最近、宮古市の岩手県立大学宮古短大の学生と知り合うことができました。

その学生の出身地は大船渡。
ボクが考えるに、高校卒業時に震災が来て、そのまま被災地大船渡から、被災地宮古へと進学したんだと思います。

そして、その学生はたまたまの縁で宮古の子ども支援をするのですが、今年に入り支援サークルの代表となりました。
大学生を「子ども」と呼ぶのか「おとな」と呼ぶのかの議論は少しおいておいて、被災したまだ20歳前後の若者たちが、別の地域の被災地した子どもたちを支援している現状を、ボクたちはどう理解したらいいんでしょうか?

介護の世界には、老々介護ということばがあるようです。
同じようにいえば、「被災被災支援」ということなのでしょうか。
いったい日本中の人たちはなにをしてるのでしょうか?

目の前に困った人がいる
ボクは困っていない
そしたら助ける

それってボクは難しいことじゃないと思うのです。
そうじゃないですか?
それは被災地であっても、なくても関係ありません。
遠いとか、目の前とかそういう物理的なことは関係ありません。

そこには目的も、目当てもありません。
理由もありません。

その学生は、まだ小さい両腕に「責任」という重くて膨大なものを持っていたので、ボクはせめて右手が空くぐらいは肩代わりできればと思いました。
その右手をだれかに引いてもらえるようにするために。
できるかどうかわかりません。
でも、したいという思いを強くしました。
そういうことはボクじゃなくて、同世代の若者たちにもしてほしい。
高校生が、困っている高校生を助ける
大学生が、困っている大学生を助ける

それってそんなに難しいことですか?

でも、残念ながらその答えは、NOです。
東京の高校生が、被災地の高校生を支えることは現実的には難しいです。

まず、拠点がありません。
資金もありません。
被災地に受け入れてもらえる土壌もありません。
支援者側の寛容性自体ありません。
なによりも、安全を担保してくれる人もいません。

そんなわけで、やりたくてもできない高校生たちで東京はあふれかえっています。

だからって、被災地の子どもたちが被災地のさらに年少な子どもたちを支援する構図を維持したままでいいのでしょうか?

最近、ボクの後輩がfacebookで初めて東日本大震災に言及するという前置きで
「責任ある大人として、子どもたちに少しでも希望をもたらすことができるのなら、できることからしていかなくてはと思い始めている」
と書き込んでいました。
彼とボクは生徒会の委員会活動で一緒だったのですが、そのときを振り返るといつも隣には顧問の先生がいてくれて、ボクたちのわがままを聞いてくれたり、ボクたちのフォローをしてくれていたと思うのです。

子ども時代を持たない大人はいません。
生物学的には無理です。
みんな何十年前は子どもだったのです。
大人として、普通に、子どもに希望を与える。

それってそんなに難しいことですか?

ボクの尊敬する大人が大船渡にいて、よく卵を食べにお邪魔するのですが、その人が、被災地じゃないところにいる学生たちによく学んでほしい、と言うのがとても印象的でした。

大人が子どもを支援する・受け入れる
その子どもが大人になったときにその子どもたちを支援する・受け入れる
その子どもたちの子どもたちが大人になったとき……

っていう円環型支援こそが、持続可能な社会を作っていくのではないでしょうか。

だから、ボクは多くの大人たちに共感してほしいのです。
未来を作るのはなにも子どもたちだけじゃない。
未来を作るのは、今の大人たちでもあるってことを。
Facebookをふらふらとしていると、高校生・大学生の被災地支援チームが多いことに気付くし、特に「なにかしたい」と思っている高校生は多い。

思い出すのは、被災してすぐに、陸前高田市のnaomiという高校生が、twitterに被災状況を連続で書き込みました。
これは瞬く間に拡散し、毎日TLに上がり続けました。
また彼女自体も、積極的にネット上に登場し、声を上げ続けました。

でも、ボクの見る限り、彼女の「行動」が、被災者の呻き以上の何かを社会に与えたようには見えませんでした。

なぜ、彼女からアクションが起きなかったのか。

理由は2つあると思います。

1つは簡単なことで、彼女自身が被災者だったから。
ツイートを見る範囲では、フォロワーは、彼女を支援しました。
だから彼女自身が、ジャンヌダルクになることはなかった。彼女は直近のツイート「ボランティアされる側からする側になりたい まだまだ震災は終わってないから」からもわかるように、自分自身の立ち位置を「される側」に設定しています。

2つ目は、大事なことですが、高校生が声をあげたとき、つまりなにかしら自分以外の何者かに目を向けようとしたとき、それをつなげるターミナルがないということです。
以前、NHKで「しゃべり場」という若者が出てきて、だらだらとしゃべるだけの番組がありました。そこで何かしらを感じた視聴者が、なにかアクションを起こしたいと思った時に、横につながれる何かスペースがない以上、その番組はただのおしゃべりな場であって、行動空間ではありえません。

いま、ボクの知っているいくつかの高校の生徒会、いくつかの支援チーム、または個人的なツイートなどで、高校生が「なにかしたい」という声があります。
彼らは、システムはきわめて類型的です。

1、非災地での活動重視
2、ミーティングの定例化
3、情報配信への偏り

そして、ジョブの多くは、写真展か物販。もしくは募金。
ボクの知る多くの大学生支援チームがそうであるかのように、高校生チームがその道をたどり始めています。

ほとんどのチームが同じようなシステムを持ち、同じジョブをして、同じように存在して、そして面白いことに混ざらない。

以前、ボクが、ある場所でひとつの市町村に入っている大人の支援団体が多すぎるということを話した時、ある人から「地方は、特に岩手の沿岸部は、利害関係、地縁、宗教、人間関係の問題でまとまれない」ということを言われました。
その真実がどうであったとしても………
若者にはそうしたものがないわけで、そういう強みを持って、もっと横断的に活動していけば、もっとコンパクトになっていくのではないかと思うのです。
前近代的な機械的連帯ではなく、もっと有機的つながりを大事にしていくことで、新しいムーブメントになっていくのではないかと。

そんなわけで、ボクできないので、高校生・大学生の支援をサポートする「場」を作ってくれるweb関係の方々、ぜひ、お願いします。
有機的につながってください!!!

だってもったいないじゃない?
同じ活動しているのに、違うチーム名でtwitterのTLを流れていくのは。

なにかをなす時に、軸になるテーマは必要で、要するに「何のためにやるのか」という1面は必要かと思うのです。


理由は3つある


とか言われると、萎えます。

理由はひとつでいいと思うのです。

ウルトラマンの最大のテーマは怪獣を倒すこと。

たぶん、子どもだったボクはそう信じていました。


ウルトラマンのテーマは3つある。


1つは、怪獣を倒す

2つ目は、

3つ目は、


とかやられると、萎えます。


もし、〈地球を救うため〉がテーマなのだとしたら、怪獣を倒さない方法も考えなければいけないわけで、怪獣を倒さない世界平和の方が絶対にいいってことになって、そうなると、じゃぁウルトラマンじゃなくてもよくなって、気づいたら、宇佐木玲子や真下正義が登場する怪獣番組になってしまうかもしれません。


だから、ウルトラマンがあんなに巨大なのはきっと怪獣を倒すためであって、ウルトラマンが3分しか地球にいられないのは、怪獣を倒したら家に帰るだけの出張ヒーローだからってことになるわけです。


そういう論理的な整合性って必要だと思います。


そろそろ陸前高田市には興味も関心もなくなってきてしまったので、ツイートや書き込みを見ても最近ではあまりこころが動かないのですが、一本松について尊敬する2人が真逆のことを言っていて、ちょっとそれについては困っているという状況だったので、ブログ書いちゃいました。


ボクは一本松を残すか残さないかについてはそこまで思い入れはありません。

どっちでもいいです。

ただ、残す場合、「なぜ残すのか」というテーマは必要だと思うのです。

ボクは以前、市民の方から、「何の必要がありますか?」と言われました。

残すのがいいか悪いかという以前に、「何のため」というのがないと、ただの感情論になってしまうと思うのです。ま、実際にはなっていますよね。

逆にいえば、そのテーマがあれば、それ以外のことがなかったとしても、問題ないと思うんです。

怪獣を倒すために、多くの町が壊されても、だれも文句を言わないように。

そして、きっと、その倒壊した建物の下敷きになった多くの犠牲があるのにもかかわらず。

そういう社会がいいとか悪いとかはわからないです。

社会にそこまでの思い入れはありません。

またウルトラマンにもそこまでの思い出もありません。

どっちでもいいです。

結局のところ、何のために保存するのか。

それって大事ですよね。

きっとあるんでしょうけどね。そこをはぐらかす。

ただ、そういう自分のことばではっきりと姿勢だけは伝えるといいんじゃないかと思うのです。

そうじゃないと、なんだか、裏で、悪者に操られているだけみたいな感じに見えてしまいます。

ま、地方の首長はいろいろとあるんだろうとは思いますけども。