わたしは、もともとしあわせなひとです。
だけど。
うれしいことなどがあって、
「わーい、やったー♪」
って素直に喜んだら、
そのたびに、
「ふん、そんなことぐらいで」
と、父親から嫌味たっぷりバカにされました。
願っていたことが叶ったりして、
「わーい、よかったー♪」
って素直に喜んだら、
そのたびに、
「調子に乗ってたら、そのうち痛い目にあうよ」
と、母親から冷めた目で見られました。
なんで一緒に喜んでくれないんだろう。
なんでわたしの喜びに水を差すんだろう。
とっても謎でした。
親は子の幸せを願うものだと聞くけれど、、、。
わたしの両親は、わたしが喜ぶと、嫌味を言ったり、バカにしたり、水を差したりしました。
おとうさん、おかあさんは、毎日が苦しくて、ツライことばかりなんだろうな。
そんな毎日でも、弱音を吐かず、歯を食いしばって、我慢することが大事。
それが人間としての美徳なんだって、いつも言ってるもんな。
我慢している自分たちはとっても偉いんだって。
だけど、、、。
苦しいことばかりの毎日なんて、わたしには無理だ。
生きている意味がわからない。
だから、訊いてみた。
「なんてそんなに我慢して、頑張って生きなきゃいけないの?」
そうしたら、
「生まれたからには、生きなきゃいけない。子どもができたら、親としての責任もある。家族のため、子どものために、我慢が必要だ」
と、返ってきた。
ああ。
お先、真っ暗。
いまでさえこんなに息苦しいのに、おとなになるというのはもっともっと忍耐が必要とされるのか。
無理だ。
生きるのを放棄したい。
ゴクツブシのわたしがいなくなったら、おとうさんとおかあさんは、もっとラクになるよね。
そう何度も何度も考えました。
しかし。
「生きていてよかった!」と感じられる喜びが、ときどきやってくるのです。
嬉しくて、楽しくて、のびのび自由で、たっぷり息ができて。
まさに、この感覚を味わうために生きてきた。っていう喜び。
うん。
だってわたしは、もともとしあわせなひとなんですから。
そのしあわせを汚されないよう、わたしのうれしさやよろこびは、できるだけ両親に言わないよう、知られないようにしました。
両親から離れたわたしは、とてもしあわせな日々を送っています。
ただ、たまに、
「あんたは脳天気でいいよね」
「あんたは世間知らずの苦労知らずだからね」
「ひとの気も知らないで」
そんなことを言うひとが現れるのです。
ともだちだと思っていたひとからも、言われたりします。
わたし、悪いことしてますか?
楽しみを見つけて、うれしく思ったり喜んだりしているだけなのに。
どうしてわざわざ罪悪感を植え付けようとするのでしょう。
以前は、そういうことを言われるたび、言い訳していました。
「そんなことないよ、わたしにもこんなツライことがあるよ」
「実は、こういう問題が起こってて、、、」
自分だけ幸福を感じているという罪悪感を打ち消すため、実際は平和でしあわせな毎日の中から、問題をひねり出し、プラスマイナスゼロにしようとしていました。
ずっと、幸福感と罪悪感はセットでした。
でも、もういいです。
罪悪感を植え付けられるようなスペースは、もう設けません。
かわりに、いろとりどりの花を植えます。
ひとそれぞれです。
なにがしあわせかも、ひとそれぞれです。
わたしは、わたしが生きやすい毎日を夢見て、それに向かって努力してきました。
自分がなりたいようになるよう、努力するのがわたしの人生です。
いま、わたしは機嫌よく暮らしています。
いろいろあって、いい日々です。
これからも、頑張ります。
やりたくないのにやっていることはやめて。
やりたいのにやってないことはやってみて。
好きなことを好きと言い。
嫌なことはやめてと言い。
いっぱいしあわせを感じて生きていきます。
わたしは、感動するために生きていると思っています。
感情が動くこと。
それが感動です。
たくさん感動して、バッチリ生きていきます。
罪悪感、さようなら。