哲学が謎 | 手仕事人まるひげのブログ

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 相撲と芝居、ときどき神秘学、その他日常…

 

特にネタがないので、唐突ですが、オカルトっぽい話題です。

今回は、哲学についての批判になっちゃいますけど…。

 

わたくし自身は、ルドルフ・シュタイナーを通して哲学にふれたのですが、その印象から言えば、「哲学というのは物事を認識するという事においてとても真剣で、認識に対する輪郭を、鮮明で明瞭にするところがある」いうことでした。

 

ところが門外漢的に哲学に接してみると、哲学というのは独自の世界観の中でその理論を構築し、それを現実に当て嵌めて見ることで、それまでとは別の視点で世界を見ようとする試みをしている、そんな印象でした。

 

(20世紀の特徴として、さまざまな観念や概念、世界観を通して現実世界を見て理解・解釈しようという事が行われていた印象ですが、これは先入観を通して物事を見る元になっているようにも、自分には思われます。実際、現代人は何かを”考える”という時、既成の概念や観念を事物に当て嵌めるという事をします)

 

哲学的な世界観のようなものに、どうにも馴染めない自分ですが、哲学が世界を認識しようとする真剣さや誠実さについては、職人的な種類の共感を持つことが出来ます。

自分が生きて生活している様々な自然世界の領域や、人間社会からの、そして日々の生活全体から受け取る印象の中に、単なる個人的あるいは主観的なものと、そうではないと思える事柄に、区別をつけることが出来はじめるからです。

 

それは初め、自分自身の魂の活動を通して一種の心理学を認識して行くようなところがあるのですが、他方で自分の生きている世界への感性をも広げてゆくとき、世界全体がちょうど、「”直接的には表現されていないもの”の表現である」と言う認識が、湧き起こってきます。

 

意識の中に沸き起こるその世界は、視覚や聴覚など、人間に与えられた感覚器官に映る世界を超えたものとして、”超感覚的世界”と呼ばれるものだと思います。

(それは見えているものが姿を変えるというのではなく、見えているものはそのままなのだけれども、内的なイメージとして超感覚界を捉えるという感じで、想像されがちな霊視とかとは違うと思いますけども)

 

感覚的に見えている世界から、見えているものを通して表現されてる世界へと意識の焦点を移すとき(つまり感覚界から超感覚界にという事ですが)、そこには語り継がれているような神秘的な世界を、見出すことが出来ます。

不思議なのは哲学が、どうしてこの領域を認識しえなかったという事のなのですけれども…。

 

思うに哲学は、自らの認識する領域に、制限を設けているのかもしれません。

もしかするとそれは、学問的に霊的な世界を否定しなければならなかった時代があったからなのかもしれません。

あるいは信仰的に、哲学が神々への領域へと立ち入ることを、制限されていた時代があったからなのかもしれません。

(さらにはそれ自体が、アカデミックなドグマとなっているのかもですが)

 

いずれにしても、その手段を持ちながらも超感覚領域への認識を拒み、それであるがゆえに構築されたかのような独自の世界観に居座り続けているように思える、いまの哲学が、自分にとっては謎です。

 

誰も興味を持たないであろう話題で、失礼しました。<m(__)m>