このブログを再開したとき、一番モヤモヤしていたのは夫のことだった。

ま、いまでもスッキリ解消したわけではないが、それでもずいぶんマシにはなってきた。

 

そして、両親とのことをあれこれ思い出した。

なかでも父はたいへん高圧的だったので、わたしはうまくコミュニケーションが取れなかった。

 

父から放たれた心無い言葉に、たくさん傷つき、追い詰められ、息ができなくなっていった。

 

母については、共感は得られなかったものの、それなりに会話はあったので、関係性は悪くないと思っていたのだが。

 

「夫」、そして「父」と、記憶を深く潜っていくうちに、すっかり忘れていた「母」とのことを思い出した。

 

これは自分でもすっかり忘れていた。

「母とのあれこれ」は記憶の底に沈め、その上に「父とのあれこれ」で蓋をし、「夫とのあれこれ」を重しとして乗せていたようだ。

 

 

 

記憶を遡れば、モノゴコロがつくかつかないかのころから、わたしはひとりでいることが多かった。

 

あまり、かまってはもらえなかったようだ。

 

そう。

 

母親から、

「気持ち悪い」と言われたんだよね。

 

ひとの嘘を見抜くような、じっと見つめる目が気持ち悪いって。

 

その目を避けるため、母はなるべくわたしと関わらないようにしていたんだと思う。

 

 

 

 

わたし、あの家での居場所を見つけることができなかった。

 

だから、ずっと迷子の感覚を持ったままなんだろうな。

 

 

母と父の関係も、表面的にはなんの問題もなさそうに見えていたが、温かいものではなかったな。

 

 

でも、もういいや。

 

母は母で、わけわからないなりに一生懸命だったんだろうし。

父は父で、わけわからないなりに一生懸命だったんだろう。


 

 

 

 

あー。

すっきりした。

 

 

 

許すとか、許さないとか。

許せるとか、許せないとか。

 

もう、そういうのじゃなくて、

「そういうひとたちだったんだなあ」

「あれがあのひとたちの精一杯だったんだな」

とわかる。

 

 

あのひとたちは、わたしの要求に応える術を持たなかった。

いや、要求って言っても簡単なことなんだよ。

ただやさしく抱きしめて欲しかっただけなのにね。

 

できなかったんだよね。

できないことを求めていたんだね。

 

合わなかっただけだね。

 

 

 

そうなると、夫も、

「そういうひとなんだなあ」

ということで納得がいく。

 

 

夫も夫なりに、一生懸命。

ただ、わたしの思うことと、ちょっとズレているだけ。

 

 

ま、みんなそう。

 

わたしもわたしなりに、わたしを真摯に生きていく。

 

「書を捨てよ町へ出よう」

と言ったのは、寺山修司さん。

 

(このタイトルはむかしから知っているけど、内容は存じ上げない。

映画にもなっているようなので、今度、観てみよう。)

 

 

さてさて。

今日、わたしは、「書籍を読んで散歩に出かけた」のであります。

 

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相変わらず積読が増えて、読むのが追いついていない状況ではあるけれど、その中から一冊選び、読了した。

 

浅生 鴨さんの『どこでもない場所』

 

どこでもない場所

 

 

「あ、そうかも」というフレーズから、浅生 鴨(あそう/かも)というペンネームを思いついたとか。

 

この本の帯にある「迷子でいいのだ」という言葉に強く惹かれたのは、わたしがずっと迷子の感覚を持っているからか。

 

この本、好き。

とても読みやすく、わたしのカタチにならないボワボワとした想いを言語化、文章化してくれたみたいな箇所もあり、うれしくなった。

 

で、読み終えたら。

むしょうに散歩にでかけたくなったのだ。

 

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わたしの日常に「散歩」という習慣はない。

なのに、散歩がしたい。

 

目的地を決めず、気の向くまま、足の向くまま、散歩がしたい。

 

 

よし。

思い立ったら、行動あるのみ。

 

というわけで、

さっそく散歩してきたよー。

 

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知っている道、通ったことのない道、商店街のアーケード、むかしながらの古い町並み、にぎやかな場所、ひとの通りがまばらな場所、、、。

 

約1時間45分の散歩となりました。

 

自宅の近所ではあるのだけれど、見たことのない景色にも出会えて、小旅行の気分。

 

方向音痴のわたしは、案の定、方向感覚がおかしくなり、ちょっと迷子になったりもしたけれど、しばらく歩けば知った場所に出れるという、近所ならではの安心感。

 

 

右、左、右、左、交互に足を出し。

右、左、右、左、どんどん歩く。

 

つつーっと汗が滴る。

マスクで息が熱い。

 

それでも、歩く。

右、左、右、左、ひたすら歩く。

 

歩くって、いいね。

 

買物だとかの用事のために出かけるのではなく、歩くという目的のためだけに歩く。

 

真夏の8月ではあるが、ときおり吹く風が心地良い。

 

フォーリナー目線で、地元の町並みを味わうことができる。

 

 

 

うん。

 

また散歩しようっと。

 

わたしは、もともとしあわせなひとです。

 

だけど。

うれしいことなどがあって、

「わーい、やったー♪」

って素直に喜んだら、

そのたびに、

「ふん、そんなことぐらいで」

と、父親から嫌味たっぷりバカにされました。

 

願っていたことが叶ったりして、

「わーい、よかったー♪」

って素直に喜んだら、

そのたびに、

「調子に乗ってたら、そのうち痛い目にあうよ」

と、母親から冷めた目で見られました。

 

 

なんで一緒に喜んでくれないんだろう。

なんでわたしの喜びに水を差すんだろう。

 

とっても謎でした。

 

親は子の幸せを願うものだと聞くけれど、、、。

わたしの両親は、わたしが喜ぶと、嫌味を言ったり、バカにしたり、水を差したりしました。

 

 

おとうさん、おかあさんは、毎日が苦しくて、ツライことばかりなんだろうな。

そんな毎日でも、弱音を吐かず、歯を食いしばって、我慢することが大事。

それが人間としての美徳なんだって、いつも言ってるもんな。

我慢している自分たちはとっても偉いんだって。

 

 

だけど、、、。

苦しいことばかりの毎日なんて、わたしには無理だ。

生きている意味がわからない。

 

だから、訊いてみた。

「なんてそんなに我慢して、頑張って生きなきゃいけないの?」

そうしたら、

「生まれたからには、生きなきゃいけない。子どもができたら、親としての責任もある。家族のため、子どものために、我慢が必要だ」

と、返ってきた。

 

ああ。

お先、真っ暗。

 

いまでさえこんなに息苦しいのに、おとなになるというのはもっともっと忍耐が必要とされるのか。

 

無理だ。

生きるのを放棄したい。

 

ゴクツブシのわたしがいなくなったら、おとうさんとおかあさんは、もっとラクになるよね。

 

そう何度も何度も考えました。

 

 

しかし。

「生きていてよかった!」と感じられる喜びが、ときどきやってくるのです。

 

嬉しくて、楽しくて、のびのび自由で、たっぷり息ができて。

まさに、この感覚を味わうために生きてきた。っていう喜び。

 

うん。

だってわたしは、もともとしあわせなひとなんですから。

 

 

そのしあわせを汚されないよう、わたしのうれしさやよろこびは、できるだけ両親に言わないよう、知られないようにしました。

 

 

 

両親から離れたわたしは、とてもしあわせな日々を送っています。

 

ただ、たまに、

「あんたは脳天気でいいよね」

「あんたは世間知らずの苦労知らずだからね」

「ひとの気も知らないで」

そんなことを言うひとが現れるのです。

 

ともだちだと思っていたひとからも、言われたりします。

 

わたし、悪いことしてますか?

楽しみを見つけて、うれしく思ったり喜んだりしているだけなのに。

 

どうしてわざわざ罪悪感を植え付けようとするのでしょう。

 

 

以前は、そういうことを言われるたび、言い訳していました。

 

「そんなことないよ、わたしにもこんなツライことがあるよ」

「実は、こういう問題が起こってて、、、」

 

自分だけ幸福を感じているという罪悪感を打ち消すため、実際は平和でしあわせな毎日の中から、問題をひねり出し、プラスマイナスゼロにしようとしていました。

 

ずっと、幸福感と罪悪感はセットでした。

 

 

でも、もういいです。

 

罪悪感を植え付けられるようなスペースは、もう設けません。

かわりに、いろとりどりの花を植えます。

 

 

 

ひとそれぞれです。

なにがしあわせかも、ひとそれぞれです。

 

 

わたしは、わたしが生きやすい毎日を夢見て、それに向かって努力してきました。

 

自分がなりたいようになるよう、努力するのがわたしの人生です。

 

いま、わたしは機嫌よく暮らしています。

いろいろあって、いい日々です。

 

 

 

これからも、頑張ります。

 

やりたくないのにやっていることはやめて。

やりたいのにやってないことはやってみて。

好きなことを好きと言い。

嫌なことはやめてと言い。

 

いっぱいしあわせを感じて生きていきます。

 

わたしは、感動するために生きていると思っています。

 

感情が動くこと。

それが感動です。

 

たくさん感動して、バッチリ生きていきます。

 

 

 

罪悪感、さようなら。