京義鉄道(4)
前回は、京義鉄道の敷設のためのフランス系シンジケートからの借款導入の経緯をたどってみました。
その様子からわかるように、高宗は日露戦争の直前まで、この借款問題について、あらゆる可能性を探りながら、打開の糸口を模索し続けていました。
今回は、京義鉄道の敷設工事について、おもに大韓帝国の実際の活動の様子を順を追って見ていきたいと思います。
○ 大韓鐵道會社
1898年9月8日、日本に京釜鉄道の敷設権が認許され、三日後の9月11日、高宗の暗殺未遂事件、「毒茶事件」が発生しました。
その少し前の7月、高宗は、勅令で鉄道司官制を敷き、既にインドシナ銀行からの借款調整を進めていた李容翊を鉄道司に任命し、京義鉄道の敷設に本腰を入れ始めました。
翌1899年になると、ソウルでは独立協会の運動が活発におこなわれ、鉄道、電信、鉱山、森林開発などの利権保護運動も積極的に繰り広げられました。
当時、鉄道敷設運動の代表的な人物で外部参書官だった朴琪淙が、学部編集局長の李圭桓、中枢院議官の徐丙粛、平理院検事の白性基、侍従院侍従の李懋栄、承政院の右承旨を務めた尹吉炳などの官僚らと共に鉄道敷設運動を展開した結果、敷設権を絶対に外国人に譲渡しないという条件で、京義線敷設の認可を取得し、国内のその他の鉄道も含めた鉄道事業を目的として、1899年3月、「大韓鐵道會社」を設立しました。
それから3ヶ月後の同年6月、フィブリーユ社(Compagnie de Fiveslille)代表のグリーユ (Antoine Grille)が京義鉄道の敷設権を返還し、これを大韓鐵道會社が引き継ぐことになりました。
しかし、肝心の資本の募集が思うに任せず、この段階では着工の目途を付けることができませんでした。
そこで高宗は、宮内府内蔵院のなかに「西北鉄道局」を設置し、京義鉄道の自力敷設に向けて、本格的に取り組むことになります。
○ 西北鉄道局の設立
京義鉄道は、グリーユから敷設権が返還されたあとも、返還時のフランス側との約束のとうり、借款の仲介や、資材、人材の面で、フランスの協力のもとに敷設計画が進められました。
1900年9月3日、高宗は宮内府官制を改正して、内蔵院の傘下に西北鉄道局を設置して、西北鉄道(京義鉄道、京元鉄道)のすべての事務を直轄で処理することにしました。
内蔵院は高宗の時代に、王室の宝物、銭貨、荘園などの財産を管理した官庁で、宮荘田と駅屯田に加えて、紅蔘、鉱山、種牧まで掌握していました。
西北鉄道局の発足時の役職は、次のようになっていました。
総裁に外部大臣趙秉式、局長に平理院判事李寅榮、議事長に宮内府協辦李址鎔、監督に度支部協辦李容翊、内部協辦閔景植、勅任官・フランス公使館書記官ルフェーブル(Lefèvres: 盧飛鳧)、主事に姜昌熙、金炳洙。
さらに、フランス人との通訳を担当する秘書2人が、フランス語学校の学生のなかから選抜されました。
その後、ルフェーブルが顧問に、李寅榮、李圭桓などが監督に任命されました。
李容翊は、鉄道司に任命された翌年の1899年8月24日、内藏院卿に任命され、西北鉄道局の発足後も、内藏院卿として、鉄道を敷設するための借款交渉に精力的に取り組むことになります。
さらに、1903年3月23日、西北鉄道局総裁に就任しています。
※ 李容翊 (이용익 : イ・ヨンイク )
1854年、咸鏡北道に生まれる。
庶民の子として、少年期は寺子屋で修学した。その後、故郷を離れて褓負商となり、行商で資金を貯め、咸鏡南道端川で金鉱に投資して富豪となった。
財貨を得て漢城に上京し、閔泳翊の家に起居して、金鉱に関する情報を提供した。
1882年の壬午軍乱の際、忠州に避難した閔妃と閔泳翊の間を往復して秘密の連絡役を務め、閔泳翊の推薦で高宗の信任を得て出世の道を掴んだ。
端川の監役として金鉱を管理して理財能力を認められ、1897年、内蔵院卿に抜擢され、王室の財政を担当し、宮内府所属の蔘圃と鉱山を厳格に管理して収入を増やした。
また、度支部大臣と典圜局長を兼務した際、改正貨幣條例により国家財政に充当しようと白銅貨を大量に発注した。しかし、白銅銭の大量発注は、物価の高騰と貨幣価値の下落を招き、独立協会から批判を受けた。
当時の名門勢族ではなかったが、幼いときから寺小屋で儒教の教養を学び、意志の強い性分もあり、清廉で理財に明るい政治家として識見が高く、高宗の信任を得ていた。
また、西北鉄道局総裁、中央銀行総裁などを歴任して近代改革に寄与した。
在職時に内蔵司の織造所を近代的工場に改編しようと、模範養蚕所を設置して、
近代的な絹織技術を習わせた。
また、各道に工業伝習所を設置して、染織・製織業、製紙業、金銀細工、木工の
近代的な技術者を養成した。
また、沙器製造会社をソウルに設立し、銃砲工場も建設した。
そのほか、1898年、近代式な石版印刷機械を導入し、切手、商標、地契などを
印刷、発売し、1903年には博覧会の開催を計画した。
また、鉄道の敷設や近代的な金融機関の設立なども積極的に支援し、近代改革に
大きな影響を及ぼした。
政治的な立場は、一貫して親露・反日的な立場を守り、1904年、日露戦争が起きると、ただちに朝鮮政府が厳正中立を宣言するよう主張した。
そのため戦争中に日本へ強制連行され、様々な懐柔を受けたが、悉く拒絶した。
日本に拉致されていたとき、日本の文物に接し、多数の図書と印刷機を購入して
帰国した。
その後、民族の力量を育てようと、自費で普成小学と中学、そして普成専門学校(※現在の高麗大学校)を設立して、将来、国家の頭領となる人材を育てることに
努め、編集所の普成館などを設置し、民族の啓蒙に寄与した。
三・一独立運動のとき、独立宣言文を印刷したのもこの普成社だった。
1905年、乙巳条約が強制的に締結されて国権が剥奪され、いわゆる保護政治が始まった際、陸軍副長という肩書きで高宗の密書を携え、援助の要請のためにフランスへ向かっていたところ、6月に中国の山東省煙台港で日本の官憲に発見された。
朝鮮政府は密命の責任を追及されることを恐れ、一切の公職から罷免した。
その後、海外を流浪しながら救国運動を続けたが、志を遂げることができず、ウラジオストクで客死した。
高宗に遺疏を残し、「広建学教、人材教育、国権回復」を訴えた。
(韓国民族文化大百科事典より)
○ 海関税と日英同盟
当初、フランス公使プランシーの仲介による借款交渉は、海関税を担保にするという条件で、交渉が進められました。
財源のなかった大韓帝国政府が借款の担保として利用できるものは、主に日本の商人が開港場で支払っていた税関収入でした。
ところが、年間およそ100万円程といわれる海関税収入はイギリス人の総税務司ブラウンが掌握していて、ブラウンの承認がなければ、たとえ国家の収入であっても大韓帝国政府の意向だけでは支出することができない仕組みになっていました。
しかし、1902年に日本と日英同盟を結ぶことになるイギリスの外務大臣ランズダウンは、在韓イギリス公使ジョルダンに対して、フランスからの借款は全力で阻止せよという訓令を与えていました。
そのため、李容翊は、海関税を担保にした借款の導入は、結局、あきらめざるを得ませんでした。
しかし、借款を仲介していたフランス政府に対しては、あくまで自力での敷設を貫きたいとの意志を伝え、路線の測量も、1900年7月の時点で、既に完了していると説明しました。
高宗は、京義鉄道だけは外国に敷設件を譲渡せず、自力で敷設しなければならないと考え、また、その原則を貫きました。
その背景には、フランスからの借款導入の過程で提起された日本側の反対と様々な圧力があり、こうした意志の表明は、あるいは、これに対抗するための一種の方便という側面もあったのではないかと思われます。
京義鉄道を日本が掌握し、沿線に日本商人が移住してくれば、高麗人参をはじめ、各種の経済利権が日本に侵奪されることが容易に予想できるうえ、日本軍の兵士や軍需物資を大陸へ輸送する搬路を提供することになります。
日本はイギリスと同盟を結び、朝鮮を支配下に置くことを至上命題としていたため、お互いに同盟関係にあったロシア、フランス両国の極東政策に大きな影響を与えることになり、場合によっては、大韓帝国自身の国権の維持さえ脅かされかねないという重大な懸念がありました。
○ フランス人技師の雇聘
1900年4月21日、西北鉄道局は京義鉄道技師として、フランス人のラペリエル
(J. de Lapeyrière: 喇伯梨)を雇用しました。
<鐵道内藏院卿李容翊と佛國人喇伯梨間の締結契約書>
大韓皇室が敷設する京義鐵路に法國技師喇伯梨を雇聘し、敷地の測量、
及び工役の検察の任を授ける訂立を次のように合同(※契約)する。
第一款
喇伯梨の月俸は、銀貨四百元、住宅費は毎月銀五十元とし、喇伯梨が漢京を離れて内地で執務するときは、毎日旅費として七元を支給すること。
第二款
喇伯梨は極力、測量及び工役等の費用を十分に節約することとし、或いは多少、
材料などに濫費があっても、解雇することはしない。
第三款
喇伯梨が漢京に戻ったときは、その日から月俸を支給すること。
第四款
鐵路内藏院卿、あるいはその総代人に委任して発令した指揮については、喇伯梨は均しく従うこと。
第五款 大韓宮内大臣、及び大法国公使が調印する。
光武四年四月二十一日
漢城で成立した契約書は、仏文、漢文、国文の三通を作成する。
宮内府印
委任鐵路内藏院卿 李容翊 印
鐵路技師 喇伯梨 署名
ラペリエルは、京義鉄道の敷設権がフィブリーユ社に譲与された1896年に、フィブリーユ社から派遣されていた技術者で、それまでに、ソウル-義州間のうち、ソウル-平壌間の実地調査と、鉱脈の調査などをおこなっていましたが、ここで、正式に西北鉄道局の技師(奏任官)として雇用されました。
奏任官は、所管の長官が上奏し、それに基いて高宗が任命する官職です。
また、フランス政府は清国の雲南で勤務していたブダレという技師の雇用も斡旋し、このブダレとラペリエルの二人の技師が路線調査に着手しました。
この路線調査は1901年5月になって終了し、まず、ソウル-松都(開城の旧称)間に六つの停車場が計画されました。
ソウル-松都間は、総延長77kmで、1km当りの工事費用は8万フラン、総工事費は約647万フラン(約250万ウォン)で、工事期間は2年と見積られました。
○ 京義鉄道起工式
1901年8月8日、初代局長の李寅栄とルフェーブルが監督に任命され、翌年の1902年、いよいよ、ソウル-松都間の起工式が挙行されました。
起工式には西北鉄道局総裁の李容翊と、外部大臣、農商工部大臣が出席し、フランス公使のプランシー、ロシア公使のパブロフ、日本公使の林權助などが招待され、フランス海軍の提督まで列席して、盛大に執り行われました。
ここで、外国の代表者を前にした李容翊は、京義鉄道は外国には譲与せず、あくまで自国で敷設するという意志を、あらためて強調しました。
この起工式の日付は、フランス公使プランシーの記録では、1902年3月8日とされていますが、アレンの記録では、同年5月8日となっています。
アレンの「A Chronological Index」には、5月8日の項に、「京義鉄道の工事がフランス人監督のもと、独立公園で始まった。 フランスの提督が参列し、フランス公使、日本公使と韓国人のスピーチがあった。」と書かれています。
また、日本公使の林権助の報告でも、起工式は5月8日となっており、林公使自身も実際にお祝いのスピーチをしたと書いています。
また、林公使の報告では、3月に、典圜局から土木工具が提供され、工事費として30万ウォンの資金と、毎月20万ウォンの支援を受ける予定で、麻浦で工事が始まったとされています。
いずれにしても春先から工事が始まり、梅雨で一時中断した7月までに、約200人の労働者が動員され、さらに、11月に寒さで中断するまで、約100人の労働者が動員されたということです。
この工事は、土地の新規購入を避けるために、果樹園や住宅、墓地のない地区を選んで行なわれ、1902年11月までに 2.7 キロメートルの線路が施工されました。
工事に投入された金額は、約9千ウォン(約1万2千フラン)となっていますが、これは、少なくとも、毎年10万ウォン(25万フラン)を支出するという、当初の見込みからみても、はるかに少ない金額で、そのままでは敷設工事の進捗が滞ることは明らかでした。
○ 国家財政の困窮
1902年7月8日、内藏院卿の李容翊が臨時署理度支部大臣事務に任命され、「毒茶事件」の前々日にあたる9月9日、国家の税収のありかたについて、上疏をあげています。
承政院日記
1902年9月9日(陰8月8日)
議政府贊政度支部大臣臨時署理·内藏院卿李容翊疏曰
伏以遇今年兩慶湊臻, 祝遐齡萬壽聖節, 邦禮式遵, 睿孝克伸, 臣民懽忭, 小大惟均。 竊伏念惟我皇上陛下, 聰明濬哲, 卓冠今古, 軫念竊蔀, 邁周文之不遑暇食, 明愼政體, 兼漢光之勤勞不怠。 自古聖王治平之要, 亶在於立法紀信賞罰, 法紀立則衆心實矣, 賞罰信則奸藏退矣。 夫結税者, 惟正之供,經費之源也。 典式所重, 其果何如, 而挽近以來, 奸僞迭生, 不念嚴重之意,便歸舞弄之科, 玩時愒月, 經年閲歳, 專事積滯, 罔有紀極, 若不査明徵辦,税無可完之日, 法無可施之地, 事之寒心, 莫此之甚。當該挪犯不納之觀察使·郡守·視察, 移照法部, 拘拿徵刷, 克圖法帳矣。平理院前裁判長臣李裕寅,罔念振刷之惟急, 只緣情私之是循, 一竝保放, 視同輕囚, 司法之地, 有此不法, 恣意侮弄, 胡至於是乎? 現今封樁垂罄, 應撥浩大, 言念調度, 實無其策。各道各郡未納, 已經訓督, 難望其趁期準納, 而又此諸人之指日當刷者。如是操縱, 乃使國計窘絀, 轉至於茫無涯畔, 誠不萬萬憫隘哉。伏願聖明, 特垂鑑諒, 亟令攸司, 平理院前裁判長李裕寅, 爲先拿囚, 以懲蔑公循私之罪, 各人當納條, 準數移徵, 以存紀綱, 千萬幸甚。 臣無任云云。
奉旨, 省疏具悉。屢回提飭, 不啻嚴切, 而迄玆翫愒, 將謂公錢, 姑且愆滯, 而法紀不足畏憚乎?思之痛惋。寧有是也?令法部一竝拿勘督納。 法吏之不念國計, 肆意寬放,殊爲可駭, 亦令懲辦論罪事, 遣部郞, 宣諭。
議政府賛政度支部大臣臨時署理、内蔵院卿李容翊が上訴して曰く、
謹んで申し上げます。
今年は、二つの慶事が重なり、万寿聖節(誕生日)を祝うことになりました。
(※ 高宗の誕生日と、在位40周年のこと。)
国の礼式に遵じて、皇太子殿下の孝行が克伸されることは、身分の上下に関わらず、均しく臣民の喜びとするところです。
謹んで思うに、我が皇上陛下の聡明明哲は古今に比肩がなく、貧しい国民を軫念されるのは、周の文王が食事をする暇もなく民の世話をしたのと同様に、政治の要諦に明るい、慎しみ深い政治の姿です。
また、漢の光武帝が緩怠なく政事を勤めた姿勢をも兼ね備えておられます。
昔から聖王の治平の要諦は、法をたて、それにのっとって賞罰を行うことです。
法と規律が確立すれば、民衆の心は安定し、賞罰を一貫すれば、ずる賢い者は退くことになります。
結税というものは、きちんと供えてこそ、財政の源泉となるものです。
その規則の重大さは、果たして如何ばかりでしょうか。
また近年は、ずる賢い輩がその重さを顧みず、やりたい放題の行いを続けています。
そのため、歳を経るごとに職務の停滞が重なり、いまやその極みに達しようとしています。
これを調査し、明らかにして懲戒しなければ、租税の納付が正常に行われず、まともに法を施行することもできず、寒心も甚だしい有様となります。
このように租税を流用して納付しない観察使や郡守を探し出して法部に引き渡し、捕らえて徴収するようにすれば、全て徴収することができるでしょう。
前平理院裁判長の李裕寅は、ただちに面目を一新しなければならない状況であることにも思いを致さず、私情だけで一様に囚人を保放し、重罪人を軽罪囚として取り扱う誤りを犯しました。
司法を担当する部署でのこのような不法や、思いのままに法を無視するなどということが、どうして今までおこなわれてきたのでしょうか?
現今は財政がすっかり欠乏し、支出しなければならない経費が非常に多い状況ですが、いくら打つ手を考えてみても、実に策がありません。
各道と各郡の未納の租税を納付するよう、すでにで督促をしましたが、期限内に全て納付されるのを期待することは難しい状況です。
そしてまた、納付の当事者らが裁判長に指図して、このように操縦し、国の財政を窮乏させており、その有様は目を覆うばかりで、誠になさけない限りです。
謹んで願わくば、聖明もってお察しになり、ただちに前平理院裁判長李裕寅を拿囚するよう命じられ、公道を無視し、私情に従った罪を懲戒し、各人が納付すべき分を全て徴収し、規律を保つようにして下さるならば、おおいに幸甚に存じます。
勅旨を奉じた。
上疏を見てよく分かった。
何度も厳格に命じても、今に至るまで、このように貪り、侮り、公銭を延滞させてもかまわないと言わんばかりに法を恐れることがないというのか?
考えるだけでも、痛嘆この上ない。
どうしてこんなことができるのか?
法部に命じて、一様に納付するよう督促しなさい。
法吏が国の財政も考えずに気ままにふるまうとは、殊さら驚くべきことだ。
これも懲戒して論罪するよう命ずるので、担当部署へ送って宣諭しなさい。
(以上)
このように、外国からの収奪によって国力が疲弊し、李容翊自らが米の買い付けに奔走しなければならないほど、飢饉に苦しめられていた当時の状況では、おのずと国庫に入るべき税金も滞って、自力で鉄道を敷設したくても、とてもそんな余裕はないというのが実態だったようです。
○ 日露戦争の足音
そこで、西北鉄道局監督となったルフェーブルは、資金確保のために、3ヶ月間の休暇を取って、フランス本国へ向かいました。
その際に彼は、満州とロシアを結ぶ戦略的価値を持った京義線に強い関心を持っていたロシアの外務大臣ラムスドルフ (Lamsdorff ) からの呼びかけに応じて、1903年2月、ペテルブルグを訪問しています。
ラムスドルフは、財務大臣のウイッテ (Witte) と協議を重ね、日露戦争を目前にして、京義鉄道の敷設に介入したいと考えていました。
ここで、ラムスドルフとルフェーブルの間で、どのようなことが話し合われたのか不明ですが、ほぼ同時期に、ロシア公使のパブロフが高宗に謁見して、京義鉄道の敷設権をロシア人のグンズボルグ男爵 (Baron de Gunzbourg) に譲与してほしい、あるいは、もし敷設権の譲与が難しければ、グンズボルグ男爵が建設資金を出すので、相応の契約を結んでほしいと要請しました。
これに対して高宗は、京義鉄道の敷設については、李容翊に一任しているので、李容翊と協議してほしいと答えました。
そこでパブロフは李容翊に対して、京釜鉄道を日本に与えた以上、京義鉄道はロシアに与えてほしいと、強く要請しました。
しかし、李容翊は、京義鉄道は、既に自国で敷設することを表明して、計画を進めており、今になって譲与の要請に応えるのは難しい旨を説明しました。
このことを知った日本の林公使は、ロシアには京義鉄道の敷設権を与えてはならないと大韓帝国政府に抗議の書簡を送り、また、ロシア公使に対しても、大韓帝国に対する日本の商業的、産業的権利を認めた、1898年の日露協約(※西-ローゼン協定)に背くものだとして、異議を申し立てました。
その結果、1903年2月21日、パブロフが日本公使館を訪れ、林公使に対して、京義鉄道に関する要請は、今後、継続する意思はない旨を伝えました。
日露戦争開戦のおよそ一年前のことでした。
その当時、パブロフは、当面は、日本との妥協は可能だと考えていたようで、在東京ロシア公使になる予定だったローゼンも、衝突を回避するため、あらゆる努力を払えと指示されていました。
ローゼンも、財務大臣のウイッテも、日本が満州進出を目論んでいる以上、いずれ衝突は避けられないだろう(※満州だけは渡せない)という見通しは持っていましたが、ロシアとしては、少なくとも10年は先延ばしする必要があると考えていたようです。(※1)
○ 大韓鐵道會社のあらたな動き
一方、ロシアが敷設権を要請したのを受けて、大韓鉄道会社も、1903年2月19日に、外部に対して敷設権の許可を陳情しました。
これを受けて、大韓帝国政府は、1899年に大韓鉄道会社に与えた権利が消滅していないことを確認しました。
すると、日本の林公使が、大韓鉄道会社を主宰していた李載完に働きかけ、日本と大韓鉄道会社との契約を大韓帝国政府が承認するように働きかけてほしいと要請し、李載完は、工事費、フランスの既得権益の買収費、皇室への上納金、会社の運営費など、必要な資金を日本側が用意することを要求しました。
当時は、日本も日露戦争に向けて資金調達に奔走していたため、林公使は、これについては明言を避け、とりあえず第一銀行の支配人・高木正義を債主として、李載完との間で覚書を交換させました。
李載完は高宗にこれを上奏すべく謁見に臨もうとしましたが、先に李容翊が謁見をしており、李容翊が、今後、毎年10万円を支出して、大韓帝国自らが工事を完成すべく継続したい旨を上奏し、高宗がこれを裁可していました。
その後、李載完も上奏しましたが、追って沙汰すると、保留扱いになりました。
一方、高宗は、鉄道敷設のための借款導入がなかなか思うように進まないことから、京義鉄道自体を担保にして、つまり、完成後の利用権、経営権などの特権を与えることを条件として、工事を進めようと考えました。
そこでルフェーブルが奔走し、フィブリーユ社から材料を供給させることにして、1903年5月17日、内蔵院卿李容翊が、フランスの貿易業者・ロンドンとの間で「鉄道材料物品供給契約書」を締結して、本格的に敷設を進めようとしました。
契約の内容は、ロンドンが90万円相当の資材を供給し、毎月2万円ずつ償還を受けるというものでした。
一方で、朴琪淙は李載完とは別に、西北鉄道局監督の李寅栄を通じて、高宗から敷設権の内諾を得ようとしました。
朴琪淙の案は、李載完の案よりも経済的なものだったため、高宗は、西北鉄道局に対して、朴琪淙の請願を認許するよう、勅命をおろしました。
ただし、いくつか条件がありました。
一、工事は大韓鐵道會社が担当すること。
一、工事を担当する区域は、京城-平壌間とすること。
一、都給の例(出来高制)により工事を担当すること。
このような制限事項は、李容翊がロンドンとの契約で進めていた計画に配慮したものと思われます。
また、工事区間を京城-平壌間に限定したのは、ロシア側の要望にも配慮したものと思われます。
高宗の勅命に従って、1903年7月30日、西北鉄道局は大韓鐵道會社が京城-平壌間の工事を請け負うことを正式に認可しました。
ただし、これは工事だけの話で、経営権は与えられていませんでした。
1903年8月19日、西北鉄道局長の李炳観と、大韓鐵道會社社長の鄭顕哲、副社長の朴琪淙との間で協議が行われ、次のような協定が結ばれました。
一、京城-開城間の工事は、大韓鐵道會社の専任とすること。
一、工事予算は、踏査後に決定する。
一、工事代金は、竣工後に支給し、全部の支給が終わるまでは、鉄道の経営
を、大韓鐵道會社に許可する。
一、大韓鐵道會社が負担する契約証拠金は一万円とし、竣工後、返還する。
一、平壌-義州間の工事は、追って定めること。
大韓鐵道會社は、この契約に基いて、日本に借款を要請しました。
そこで、双方が様々な条件の摺り合わせに難航しているうちに、韓国内では、敷設権が日本側へ譲渡されるのではないかという噂が立ち始め、西北鉄道局が契約書を返還するように求め、大韓鐵道會社は一旦はこれに応じましたが、その後、噂は真実ではなく、資本不足を補うための努力をしているのだという釈明をして、契約書を取り戻しました。
そこで、もはや一刻も猶予できないと考えた日本側は、それを待っていたかのように、朴琪淙邸で会合を持ち、借款契約を締結しました。
9月12日、西北鉄道局は、この契約を承認し、大韓鐵道會社には、顧問技師の阿川重郎と、業務顧問の志村作太郎の二人の日本人が入社しました。
その後、日露戦争の開戦が迫り、日本は京釜鉄道の敷設を優先させたため、京義鉄道の敷設計画は、ここで一旦、棚上げとなりました。
そして、いよいよ日露戦争が始まると、1904年2月23日、日本は大韓帝国政府との間に、「日韓議定書」を締結し、大陸への輸送手段を確保するため、京義鉄道の軍用化方針を大韓帝国政府外部に通告し、日本軍が軍用鉄道としての京義鉄道の敷設に着手することになりました。
大韓鐵道會社との契約については、戦争という不可抗力によって、日本側の義務は一切消滅した旨、大韓鐵道會社に通告し、3月21日、大韓鐵道會社はこれを承諾しました。
1904年8月9日、西北鉄道局は鉄道院に統合され、1905年3月8日には宮内府官制が改正されて西北鉄道局が廃止され、さらに4月16日には、西北鉄道局の監督フェーブルと、技師のラペリエル、プダレも解雇されることになりました。
1896年から足掛け8年間、京義鉄道のために尽力してきた技術者ラペイエルは、自国の公使に対して、技術者らしい熱意が感じられる手紙を送っています。
ラペリエルからフランス公使への手紙 ( ※2 )
1904年5月13日、ソウル
閣下
木曜日に訪問する件でお約束をいただき、光栄に存じます。
1900年4月21日付けの大韓帝国内蔵院との契約書の写しをお送りします。
ご覧のように、この契約には、特定の年限は指定されていません。
フランスの技術者の存在は必要と思われます。
ソウルから義州までの路線で行うべき調査と作業があり、鉄道路線が存在する限り、常に新規、または修理の作業が必要になります。
それが、この契約を私の願いどうりに永く続けることが必要だと考える所以です。
しかし、私の契約が取り消されるのであれば、私がいるべき期間を主張することはいたしません。
私が口頭で閣下にお話したとうり、閣下は正当な違約金を要求する理由を承認されましたが、私は現在、いままでと同様の地位にいることを模索しています。
三年前に中断したあと、別の職員たちがいる会社で、私がいままでの地位に就くには、おそらく、かなり待たなければならないでしょう。
しかし、私は六年前に、フィブリーユ会社のために、平壌への路線を調査し、三年前からは、韓国皇室のための仕事を始めました。
閣下、私は、自分が置かれている状況を明確に認識しております。
いかなる状況であろうとも、この問題を最も有利な条件で解決するために、外務大臣に対して最善の助言をして下さることを確信してやみません。
閣下に深い敬意を表します。
韓国皇室技術者 J・ド・ラペイリエール
参考資料
新編韓国史44 甲午改革後の社会・経済的変動 (崔元奎著)
國史館論叢第84集 光武年間の工業化政策とフランスの資本・人材の活用(全旌海著)
国史編纂委員会 高宗実録、承政院日記
朝鮮鉄道史 第1巻 (朝鮮総督府鉄道局編, 1929 )
※1 和田春樹「日露戦争 起源と開戦(上)」(岩波書店, 2009 )
※2 駐韓日本公使館記録 24巻 四. 雇外國人