かみさまのねがいこと | 手仕事人まるひげのブログ

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 相撲と芝居、ときどき神秘学、その他日常…

以前、ゲーテ的な自然認識について、少しお話ししたことがあります。
↑この記事の下の方です。

ルドルフ-シュタイナーはその著作で、自然が表現している秘密を理解できる方法、訓練を紹介しています。
その方法に従って自分自身の感覚を育ててゆくと、実際に世界に対する感じ方が変化してきます。

たとえば恐竜の化石を見ると、その大きさに感嘆したり、過ぎ去った時代に思いをはせたりできます。骨格のフォルムに関心を寄せることもあるかもしれませんし、生きていた状態のことを推理したり想像したりもできます。
感覚が育ってゆくことによって、こう言ったことに別のものが加わります。
具体的には、骨が感じるであろう重さを、感じることができるようになったりするのです。

この重さについては、自分の身体の中で骨や筋肉が経験している重量感が基準になるのですが、
恐竜の身体の重さを体験できると、これだけの大きさの身体をこの骨や筋肉では支えきれない、と感じざるをえません。
じっさい、力学的に計算すると、大型恐竜は、どうにか歩くのがやっとだそうです。走るなんて、不可能に近いとのこと。
恐竜たちが住んでいた時代には、地球の重力が違っていたのだとさえ考えられています。

このように、感覚が育ってゆくと、自然物を外側から観察するだけではなく、その内側から体験することができるようになってきます。
たとえば光を浴びて育ってゆく植物を内的に体験できると、まるで水中を浮遊するような軽さを経験できます。
植物はこの軽さの中で、まるで上方に向かって浮き上がるように成長するのだと、そのように体感することができるのです。

シュタイナーは、ゲーテの自然科学に関する論文を編纂した経験を持っています。
そのシュタイナーによると、ゲーテ自身はこの作用について、ニュートンの重力に対し、軽力と名付けたそうです。
リンゴは重力によって地面に落ちますが、植物の成長には軽力が作用しているのです。
ただこの軽力は、絵に描かれた風船のごとく、植物によって表現されているに過ぎません。ですので、現代科学のやり方ではそもそも測定もできないので、軽力というのは科学的ではない、とされています。
(そもそもこの感性を持たない人にとって、軽力を認識することさえできません)
ですので、しかたがないといえば、しかたがありません。

この軽力の作用は植物だけではなく、人間にも作用しています。
それは動物の骨のフォルムと人間の骨のフォルムの違いを、恐竜の骨を体験したように体験するだけでもわかるのですが、
人間の場合そのもっとも目立つ表現が、赤ん坊が四つん這いのの状態から立ち上がる瞬間です。
以降、成長が続く限り、おおよそ思春期くらいまで、軽力は身体に作用し続けます。
(もちろん、物理的には測定できないものなので、現代の意味で科学的に証明はできません。心が軽いと言うとき、その軽さを物理的に数値化できないのに似ているかもしれません)

さらに、植物の旺盛な成長力、生命力を体験できると、別のことがわかってきます。
この成長力、生命力については、たとえばアスファルトを割って生えてくる植物や、
駆除しても駆除しても、しつこく生えてくる例えばドクダミなどの植物に、見て取ることができます。
この、成長力、生命力の源を体験すると、
意外に思えると思いますが、それが自分の中の怒りや破壊衝動、荒ぶる力、暴力、善と悪で言えば、悪の力に属していることがわかります。
まるで植物は、悪の力を利用してそれを自らの成長力に変え、生命を表現しているかのようです。

植物の生命力を体験するときに、
私自身は東洋人でもあり日本人で、そして文化的に仏教に親しみを持つので、
仏教の逸話に出てくる、蓮の花の理念を連想してしまいます。
伝説の中での仏陀はじっさい、悪を否定せず、それを自らの一部としたそうです。
蓮の花は汚れた水から自らを形作っています。つまり、蓮の花がその美しさを表現できるのは、汚れた水があるからです。
私たち人間も、自分の中の悪い心を完全に絶つことをせずとも、
いつかそれを作り替え、善なるものへと変容させることができるようになると、
そのように植物が、諭してくれているように私には思えす。

多くの宗教や神話が、世界や人は、神様によって生み出されたと語っています。
ある宗教では、人間は神に似せて作られたと言われています。
(人間は世界全体の縮図、小宇宙であるとも言われています)
私たち自身、社会的に責任を担ったとき、次に続く人達を育てたり、新しく生まれてきた子供たちを育てたりします。
そんな私たちが願い祈ることとは、彼らがより健全に、より自分たちよりも前進してほしいということなのではないでしょうか。

私たち人間は、星に願いをかけたり、神様に願ったりします。
それでは神様は、いったい、誰に願うのでしょうか。
それはきっと、私たち人間に願うのだと思うのです。
私たち自身がよりよくなり、より高みへと前進してゆくことを神様は願うのだと、そう思うのです。


まるひげでした。