賀茂御祖神社(下鴨神社) | よしおのブログ

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好きなことをつらつら書いていきます。
『古事記』に出てくる神社に行くのが好きです。

京都「賀茂御祖神社」(かもみおやじんじゃ)、通称「下鴨神社」にやってまいりました。

上賀茂神社と下鴨神社という二つの神社はかつて一つの神社で「賀茂社」と呼ばれていました。

それが二つに分裂して現在の状態になりました。


よしおのブログ-賀茂御祖神社1


さて、この賀茂御祖神社ですが、「祖(おや)」という字が入っています。

これは「親」のことなのですが、一体だれの親なのでしょうか?


『山城国風土記』という書物があります。


この『山城国風土記』を見てみると次のような神話が記されています。


要約して紹介させていただきます。



賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の娘の玉依日売(たまよりひめ)が石川の瀬見の小川で川遊びしていると、丹塗りの矢が流れてきた。玉依日売はその矢を持ち帰って寝床に置いておいたところ、妊娠して男児を産んだ。その子が成人するときの宴で賀茂建角身命が「お前の父親は誰だ。父親にこの酒杯を渡しなさい」というと、その子は酒杯を持って天井を突き破り天に昇っていった。そういうことがあって、その子を「賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)と名付けた。


よしおのブログ-賀茂御祖神社4

このような話が残されています。

この話の登場人物は

賀茂建角身命、玉依日売、賀茂別雷命です。

賀茂別雷命は上賀茂神社の祭神です。上賀茂神社の本名は「賀茂別雷神社」と言います。

すると必然的に、その他の2柱が下鴨神社の祭神となります。

つまり、上賀茂神社の祭神、賀茂別雷命から見て「親」にあたる賀茂建角身命そして玉依日売が祀られている神社なので

賀茂「御祖」神社と呼ばれているのです。



よしおのブログ-賀茂御祖神社5

さて、この『山城国風土記』ですが、実はこの書物は歴史の中で失われてしまい、現存しておりません。

しかし、この書物はかつては実在していたのです。

実在しない書物なのに、なぜ「かつては実在した」といえるのでしょうか?

鎌倉時代の書物の『釈日本紀』という書物の中に次のような内容の文が残っています。


「『山城国風土記』から引用すると、次のような話が残っている」




よしおのブログ-賀茂御祖神社3

つまり、他の別の文書を作成するときに『山城国風土記』を参考にし、引用しながら作成した文書が残っているということなのです。

『山城国風土記』という書物自体は現存していないが、「引用文」は残っているということなのです。

このように引用されたりして断片的に残っているものを「逸文」といいます。


「ないのに、ある」なんて、古代のロマンを感じますよね。

失われた古代技術のような儚さも感じます。



よしおのブログ-賀茂御祖神社2

以下は、賀茂社について調べたことを書きつらねます。


もともとは「賀茂社」と呼ばれ平安京の守り神として信仰されてきた由緒ある神社なのですが、その記録は平安京よりも前の藤原京の頃から残っているようです。

その後、賀茂社は奈良時代に「上・下」に分裂し、以来、下鴨神社と上賀茂神社が存在しているといわれています。

しかし、『山城国風土記』には

賀茂建角身命、(賀茂建角身命の妻)伊可古夜日売、玉依日売の三柱は蓼倉(たでくら)の里なる三井の社に坐せり

と記されています。

ここから、はじめから賀茂社は二つに分かれていたのではないかとも考えられています。

つまり、現在の上賀茂神社と「三井の社」(賀茂御祖神社)が存在していたという考え方です。

ちなみに、下鴨神社が初めて文献に出てくるのは『続日本後紀』(848年)で、「天平勝宝二年(750年)十二月賀茂御祖大社に御戸代田一町を充て奉った」と記されています。


賀茂社は古代から多くの人から信仰されていて、お祭りのときには大賑わいだったようです。

あまりにも人気のあるお祭りだったようで、698年には「賀茂の祭の日、騎射することを禁じる」と行政から命令が出るほどでした。


まぁ、他にも調べたのですが、ぐだぐだ感が否めないのでここまでにします(笑)
調べだすと、とことん深くまで入っていくことができる楽しい神社です。


以上、下鴨神社でしたm(__)m