学では悪魔のことを、アーリマンとも呼称します。

ゾロアスター教に出てくる、「光の神アフラ・マズダが創造した世界を破壊し被造物を殺戮する存在」のことです。

地球規模での自然災害が頻発するようになった昨今、世界を破壊し生き物を殺戮する力を、しばしば私たちは目にします。

 

破壊的で凶暴な力は、動物の中にも見ることができます。

自然の中だけでなく、動物の中にも、アーリマン的な力の発現を、見ることができます。

しかし動物たちを悪の存在であると決めつけることはできません。

善悪は、自らの意思でそれを選ぶことができるという、自由意志を持つ存在にだけ、問うことができます。

(自然現象は善でも悪でもなく、ただ、そう在るものです)

動物たちは本能によって、自由な意思が束縛されています。

人間には動物たちのように本能に束縛されていない側面があり、それ故に自由意志を持つことができています。

自分で選ぶことができるので、行為に対する責任も、自分で負わなければなりません。

 

自然界の中で、生命力と呼ばれているものは、悪の力に類する、日本では荒神と呼ばれるような荒々しい力が、秩序立てられたことによって現れているものです。

(詳しい説明は長くなるので省きます)

動物の中でこの力は、本能によって方向づけられた形で現れます。

人間においては、まったく無秩序に、この力は現れます。

地球規模での自然災害の多発は、結果を顧みることのなかった人間の経済活動の結果です。

(人間はこの破壊の責任を取る必要が有りますが、不思議なことにその能力を持っているというのも人間であり、人間の特殊性です)

この破壊は間接的なものですが、直接的にも人類は、様々な兵器を作り出し、使っても来ました。

世界を破壊し生き物を殺戮する力を、人間は生み出しました。

人間はもっと直接的にも、無秩序な破壊衝動にかられ、破壊や殺戮に興じることさえあります。

 

詳しくは割愛しますが、自然世界は植物の生成において、この破壊的な衝動が秩序立てられ、生命を生じさせる力になりうることを、示しています。

(これは仏教における蓮の花の理念としても昔から知られています)

キリスト教では「人は神になるべく生み出された」と言われていますが、まさにこの悪の力を、破壊の力、アーリマンの力を秩序立て、それを創造的なものへと造りかえるために。

(遺伝子操作のようなアーリマン的な技術ではなく、生命そのものを生み出すような業です)

いつか神の御業を行うことができるようになるために、神々からの導き、言い換えれば支配から離され、自由意志を得ました。

自由意志がないと、人間は悪の力を善の力をもって造りかえることができないからです。

(これが現在、人間が神とつながっていない理由で、旧約聖書では知恵の実の逸話として表現されているものです)

人間は本当に、神になるべく生み出されたのです。

神になるべく生み出されたので、悪の道へと迷う可能性を持ってしまったのです。

 

進歩した現代人は、神々への盲目的な信仰から自由になりました。

迷信から自由になることは人間の進歩でしたが、代わりに神々への信頼も見失いました。

神々への信頼を見失うということは、その存在を無いものとするということでした。

神々を無いものとするとき、自らの内の悪の力を造りかえるという方向性をも、見失ってしまいます。

 

ニュートンあたりに端を発する現代科学は、アーリマンの影響を受け、目に見えないもの、超感覚的なもの、神的なものを認識できない知性ばかりを、発達させてしまいました。

神を信じたい人間は、知性がそれを見いだせないがゆえに、ますます盲目的に、無知性に、神を信じるしかなくなりました。

(アメリカのキリスト教福音派に、その典型を見ることができる気がします。彼らにとってはダーウィンの進化論もまやかしです)

知性は本来、悪の力を創造的に用いるための道具です。

神々を見いだせない現代の知性は、人間の欲望の道具であることによって、アーリマンの下僕です。

(弱肉強食経済もアーリマン的知性の創造物です)

 

ゲーテあたりに端を発し、シュタイナーによって受け継がれた、再び神々を認識することのできる知性は、消えはしないまでも、とても小さなともしびです。

エコだったりロハスだったりする活動や思想も、まだまだ生ぬるさが否めません。

 

悪魔に取り憑かれた人間の行為を見て、人間存在を憎むようになることは、アーリマンの思うつぼです。

人間が悪に迷うようになった理由を知ると、人間に対する寛容さが少し増します。

人間に対する寛容さが少し増すとしても、現代の人間の在り方を見ると、アーリマンに対する無力感を、感じざるを得ないというのが本音です。