オリエント急行の歴史をまとめ始めました。
で過去分などまとめております。あわせて御覧ください。
◆ オリエント急行
カレー ~ パリ ~ ブカレスト ~ コンスタンツァ / コンスタンチノープル / アテネ
◆オーステンデ・ウィーン・オリエント急行(前身:オーステンデ・ウィーン急行) (オーステンデ〜ブカレスト/コンスタンチノープル ※リンツ以東はオリエント急行に併結)
◆ シンプロン・オリエント急行
カレー ~ パリ ~ イスタンブール / ブカレスト
◆ アールベルク・オリエント急行(スイス・アールベルク・ウィーン急行)
パリ ~ イスタンブール / ブカレスト
「シンプロン」「アールベルグ」の名称はどこから?
シンプロン・トンネル アルプス山脈を貫いてスイス(ブリーク)とイタリア(ドモドッソラ)を結ぶ国境越えトンネル
アールベルグ・トンネル オーストリアのフォアアールベルク州とチロル州の州境のトンネル
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1914 | 8月4日 第一次世界大戦でオリエント急行が停止。1916年からはベルリンからイスタンブールまでドイツの「バルカン列車(Balkanzug)」に置き換えられ、1917年からは新たに設立された独ミトロパ社(Mitropa Co.)が運行。 |
| 1917 | イギリス軍がテッサロニキ~ラリッサ線を完成させ、アテネと直通列車で結ばれる。 |
| 1918 | 11月11日 フランスのコンピエーニュの森(Compiègne)で休戦協定が締結される。その際、CIWL所有の2419号食堂車にて調印が行われた。 |
| 1919 | 第一次世界大戦終結。連合軍の寝台列車、パリ〜デル(Delle)〜チューリッヒ〜インスブルック〜ウィーン〜ワルシャワ間を走行。ベルサイユ条約の条項により、ドイツはCIWL列車を受け入れることを余儀なくされ、4月11日から新しくシンプロン・オリエント急行(SOE)がパリ〜トリエステ間で運行開始。トリエステからブカレスト、ツェムン(Zemun)へは寝台列車が接続(ベオグラードへは橋が崩壊したためフェリーで到着)。また、トリエステからアテネとイスタンブールへは、パリ〜ターラント間をSOEの寝台車で運行し、その後船で目的地に結んだ。 秋 オリエント急行の再導入とシンプロン・オリエント急行をイスタンブールまで延長運転する目的の鉄道会議が開催される。 |
| 1920 | 5月1日 パリ〜ウィーン間の軍用列車がオリエント急行に改名されたが、石炭不足により6月まで運休。ハンガリーがオリエント急行の輸送を拒否。 7月 シンプロン・オリエント急行は、パリ〜イスタンブール/アテネへ運転区間を延長し、寝台列車の運行区間はパリ〜オルソヴァ〜ブカレスト間とする。 |
| 1921 |
ドイツ鉄道はオリエント急行CIWLの食堂車を拒否し、ミトローパの食堂車に変更。シンプロン・オリエント急行はバーゼルとミラノを経由で、カレー、オーステンデのそれぞれからイスタンブールへ運行された。 |
| 1923 |
1月 フランス軍とベルギー軍がラインラントを占領した際、ドイツがオリエント急行の運行を拒否。そのため、バーゼル、チューリッヒ、インスブルックを迂回経由し運行し、これがアールベルク・オリエント急行の誕生となる。 |
| 1924 |
11 月 オリエント急行はミュンヘン経由で運転再開、スイス経由の列車はスイス・アールベルク・ウィーン急行と命名される。 |
| 1925 |
ミュンヘン〜ザルツブルク間が電気機関車での牽引が開始される 。また、オーステンデ・ウィーン急行が運転再開。 |
| 1926 |
オリエント急行のために最初の鋼製寝台車を製作。 |
| 1929 |
パリ〜ブカレスト間のオリエント急行がコンスタンツァまで再延長され、イスタンブールまでの船が運行。1930年、再び撤退。 |
| 1930 | イスタンブールから先、東方面へ接続するタウルス急行が運行開始。運転区間はイスタンブール〜テル・コッチェク(バグダッド行き)、イスタンブール〜トリポリ(ベイルート、ハイファ行き)。シンプロン・オリエント急行からはボスポラス海峡を特別フェリーが就航。 |
| 1931 | 9月12日 ハンガリーのビアトルバギー鉄道高架橋を走行中のオリエント急行の西行きがファシストテロリストに爆破される。後にテロリストは絞首刑に処された。 |
| 1932 |
5月22日 運行ルートが再編成される。パリ〜イスタンブール間の車両が1914年以前のルートで復活、パリ〜ブカレスト間の車両がアラド経由で運行され、ウィーンまでの運行だったアールベルク・オリエント急行は、オラデア経由でブカレストまで運転区間延長(週3回、オリエント急行と交互に運行)。なお、バーゼル〜ザルツブルク間、ヘジェシュハロム〜ブダペスト間は電気機関車が牽引。 |
| 1933 | シュトゥットガルト〜ミュンヘン間が電気機関車による牽引を開始。 |
| 1939 | 第二次世界大戦開戦によってオリエント急行は運転休止されたが、ミュンヘン〜ブカレスト便、チューリッヒ〜ブカレスト便、そしてシンプロン・オリエント急行は 1940 年まで運行された。 |
| 1940 | 6月22日 第一次世界大戦時の調停で使われたCIWL所有の2419号食堂車が、今度はフランスのドイツへの降伏文書調停に使われた(場所は、同じコンピエーニュの森)。 9月7日 ルーマニア国王カロル 1 世がシンプロン・オリエント急行をつかってスイスに逃亡。 |
| 1943 | シンプロン・オリエント急行はついにユーゴスラビアのパルチザンによって運行停止に追い込まれる。 |
| 1944 | ヒトラー命令で、CIWL所有の2419号食堂車が破壊される。 |
参考資料・文献
オリエント・エクスプレス物語 〜大陸横断寝台列車〜 ジャン・デ・カール著、玉村豊男訳 1982年
オリエント急行 教育社コモンセンスブック 教育社 1985年
オリエント急行の時代 〜ヨーロッパの夢の軌跡〜 平井正著、中公新書 2007
ThomasCookContinentalTimetable May 29-June 30 1983 ThomasCookLimited 1983(UK)
Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/オリエント急行