思い出した。

なにかあるたびに繰り返された、父親との会話の堂々巡り。

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「今後どうするつもりだ」

  「〇〇をやろうと思ってる」

「そんなしょうもないことやめておけ」

  「しょうもないって決めつけないで」

「失敗したらどうするつもりだ」

  「失敗するとは限らないでしょ」

「失敗したら、それみたことかと世間から嗤われるぞ」

  「だってやってみたいんだもの」

「そんなあやふやな甘い気持ではダメだ」

  「じゃあどうすればいいと言うのよ」

「そんなもの、自分で考えろ」

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失敗は絶対NG!だなんて、なんとも生きづらい。

失敗を、

「それ見たことか」

と嗤うのは、世間ではなく、あなたでしょ。


そして、
「親の言うことを聞かないからだ!」

って、鬼の首を取ったように得意満面な顔をするのでしょ。



こういう親に育てられたら、子どもはツライ。

 

自分に子どもができて、母になると、喜びと同時に、つねに心配がつきまう。

 

お腹にいるときも、生まれてからも、また成長するにつれても、いろんな心配が出てくる。

 

学校へ行くようになってからは、

勉強は大丈夫だろうか、友達とはうまくやれているのだろうか、塾は行かせたほうがいいのだろうか、習い事はどうしよう、、、。

と、心配事は尽きない。

 

だけど実際のところ、いくら心配したって、あれこれ言ったって、どうにもならないんよね。

いや、どうにもならないどころか、逆効果。

 

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わたしの親も、わたしのことをいつも心配していた。

 

それと同じように、わたしは自分の娘のことが心配。

 

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だけど。

思い出しのだ。

 

親から、しつこく心配されているとき、こどものわたしは直感的に、その「心配の理由」を見抜いていたな、と。

 

だから、心配されればされるほど反発し、親の期待や希望とは違うほうへ行ったんだと思う。

 

 

わたしの父親の口癖が、

「心配をかけるようなことはするな」

「未成年のうちは親に責任があるのだから、親の言うことを聞け」

「ひとに迷惑をかけるような生きかたはするな」

というもの。

 

あまりにも言われ続けたことにより、父親の本心が透けて見えた。

 

「我が子であろうと迷惑をかけられるのは困る。特に未成年が何かやらかした場合、すべて親が尻拭いをしなければならないのだから、おとなしくしておけ」

 

 

そっか。

心配の理由は、迷惑をかけられるのが嫌だから、なんだね。

 

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なので、二十歳になるまで、わたしはわたしの人生を諦めた。

 

ぐっと我慢し続け、二十歳になったとき、

「これで自由だ!もう親にあれこれ言われる筋合いはない!」

そう心の底から叫んだ。

 

そしてわたしは、やっと親から分離できた。

 

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そんなわたしに子どもができて、わたしも子どもに対し、心配が溢れそうになった。

まさしく連鎖である。

 

そしてまた我が子も、子どものころのわたしと同じように、「心配の理由」を見抜くのである。

 

心配すればするほど、逆効果。

 

あー、あのころのわたしと同じだ。

 

 

 

だからわたしは心配をやめた。

いま一緒にいるこの毎日を楽しむことにした。

 

誰にだって、得手不得手がある。

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自分で出来ることはもちろん自分でやる。

だって、出来ることは自分でやったほうが早いし、得意なことは自分でやったほうが仕上がりも美しい。

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けれど、ひとにはどうしても苦手なものがある。

で、おもしろいのが、「どうしても苦手なもの」というのは、ひとそれぞれ違うということ。

これって、意外と盲点。


自分にとって苦手なもの、やりたくないことは、当然ほかのひとにとっても苦手でやりたくないもだのだと思っていたけど、、、違うんだよね。

だから、役割分担で生きる。

それぞれ得意なこと、苦にならないことをやるのがいい。

いろいろ分業してやったほうが効率も上がるし、なにより楽しい。


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小学校というところは、いろいろなことがマルチに出来るよう教育カリキュラムが組まれているのだと思うんだけれど、それはそれぞれのこどもたちの得手不得手を浮き上がらせることでもあるよね。


全般的に優秀な成績の子。
どれもがそこそこな子。
なにかが飛び抜けて良かったり、なにかが飛び抜けて悪かったりする子。
成績は良いのに、字があまりうまくない子。
きれいな字を書くのに、点数が取れない子。
座学は苦手だけれど、運動神経のいい子。
主教科の成績は悪くても、副教科の成績はいい子。
なぜかわからないけれど、やたらリーダーシップを発揮する子。
おとなしくて無口なのに、なぜか存在感のある子、、、。


こどもの数だけ、それぞれ特性があって、だからこそおもしろいと思うのだけれど。

みんな、ある程度の基準をクリアしないと、先生や親から怒られるのよね。

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まあ、はじめっから出来るっていうのもなかなかないし、手を抜いていたら出来るものも出来ないし。

やってみなきゃわからないから、いろいろなことを経験させてもらえる素晴らしいカリキュラム。

ただ、そこに収まらず、上や下や右や左、はみ出してしまうことがあるのは仕方がないこと。

だって、模範生ばかりじゃないもん。

だって、平均って、いろんなデータがあっての平均なんだもん。

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、、、つらつら書いてみた。


というのも、

小学校というところは、自分の(もしくは我が子の)得手不得手を見つけたり、特性を理解するためにあるんじゃなかろうか。

 

と思ったら、胸のつかえが下りたからなのでありました。