大韓帝国 (3) | 朝鮮王朝から大韓帝国へ
○ 西-ローゼン協定 (1
 

1898年4月25日、その後の韓半島における日露間の力関係を規定することになった「西-ローゼン協定」が締結されました。
この協定の内容がどういうものだったのか、結論から先に書くと、その眼目は次の一点に集約できます。
 
「日本は、満州でのロシアの活動に異を唱えない。ロシアは、韓国での日本の
経済的支配を認める。但し、日本の軍事上の韓国支配は認めない。」
 
そもそも、この協定は、1896年6月に山縣-ロバノフ協定を結んだ際に、ロシア側から提案されていたものでした。
山縣-ロバノフ協定は、露館播遷のさなかに行われた協商だったため、韓国の保護国化を目論んでいた日本にとってみれば、ロシアと対等、もしくはロシアの優位を認めたもので、相当に譲歩したかたちにならざるを得ませんでした。
協定の中身は、実質的に日本側の動きを牽制する内容ばかりで、ロシア側が認めたのは既設の電信線の管理のことぐらいで、これさえも朝鮮側が買い取ることができるとされていました。
日本に不満がないはずはなかったのですが、その点は後日、次期駐日ロシア公使のロバノフが日本へ赴任してから改めて協議しましょうと言われ、日本も引き下がざるを得ませんでした。
このとき、ロシアと清国の間で、いわゆる「露清密約」が結ばれていたことを、
当時の駐露公使西德二郞も、まったく気が付いていませんでした。

さて、西-ローゼン協定に先立って、ロシアはアレクセーエフ Karl Alexeieff,
朝鮮名:戞櫟燮)を度支部総顧問官として韓国へ送り込みました。
(極東総督のアレクセーエフとは別人)
これは、ニコライ二世の戴冠式に出席した閔泳煥の要請にもとづいて派遣された
ものです。
 

承政院日記 1897年11月3日 (陰)10月19日
 
議政府贊政外部大臣趙秉式が奏上した。
前駐俄全権公使閔泳煥が招聘したロシア官員アレクセイエフが来韓したので、臣は、ロシア公使スペイエルと既に締結した条約により、度支部顧問官として雇用し、該当主務部に命じて期日を定め、業務に当たらせたいと思いますが、いかがでしょうか?と謹んで奏上した。
奏上の通りにせよ。度支部の財政と海関の税収については、主務大臣と公正、妥当に協議のうえ処理し、あらゆる支出について署名押印して照票を発行し、誤りがないように慎重にせよとの勅旨を奉じた。
 

こうして韓国政府の度支部顧問官となったアレクセーエフは、ロシア政府大蔵省の顕官で、赴任の前に、かつての朝鮮政府が井上公使の斡旋で、日本から借款を受けた三百万円の償還金を貸与するために、その資金調達に尽力していたとされています。(1897.03.12 機密送第一四號)
1897年11月、趙秉式とスペイエルの間で結ばれた露韓合同条約により、正式に雇聘契約が結ばれました。
このとき、1895年6月から、度支部顧問として財政管理を担当していたイギリス人のブラウンJ. McLeavy Brown、朝鮮名:栢卓安)が、英国総領事ジョルダンの反対にも関わらず、解雇されることになりました。
これに対して、イギリス既得権益を守るために、東洋艦隊の軍艦七隻を仁川に停泊させ、ジョルダンが士官一名、水兵十名を率いてソウルに入り、示威活動をおこなってブラウンの解雇を撤回させました。
そのため、当時の韓国政府には二人の外国人度支部顧問がいたことになります。
ブラウンは三百万円の借款のうち既に百万円を償還しており、年末までにさらに
百万円の償還をおこないました。
この三百万円の借款というのは、借りた当時にほとんど遣い果たしてしまったため、この頃の韓国政府の財政も、極度に逼迫していました。
一方のアレクセーエフは、1898年、京城に露韓銀行 (露清銀行のソウル支店とも言うべきもの)を設立して貨幣の鋳造権を獲得し、1894年の新式貨幣章程で例外として通用を認められていた日本の1円銀貨の通用を禁止しました。
これは1897年に日本が金本位制へ移行して、1円銀貨を廃止したため、朝鮮で流通していた1円銀貨が日本の旧貨になってしまったことによる措置でした。
その当時、朝鮮国内には総額で1000万円ほどの貨幣が流通していましたが、そのうちの350万円が日本の1円銀貨でした。
これをすべて回収するとなると、日本の貿易に支障をきたすため、第一銀行の渋沢栄一が日本銀行総裁の岩崎弥太郎の認可を得たうえで、刻印銀貨(1円銀貨に刻印を施したもの)を韓国内で通用させてほしいと韓国政府に陳情しましたが、結局、認められませんでした。
歳が明けて、1898年1月、あらためて、日露協商についてロシア政府から打診がありました。
実際に協商が始まるまでに、4ヶ月程の時間がありましたが、その間の経緯も含めて、この交渉の経緯を見ておきたいと思います。
 

1898年01月27日   
露国の協商提議に関する件
加藤 辨理公使 → 西 外務大臣   
機密第八號
 
(要約)
ロシア外務大臣が皇帝の意を受けて、在露日本公使(※林董)に語ったところによれば、日露両国が韓国で常に軋轢状態にあるのは互いの利益にならず、日本の韓国での利害関係がロシアに比べて大きいことを認め、将来の行違いを避けるため、協商の途はないか、提議したいとのこと。
本月十五日、在日本ロシア公使(※ローゼン)が閣下(※西外務大臣)を訪問し、おおよそ同じ意味のことを述べ、且つ、ロシアは、日本の韓国での商工業上の利益が進捗するように、充分に助力する覚悟であると申し出た。
閣下はこれに対して、ロシアがまず、韓兵訓練についての現在の地位と、財政顧問(※アレクセーエフ)の契約を撤回する意志がなければ、満足な協議はできないだろうとご回答になった。
閣下の露公使に対する御回答は全く卑見と同じで、現在はこれ以上の回答はないと考える。
(中略)
そもそも、露國が最初から本当に協商の実を挙げようとしていれば、今の難局もなかったことは論を俟たない。
ロシアが本当に協商の実を挙げる気がなければ、いま姑息な取り決めをして、一時を取り繕ってみても、結局は何の利益もないだけでなく、あるいは、反って将来の障害になるかもしれない。
山縣大使とモスクワ議定書を取り交わし(※1896年6月)、その一方で露韓密約を結んだということからみても、また、その後の実際の政略からみても、容易にその意図を推し量ることはできない。
 
 ※露韓密約 :ニコライ二世の戴冠式に出席した閔泳煥の要請(※1896年4月)
 
もし、今回の提議がほんとうに協商の実を挙げようとする意図から出たものであれば、一旦、両国の関係を対等の立場に戻したうえで、談判に取り掛るのが当然のことと存ずる。
(中略)
東洋の形勢をみると、ドイツが膠州湾を占領して以来、東洋の趨勢が急速に変わろうとしている情勢であり、将来、露國がどのような動きをするのかは予知し難いが、韓国にとって清国などは到底頼むに足らないとすれば、進んで何かするときはもちろん、退いて今の地位を安全に保持しようとするときにも、我国の友助を必要とするのは、情勢からみて当然である。
況や、英字新聞などは盛んに日英の同盟を唱道し、英国の政治家のなかにも公然とその論を吐露する者もいて、しだいに歩み寄りつつある両国の関係は、遂に同盟の実を産み出そうとしているようにも感じる。
加えて、英国は(※ブラウンの一件で)何か意図があるらしく、東洋艦隊の一部を動かして、朝鮮の海に来泊させている。
そのような状況なかで、十二月二十一日、露公使が本官を訪問し、日露同盟は互いに利益があると述べ、他国が及ばない勢力を作るものだと付け加えて、本官の意見を聞いた。
本官は、露國の出方次第では、望みがないこともないだろうと答えておいた。
(中略)
軍隊訓練のことについては、その範囲を定め、一重に教育のことだけに止め、教官の数も、下士官以下、合計十人以下として、傭用年限を一年契約として、一切、実地の勤務には従事させず、軍政にも容喙させない、また、財政顧問のことについては、その職務を純然たる顧問に止めて、その権力を縮小し、契約年限を短期に定め、後任の総税務司の傭用に関する条項を一切撤棄させるようにしたい。
さらに、先頃からこの問題を観察すると、韓国政府を我国に招致して、協商の実現に一役買ってもらうのが第一の急務と考える。
韓国政府が常に露国の手中にある間は、如何なる協商をしても、満足に実行されるとは思えない。
今は幸いなことに、皇帝から群臣に至るまで、東洋の形勢を顧みて、ようやく日韓提携が得策であることを悟り、一旦、地に落ちた帝国の威信が、ようやく回復する機運となり、好機があれば、閔泳駿等の有力家を起して内閣改造を行おうとするところまで来ている。
ただ、今なお逡巡しているのは、まさに露國の威嚇を恐れてのことである。
万一、我が艦隊が韓国の海に来るようなことになれば、たちまち我国になびくことは微塵も疑いはない。
よって今、多少の声援が与えられることを切に希望する。
韓國がこのような形勢なので、韓國において、日露協商を実行できるように、確固とした立場を造り、我国が十分な強みを備えて、しかる後に露國との協商に当たれば大いに便益があるものと考える。
露國との親交は遠い将来のことはさておき、我国のために目下の急務である。
そうであれば、直ちに露国に向うよりは、むしろこの際、日英親近の態度を示すほうがよい。
幸いに英國は、近頃、艦隊を動かして何か行おうとしているようで、また盛んに日英同盟を唱道しているので、我国としては、その虚勢を利用して、暗にこれと和合するかのように装い、巧みに我国の艦隊を操つるだけでよい。
これは韓國において協商実行の地歩を造り、また、この協商が容易に決行されるようにするための一石二鳥の方法である。
(中略)
商工業について助力するという件は、その意味があまりにも漠然としているので、これに対して一定の見解を述べることはできないが、大体において本官の意見を述べる。
第一に、韓國での我国の商工業に関して、露国の助力を受ける必要があるのか、第二に、露國が我国に対して有力な援助を与えることができるのか、研究しなければならないと考える。
第一の点に関しては、我国の商工業は近来自然に発達の歩調を進めており、さし当たって露国の助力を受ける必要はないだろう。
第二の点に関しては、露国が直ちに財政顧問アレキセーエフのことを承知するかどうかわからないが、同氏の契約は我国から異議を挾んでいるので、これに一定の地位を認めて考えるべきではない。
(中略)
鉄道や鉱業などに至っては、今日の形勢からみて、到底、露国に期待できないとすれば、積極的で有効な助力を得られる余地はないと考える。
もしそうであれば、商工業に関する助力の件は、おそらく、日本が英國に傾こうとするのを防ごうとする大きな空餌に過ぎないと思われる。
そのへんは深く御熟考のほどを希望する。
最後に、ひとつの希望として付け加えておきたいのは、新協議が成功する望みが立った場合には、これを機会に、財政に関することは、結局、日本の監督に帰することが当然であると認めさせ、韓国政府、並びに一般の金融機關として日韓銀行の設立と、農商工部、及び度支部のなかの典圜局に、本邦人顧問各一員を置くこと、並びに各港税関の副長以上の地位に本邦人を傭用させるようにしたいと考える。
もっとも、税関へ本邦人を傭用させることについては、現任総税務司ブラヲン氏と充分に円滑な協議を調えた上で施行すべきなのは、もちろんである。
本件の大要は既に歐文第一號で電稟に及んだが、重ねてここに申し上げる。
敬具
 

さて、前回も書きましたが、ロシアは日露協商を目前に控えていた1898年3月、清国と「旅順大連租借条約」を締結し、旅順、大連を25年間租借し、不凍港
獲得することになりました。
これは4月に入って、日本にも情報が入りました。
 

1898年4月21日 
旅順口と大連湾租借に関する露清特別條約締結報告の件     
外務大臣 男爵 西德二郞 → 在韓辨理公使 加藤增雄   
送第三一號   
 
(要約)
旅順口及び大連湾の貸借に関する露清特別條約締結の義につき、別紙の通り、在
ウラジオ二橋貿易事務官から報告があったので、御心得までに写しを差進める。
敬具
 
[別紙]
旅順口及び大連湾貸借に係る露清特別条約締結の件

第二○號
本件については既に詳細をご存知のことと存ずるが、これに関する露國政府の報告が当地近刊の「ダーリニーウオストク」新聞紙上に掲載されたので、念のため翻訳して、とりあえず報告する。
敬具
 
1898年4月7日
在浦潮港 貿易事務官 二橋謙 → 外務次官 小村壽太郞 殿

[附屬書]  露國政府報告
 
3月27日(露国の15日)、北京において、露清両国の全権委員は、特別な協商に記名認印した。
この協商により、(ロシア)帝國政府は旅順口、及び大連湾両附近の相当な土地と海域を合わせて、二十五ケ年間、借用することができた。
もっとも、この年限は、後日、双方協議のうえ、延期することができる。
また、この港湾をシベリア鉄道本線と結ぶため支線を敷設する権利を与えられた。
この協商は二大隣国間の親密な交誼の結果であり、両国臣民の利益のために、その広大な境界において、安寧を保持するよう努めなければならない。
三月十五日の外交文書によって定められた友邦国の港湾と土地を、露國陸海軍が平和的に占るに至ったことは、北京政府が両国間に成立した協商の趣意を正しく了解したことを証明するものである。
この協商は清国の主権の保全を保証し、これと隣接する大海国であるロシアの需要を満足させるもので、決して他国の利益を害することはなく、反って万国の臣民は、今日まで閉鎖していた黄海沿岸との交通の利便に、間もなく浴することになるだろう。
露清両国の親密な条約によって、諸外国の商船に大連港を開放することは、今後、欧州、アジア両陸を連絡する役目をもったシベリア鉄道を介して、各国の商工業のために、太平洋に一大中心を創設することである。
したがって、今回、北京において成立した協商は、露国にとって歴史的に深い意味を持っており、また、平和の利得と、万民のために交通が開かれることを願う者は、これを歓迎するにちがいない。
 

旅順大連を手に入れ、同時に南満州支線の敷設権も獲得したロシアの関心は、
韓国から満州へと移っていきました。
一方、韓国内では、独立協会を中心に、反ロシア的な世論が高まっていました。
独立協会は小さな集会から街頭での大集会へと成長して、列強による利権の収奪や、ロシアに依存する政府の姿勢に批判が噴出するようになりました。
1898年3月10日、21日に鐘路街で開かれた万民共同会には、一万人以上もの民衆が集まって、ロシア人軍事顧問財政顧問の解雇を要求しました。
また、高宗の側近だった金鴻陸が暴漢に襲われて負傷するという事件が発生して、高宗もこうした動きを無視することができず、ついにこの要求を認めざるを得なくなりました。
これにより、ロシアも、出来たばかりの露韓銀行を閉鎖せざるを得なくなってしまいました。
西-ローゼン協定は、こうした内外の急激な変化の中で協議がおこなわれました。
 
                                           (つづく)
 
 

 
参考資料

駐韓日本公使館記録