金曜日。
義母の容態が気になりながらも、遠方で、どうしても外せない仕事が入っていた。
いない間にお別れするのは嫌だなと、ずっと心が離れなかった。
急変の連絡がなくホッとしながら夕方帰宅して、夜、ちけもじっちゃんもみんな連れて病院へ向かった。
不随意運動は収まっていて、苦しそうだった表情も、不思議なほど穏やかになっていた。
はち切れそうに高かった血圧の値が逆に下降していて、なんだか悲しかった。
土曜日、日曜日と、親戚が集まって、緩やかに下降していく血圧の値を見守っていた。
代わる代わる声をかけたり、脚をさすったり、揉んだり、手を握ったり。
義母の家で寝たきりになっているおばあちゃんも、義妹たちが車椅子でICUに連れてきた。
義妹たちや義いとこ達が、おばあちゃんの世話をしたり、義母の容態を伝えたりしていた。
いつ鼓動が突然止まるかとビクビクしながらも、血圧はゆっくりゆっくりと下降していく。
下がっては少し上がり、また少しずつ下がる。
値が下がるたびに、アラーム音に驚かされる。
それでも、脚を揉んだり声をかけたりすると値が上がったりするのを確認しては、みんなで喜びを感じていた。
不思議なことに、義妹が脚を揉んでいたとき、義母の携帯から義妹の携帯に着信があったらしい。
義母の携帯には、発信履歴はなく。
きっと、マッサージが心地良くて、ありがとうと伝えたかったんじゃないかな、などと話し合っていた。
もうこれ以上、頑張ってとは言えない。
そう思うたびに涙が出てくる。
本当に、すごい人だった。
そろそろ、宇宙船に乗って、軽い体で自由に宇宙旅行を楽しんで欲しい、と思っていた。
じっちゃんも、子供たちも、親戚も、義きょうだいたちも、みんな代わる代わる義母と同じ空間で時折談笑したりしながら、同じ時を過ごし、その時を待っていた。
夏休みの最後の日々、子供たちと共に、義母との濃い毎日をすごし、もう値がこれ以上下がるのかと思うような値になりながらも、皆のいるところでその時を迎えず。
消灯時刻になり、次の日から仕事や学校が始まるみんなは、東京の義妹を残して解散するしかなかった。
そして月曜日。
日をまたいで子供たちを寝かしつけてウトウトした頃、義妹から電話が入った。
鼓動が止まったという連絡だった。
義弟が駆けつけた。
駆けつけられる人は限られていた。
その時を静かに迎えたのは、いかにも義母らしいと思った。
悲しみの時を過ごしきり、お別れを伝えきり、和やかに思い出話で談笑する親戚同士の温かい雰囲気の中で最期の時を過ごし。
その時をみんながいる前で迎えたら、みんな泣き崩れてしまっただろうから、談笑の雰囲気のまま別れ、静かに旅立っていったのが、いかにも義母らしいと。
もう充分頑張った義母。
別れの悲しみより、お疲れ様でした、ありがとうございました、ゆっくり休んでください、楽しんでください、という気持ちしかなかった。
続く。