鵜戸神宮から 宮崎市方面

国道220号線を北上し

左手の鵜戸小中学校の看板を目印に左折 

小さな橋を渡り 左折した先に

宮浦神社 があります

 

宮浦川が流れ

子どもたちの透明な

心底楽しい笑い声が響き

ノスタルジックな風景が広がっています

 

脳と心に癒しが溢れる

ふるさとってこんな感じなのかな

自分の故郷ではないですが

郷愁ってこんな感じなのかなと思いましたニコニコ

 

宮浦川は、日南海岸に流れ出ます

海の方角を向いて宮浦神社が建っています

 

 

 

「宮浦」「宮裏」

鵜戸神宮の裏に当る位地にあることから称したと伝えられています

 

御祭神 玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)

豊玉姫(トヨタマヒメ)の妹

 

鵜茅葺不合尊(ウガヤフキアエズ)を

姉の豊玉姫に替わって養育しました

 

後に、玉依姫と鵜茅葺不合尊が御結婚

 

後の神武天皇、他の御子様を生んでいます

 

 

本殿右に 御社があります

 

本殿御祭神の

第一の皇子 五瀬命

第二の皇子 稲飯命

 

個人的に思ったことなのですが、

 

五瀬命は、5つ背がある龍神様

稲飯命は、お稲荷様

 

龍神は雨、稲荷は晴、天気も司っている

 

龍神は水、稲荷は食

 

水と食物で人間が生かされている

 

火(カ)稲荷 水(ミ)龍神 カミ様

 

そんなイメージを受けましたニコニコ

 

五瀬命は、見たり聞いたりしますが

稲飯命は、「いなりめし?」と読んでしまいましたが、「いないのみこと」でしたニコニコ

 

宮崎県神道青年会HPより
創建の年月ははっきりしないが、社伝によると、玉依姫ご住居の跡に社殿を立つとあり、桓武天皇の延暦年間に再興すという。永禄三年(1560)に伊東三位入道義祐が社殿を造営したが、その後寛永三年(1626)に伊東祐慶(飫肥二十代藩主)が再興し、文化九年(1812)三月、伊東祐民(同二十九代)が、本殿ならびに拝殿の総修繕をした。藩政中は社録五石を寄進されていた。玉依姫大明神と称して来たが、明治維新に際し、玉依姫神社と改称、一度鵜戸神社に合祀されたが、明治七年に復社、現社名となり、社殿の改造も行われた。更に明治四十年二月、神饌幣帛料供進すべき神社に指定された。
中古以来、ここに鵜戸山仁王護国寺の末寺である弥勤院が置かれ、当社と玉依姫御陵伝説地を管理してきたが、のち弥勤院は仁王護国寺内の脇坊となった。玉依姫は、鵜戸神宮の祭神鸕鷀草葺不合尊の母君豊玉姫が海に帰られたので、代わって育てられた叔母で、のちに葺不合の皇妃となられた。神武天皇ほか四柱の母君で、御陵跡は当社の南、七、八丁の田の中に円形の岡が、前方後円の前方がやや崩れた形で残っている。この地の草を牛馬に食わせると、たちまち腹痛を起こすとして土地の人は恐れて近づかないという。
伊東義祐の「飫肥紀行」に「里人に問はすはいざや白波の玉依姫の宮の浦とは」の一首が残されており、古来、山越えの時代から安産祈願に参詣するものが多く、とくに毎月午の日に参るのが古い慣わしである。
神社明細帳によると境内末社、祭神稲水氷命、由緒不詳とある。


 

頭が3つの石仏 馬頭観音様も

右手前の社に祀られています

 

 

以前、平田神社で びっくりしたおみくじ機があったのですが

 

宮浦神社にも おみくじ機を発見

 

出口が砂まみれで大丈夫かなと思いつつ

やってみましたニコニコ

 

100円を入れて

・・・・・・

・・・・・・

あれ?

何の音もしないし 何も出てこない

出口見たけど 手入れてみたけど

何もないあんぐり・・・

 

平田神社とは全く真逆のびっくり爆笑

 

もしやと思ったのだけど

まいっかニコニコ笑

 

境内の左手は、少し高くなっていて

大きな木がいくつかあり

台風などの影響か複数本折れていました

 

竹藪の方に 

立て看板みたいなものが見えたので

そっちの方へ行ってみたら

立入禁止

猪のワナが仕掛けてあります

立入キケン

 

と書いてありましたびっくり

遠くから見つめるだけにしました

 

 

お清めの塩が販売されていたので購入しました

 

やさしく

明るく

癒される神社でしたニコニコ