大韓帝国(58) | 朝鮮王朝から大韓帝国へ

日露戦争前の情勢(8)

日英同盟締結前後の韓国の情勢



1901年(光武5年、明治34年)の韓国内の出来事

      Horace N.Allen 「A Chronological Index」より 
        
 2月    韓廷がドイツ人医師を雇用する契約を結んだ
 3月    韓国政府が総税務司「ブラウン」の解雇を検討
 4月    日本が韓国の海岸に無線基地の建設を申請し、韓国政府が拒否
    駐日公使成岐運が帰国、1903年2月まで駐日公使不在となった
    ロシアの材木利権を20年延長
          李容翊がフランスのシンジケートと、500万円の借款契約を締結
          メルレンドルフが寧波で死亡
          韓国政府が新式ライフル銃一万丁、カートリッジ百万個を輸入
 5月    済州島の反乱で、フランスの砲艦が宣教師救出のため済州へ出発
      韓国軍100名が反乱鎮圧のため済州に到着
 6月    中国人と韓国軍の間で激しい衝突があった
 7月    中国が鴨緑江を侵略したため、ロシア軍三部隊が迎撃
      ロシアが砲艦ボーブルを鴨緑江河口に派遣
    韓国政府が穀物の輸出を30日間禁止し、インドシナ米の供給を契約  
 8月  日本の艦隊六隻が済物浦に入港、東郷提督と華頂宮が高宗に謁見         
    アレンが特命全権公使を継続(1905年6月まで留任)
      ソウル電気会社の東大門発電所が街灯へ通電
      永登浦で京釜鉄道の起工式、近衛篤磨が参列し、高宗に謁見
 9月    淳嬪嚴氏が淳妃嚴氏に昇格
10月   ソウルの水道工事に関税収入から160万円を充当する旨の勅令
      灯台整備のため、関税収入から100万円を充当することを決定
11月   韓国政府が輸出穀物の積み出しを禁止
12月   韓国の飢饉が深刻な状況になった


前回まで「日英同盟」を取り上げましたが、その頃の韓国では、経済面でも日英の協力体制とも言うべきものが築かれていました。
英国政府の意を受けた総税務司、兼度支部(大蔵省)顧問のブラウン(J.Mcleavy Brown:柏卓安)と、日本政府の意を受けた第一銀行頭取の渋沢栄一の協力です。
この経済の日英同盟とも言うべきものが、韓国政府による経済政策の努力を抑圧し、韓国の経済を侵食していきました。
もともとブラウンは、清国の九江海関の税務司を務めていましたが、前総税務司のモーガンが病気で帰国することになったため、1893年に李鴻章の斡旋で来韓し、

後任の総税務司に任命されました。
日露戦争後の1905年8月までの12年間、度支部財政顧問として韓国政府の財政整理にも従事しました。
ブラウンは、1897年11月、度支部財政顧問にロシア人のアレクセイエフ(Karl Alexeieff)が就任した際に韓国政府から解雇通告を受けましたが、イギリスが軍艦

7隻を仁川に派遣し、イギリス総領事のジョルダンが水兵10名と士官1名を引率してソウルに入り、示威活動をおこなって圧力をかけたため、ブラウンの解雇が取り消されるという経緯がありました。

その結果、度支部財政顧問と総税務司は、この二名が務めることになりました。
その後、光武改革によって韓国でも税金の現金納付が進み、貿易や商業も発達して貨幣の流通が急速に拡大し、また、国庫金を管理する機関も必要になったため、大朝鮮銀行、大韓銀行、漢城銀行、大韓天一銀行など、韓国人の手による銀行が誕生しました。
これらは、皇室や高級官僚などが中心になって設立したもので、漢城銀行以外は、初めから国庫金の管理を担う中央銀行になることを目指していました。
しかし、英国政府の政策を忠実に履行する度支部顧問のブラウンが、民族系の銀行が中央銀行になることに強く反対したことや、渋沢栄一が頭取を務める第一銀行の進出によって、韓国政府はこの目標を実現することができませんでした。
1899年以降、韓国政府が列強国からの借款を計画した際にも、第一銀行は、海関税の取扱い銀行の立場から、税関収入を借款の担保に設定することを拒否し、これらの借款交渉をすべて阻止しました。
度支部協辧だった李容翊が契約の締結まで進めていたフランスとの500万ウォンの借款交渉も、第一銀行が関税収入を確保できるよう、日本政府とブラウンが反対運動を展開したため、結局、李容翊が目指していた韓国の幣制改革は失敗に帰すことになりました。

このときブラウンは、イギリス本国政府から、フランスとの借款は必ず阻止せよという指示を受けていました。
その頃、イギリスは総税務司のブラウンを通じて海関税の管理権を掌握しており、日本は、渋沢の第一銀行を通じて海関税の収納権を握っていました。
ブラウンはロシア勢力を牽制するため、日本を支援していたイギリス政府の政策に従い、日本の第一銀行に海関銀行としての地位を維持させるため、1900年10月、

第一銀行との間に500万ウォンの当座借越し約定を締結しました。
この契約によって、第一銀行は35年間、海関銀行の地位を保証されることになりましたが、日本政府が第一銀行に対する資金援助の方針を取り消してしまったため、韓国政府との契約は履行されずに終わってしまいました。
その後、韓国政府は、中央銀行を設立して、国庫金の収納や海関税などの各種税金の収納計画を立てましたが、折悪しく日露戦争が勃発し、この計画が頓挫してしまったため、第一銀行は海関銀行としての地位をそのまま維持することになります。

上の年表にあるように、1901年3月、そのブラウンを再び解雇しようとした事件がありました。
以下、1901年3月30日に林公使が加藤外務大臣へ送った報告の要約です。

およそ3~4か月前、ブラウンが韓帝(高宗)に謁見した際、韓帝から、ブラウンが居住していた家屋を明け渡してほしいとの要請があった。
ブラウンは、何かと都合もあるので、少し時間をいただきたいと言上した。
ところが、そのときの通訳が、3か月後に明け渡しますと高宗に通訳をした。
そして、明け渡し期日になったため、宮内大臣代理が直ちに引渡しを求める書面を送った。
それを見た英国公使は直ちに外部大臣に抗議したが、それと行き違いに宮内府が派遣した内官数名がブラウンの居所に赴いて引渡しを求めた。
ブラウンは非常に驚き、憤慨したものとみえ、挨拶もせずに内官等を追い出し、

多少、穏やかでない挙動もあったため、韓帝が激怒したという。
そこで、外部大臣が英国公使に対して、ブラウンの解雇を照会した。
本件は、表面的には以上のような経過だったが、英国公使の説明では、兼ねてから露仏公使等が、とにかくブラウンが地位を保っていることをよしとせず、何とかして退けたいと望んでいて、多少の計画があったらしいが、たまたま家屋の明け渡しを口実に、ついに解雇云々と挑発してきたとのことである。
本件に何らかの魂胆があったとすれば、近頃、当政府や宮中の財政に関して少なからぬ関係を持っている李容翊の如きが、海関の収入にまったく触れることができないことを恨みに思い、何とかしてブラウンを退け、その収入を勢力下におきたいとの底意から出たものではないかとも推測される。
一部の韓人の間でも、本件を李容翊の強い勧めから出たものだとする者もいる。
本使は本件に関して内々に斡旋してほしいと英国公使から依頼され、本使もブラウンのために援助を与えることは我国の利益になると認めた。
しかし、外部大臣の朴齊純の如きは、韓帝は勿論、宮中から出た意見に対して自己の所信を述べて争うような力はまったくないので、取りあえず二、三の内密の筋から、このような事情で他国の感情を害するのは極めて面白くなく、ブラウンを解雇するようなことは英国政府も到底黙認できないから、解雇に関する照会文を撤回して、内官を送って突然に家屋の明け渡しを求める等の穏やかならぬ処置に関しては、外部大臣、もしくは宮内大臣に、行き違いだったとの謝辞を述べさせて、本件が平穏に帰するように取り計らわれてしかるべきだとの趣意で、韓帝(※高宗)に数回の勧告を試みた。
韓帝は、ひと通り御嘉納されたようだが、本件はまだ落着していない。
英国公使は本件について、本国政府の訓令を要請した趣である。
同公使によれば、このような事情で解雇されるのは英国政府が承諾できないので、韓帝に謁見の上、その旨申し述べるようにとの回訓に接し、本使に対して今後とも内部から援助を与えてほしいと求めたので、本使も応分の援助について承諾した。
元来、ブラウンは長く総税務司の要職にあり、韓帝の信用も相応に維持しているにも関わらず、人となりが強硬で、韓人、及び在留諸外国人の評判がとにかく宜しくない。
要するに、同人が他人に対して一歩も譲らず、寛容さがなく、したがって当国で行われる一種の請托等に関しても常に悛拒して仮借がないため、海関の収入を直接、或いは間接の目的として、韓人、若しくは諸外国人が計画する各種の事業は、同人のために目的を達することができないという状況があり、近来、これらの事業熱の勃興と共に、同人に対する内外人の忌憚が増しているのは事実である。
したがって、本件のような些少の行き違いから、突然、解雇の話が起こったのも、日頃同人を忌憚している輩による計画ではないかとの疑いがあっても当然のことと思われる。
しかし、同人を排斥したあとは、果してどうなるのか。
これらの排斥者が計画しているのは、十中八九、自己の利欲に駆られた各種の事業にほかならない。
もし、ブラウンが排斥されれば、海関収入はすべて、これらのために蹂躙されるのは必定で、あるいは海関を外国への抵当とするようなことがあるかもしれない。
そうなれば、勢い帝国の利益と衝突することになるので、本使は英国公使の依頼を幸いに、また閣下の御訓令にも接したので、本件に関して斡旋の労を辞さない次第である。
本件の今後の成り行きは平穏な終局を見るものと思われれるが、なお、じっくりと将来を予想すると、たとえ今回は無事に終局したとしても、すでに内外人の不評を被っているブラウンの地位がいつまで続くのか、また、海関収入がブラウンの専管となっている現在の状況がどこまで続くのか、帝国の利害として考慮を要するものと存ずる。
本件に関連して、目下、排斥派は、これまでの10余年間の海関の収支についての帳簿を検査しようと主張しているようなので、調査が行われれば、同人の運命は、この先あまり永くないのかもしれない。
さらに、その収入が韓国政府の専属となり、他人の容喙の余地がなくなれば、いよいよ難しいことになるだろう。
不幸にしてそうなった場合には、前述のように宮中に出入りして軽々しく王命を振り回す無責任な少壮者が、一獲巨利を夢みる諸外国人と結托することで、海関収入が各種の事業に浪費され、前述の懸念を実施に見ることになるかもしれない。
そのときに故障を提起し、防遏の手段を執るのは難しいことではないが、故障を防遏するだけでは、いつまで続けられるか疑問である。
したがって、自ら進んで計略を講ずることも、今は必要と思われる。
ついては、この際、閣下に御熟考を要したいのは、昨年中に一度問題となった債案(※韓国政府への借款)である。
実は、本件発生の数日前、ブラウンの方から一時中止になっていた債案は、近頃、世人の耳目も漸く和らいだため、再び日本政府の考案を煩わしたいと申し出た。
金額もかねて五百万円と申し出たが、今は必ずしも、そこまで必要ではなく、使途に関しても、貨幣制度改革云々の名目では李容翊の反対を受けるだけなので、沿海に灯台を建設することを主な名目として海関を抵当にして借り入れたいとのこと。
ついては、本件が落着したあと、直ちに何とか本案の妥協を遂げたい。
そのようにして海関を抵当に取っておけば、将来、ブラウンの地位や海関の状況が変わっても、こちらは他の外国人が海関に容喙するのを防ぎつつ海関の主権を帝国の手に収めることができるものと存ずる。
金額の点について、本使はブラウンの意向を確かめたいと考えているが、帝国政府の御意向がわからないので、あえて控えている。
本使の見るところでは、二、三百万円くらいでブラウンの必要に応じることができると思われるので、閣下が賛同されれば、その金額で一応の交渉をしたい。
借し出しに関しては、単純に六分、ないし七分の利率として、別に込み入った条件は付け加えないほうが都合がよいだろう。
また、なるべく海関銀行である第一銀行に担当させるのが都合がよいと存ずる。
(内実は日本銀行に援助させるようなことも、ひとつの便法と存ずる。)
とにかく、本案が我に帰するか、他に帰するかは帝国の利害上、著しい影響を及ぼすことは言うまでもない。

※ この頃、高宗と李容翊は、フランスやベルギーとの借款交渉に精力を傾けていました。

なお、第一銀行としては、海関銀行の地位を永久に維持することのほかに、そのために生ずる間接的な利便が決して少なくないので、なるべく本案が成立する運びとなるように御詮議いただきたい。
本案に関しては、日露協商に抵触する御懸念もあるものと存ずるが、海関銀行と海関との貸借として表面を取り繕えば、異議のあるべき理由もなく、仮に帝国政府の後援によるものだとしても、日露協商が、日露間に万代不易の重きをなすものとも思われないので、深く気兼ねして、自ら得られる利益を遠慮し、それによって他を利し、自ら不利の立場になるようなことは、目下の時宜では好ましくないと存ずるので、ブラウンに関する事件が終局次第、猶予なく本案を協定する運びとしたい。
これはブラウンの地位を強固にし、且つ海関に日本勢力を移植する好機と存ずる。
(以上)


この頃の韓国は、日本によって継続的、且つ計画的に食糧を奪われ、そこに折からの飢饉が追い打ちをかけ、食糧の確保が喫緊の課題となっていました。
活貧党の活動や、海外への移民政策も始まって国の荒廃が進み、韓国経済も火の車で、経済的な自立や、国家としての独立が根本から揺らぐ事態に陥っていました。
こうした韓国の状況を横目に見ながら、日英両国が韓国を経済的に骨抜きにしようとしていたことがわかります。
ここで、ブラウンや第一銀行が、長年にわたって韓国経済に与えた影響を、簡単にまとめておきたいと思います。

そもそもの始まりは1876年に遡ります。
当時、徹底した鎖国政策を採ってきた大院君が失脚し、朝鮮政府の対外政策に宥和性が見え始めた矢先、日本は江華島周辺に軍艦を侵入させて江華島事件を引き起こし、武力で威嚇しながら、「日朝修好条規」を締結させました。
この条約の第4款によって、日本の商人は朝鮮の港で貿易ができるようになり、付則の第七款によって、朝鮮の港で日本通貨の流通が認められ、日本の貨幣が朝鮮国内で使えるようになりました。
米や大豆はもちろん、日本が特に目をつけていたのは、朝鮮の「金」でした。
朝鮮が日本貨幣の流通を認めてからは、大量の金が日本へ流出することになり、朝鮮産の金は、日本の正貨準備や、金本位制の維持に大きな役割を果たすことになりました。
当時開港したばかりの仁川と元山が金の集散地になり、釜山に支店を出していた日本の第一銀行が出張所を設置しました。
第一銀行は「国立銀行条例」によって設置されたため、「第一国立銀行」と言いましたが、実態は渋沢栄一、井上馨が勧誘し、三井組、小野組の共同出資によって設立された民間の銀行でした。
後に国立銀行条例が撤廃され、「株式会社第一銀行」と改称することになります。
第一銀行は日本の一私設銀行でありながら、早くから韓国政府の財政資金を利用して、日本銀行の業務を代行するなど、通常の銀行業務以外の特殊な業務を取り扱っていました。
第一銀行が取扱った特殊な業務を列挙すると、以下のようになります。

① 海関税の取り扱い
② 金や銀の買い入れ
③ 貨幣の整理
④ 韓国政府への貸し付け
⑤ 銀行券の発行
⑥ 韓国国庫金の取り扱い
⑦ 韓国中央銀行としての業務

これを見ると、まさに朝鮮侵略の尖兵と呼ぶにふさわしい活動をしていたことがわかります。
第一銀行は1875年に小野組が倒産したため、一度再編され、このとき頭取に就任したのが渋沢栄一でした。
1878年、渋沢はまず釜山に支店を開設しました。
もとより朝鮮には本位貨幣というものがなく、商取引には、粛宗4年から鋳造されていた「常平通宝」という穴あき銅銭(一文銭)を使っていて、貿易のような規模の大きな取引には非常に不便だったため、まずは通貨交換と為替取引の途を開くことが先決となりました。
開港初期の日本の輸入品は、米穀、牛皮などが主体でしたが、渋沢は何よりも金の買収を重要視し、まず大蔵省に建議して、政府からの継続的、且つ無利子の貸下金を得て、精力的に金の買収を進めました。
1882年、日本では日本銀行が設立され、紙幣兌換の準備として正貨(本位貨幣)に充当するための金や銀が必要になりました。
1884年1月、渋沢栄一は大蔵省に対して、韓国では金で、清国では銀での収入を下命してほしいと請願しました。
大蔵省では、公債証書を抵当に、第一銀行に対して紙幣30万円を前渡金として支給し、砂金と銀両を買い入れました。
1886年5月、第一銀行は日本銀行と地金銀導入に関する約定を締結し、日本銀行から与えられた買い入れ金で、本格的に朝鮮産の金を買収し始めました。
1886年5月から1889年8月の三年間、第一銀行が日本銀行に納付した地金は、合計300万円以上に達しました。(「日本帝国統計年鑑」)
これは同じ時期の日本国内の産金量の4倍以上にあたり、日本の金輸入総額のほぼ全てが朝鮮産でした。
このように、日本が金の買収に奔走した理由は、日本国内の不換紙幣の乱発によるインフレへの対策や、対外貿易の輸入超過による金、銀の対外流出が深刻な問題になっていたからでした。
この時期の日朝貿易は1886年を除いて、ずっと輸入超過で、その後も概ね日本の輸入超過の状態が続きました。
継続的に輸入超過の状態にあったということは、貿易収支からみれば、朝鮮から金が流入するはずがないのですが、朝鮮から流入した金は、第一銀行が発行した一円銀貨や日銀兌換券、手形などを使うことによって、金の採掘業者などから直接買い取ったり、あるいは借款の抵当として開発権を買い取ったりしたもので、正常な貿易収支の結果として、日本に輸出されたものではありませんでした。
つまり、日本は貿易収支による正貨の流入を得ることができなかったため、不当な方法で朝鮮産の無関税の金を収奪していたわけです。
それ以後も、第一銀行が韓国産の金の買収に積極的であったことは言うまでもなく、1878年から1907年の30年間で、韓国から日本へ流失した金の総量は21.6トン、金額に換算して2500万円以上という膨大なものでした。

朝鮮政府が海関を設置したのは1883年で、仁川、元山、釜山の順に海関が設置され、それまでの無関税貿易にかわって、海関で関税を徴収し、近代化政策の資金として活用することになりました。
また、清国から借款を導入し、その対価として、海関業務を清国に委任することにしました。
清国は海関の総税務司として、メルレンドルフ(P.G.Möllendorff)を朝鮮に送りましたが、メルレンドルフは、1884年、海関業務の核心ともいえる関税徴収業務を、わずか2万4千ウォンの借款を提供した第一銀行に委託譲渡しました。
そこで、第一銀行は朝鮮政府と契約を結び、徴収した関税などを第一銀行が発行する預り手形として海関に納付することにして、釜山、仁川、元山で海関税の処理事務を開始し、関税に関する事務を一手に引き受けることになりました。
当初は預り手形を発行するというかたちでしたが、渋沢は、追々、第一銀行券を発行して、朝鮮の中央銀行になることをひそかに目論んでいました。
渋沢は、釜山支店の大橋主任に対して、預り手形の扱い方について次のように指示しています。
「追々、この手形を日本商人間に流通するように心がけ、ついにはバンクノート(銀行券)の姿にしたい。故に、貴方もこの将来の希望は公言せず、簡単な引き換え切符のつもりでお申立てなさるべし。」

第一銀行は関税徴収業務を通じて、日本の朝鮮への経済進出と、朝鮮での日本商人の貿易を支援する活動を進めました。
それを可能にしたのは、日本政府と朝鮮政府の預金を取扱っていたことと、朝鮮の海関税を取扱う特権を取得したことによって、朝鮮政府に対する小規模な借款を持続的に供与するなど、他の普通銀行にはない特別な権利を持っていたからでした。
当初、朝鮮の海関税の取り扱いは、利子負担が全くなく、且つ手数料を受け取ることができるという有利な事業でした。
さらに、海関税という最も確実で安定した収入を確保することができて、海関税を預金として誘致することもできました。
その信用をもとに、銀行券と似た機能を持つ、いわゆる「韓銭預託手形」が発行されました。
これは一種の関税支払い証明、あるいは受領証のようなもので、貸借の決済に使うことが可能で、第三者に対しても有効だったため、表記金額が一定でないことを除けば、銀行券に似たような機能を持つものでした。
当時の海関税は、輸出税、輸入税、トン税を合わせて、1885~1894年の10年間の合計で約350万ウォンという巨額になり、朝鮮政府にとっては、極めて重要な財政源でしたが、それを取り扱う権利を、わずか2万4千ウォンの短期借款の対価として第一銀行に譲渡したことで、結局、日本の経済的侵略を許すことになってしまいました。
そのうえ、第一銀行が収納した海関税などの公金は、朝鮮政府の要求によって支出されるだけではなく、資本力が脆弱だった日本の商人のための資金にも流用されたため、日本の商人が朝鮮の商人を資金的に支配することも可能になりました。
規模の大きい日本商人を除いて、第一銀行が融資した資金は、主に穀物を購入するための資金として貸付けされ、日本人による穀物の輸出と内地の行商を促進することになりました。
これによって、農村での米穀の商品化が進み、イギリス製の綿織物が大量に輸入されたことで、朝鮮国内の手工業が壊滅的な打撃を受けました。

1894年8月、日本軍が景福宮を武力占領し、閔氏政権を倒して親日派政権を立て、「新式貨幣発行章程」発布しました。 
これは、新たに鋳造することにしていた朝鮮の五両銀貨を本位とする銀本位制で、通貨単位は、1両=10銭、1銭=10分、1分=10厘とされました。
日本円との交換レートは、5両銀貨が1円、1両銀貨が20銭、2銭5分白銅貨が5銭、葉銭(常平通宝)が2厘とされました。
日本の1円銀貨と朝鮮の5両銀貨は同じ重量で、今の貨幣価値では1万円前後になります。
しかし、実際には朝鮮の銀貨は見本として鋳造されただけで、流通用としては鋳造されなかったため、法貨として正式に流通したのは、 日本の一円銀貨(円銀)だけでした。
これは、「新式貨幣発行章程」のなかに、「当面は外国の貨幣の混用を認め、本国通貨と同質、同量、同価のものの流通を許す」と、但し書きで規定されていたためです。
つまり、形の上では朝鮮の貨幣制度改革のように見せかけ、実際には、日本が武力で朝鮮を押さえ付けて、日本の円銀を朝鮮の法貨にしたことになります。
1897年、朝鮮はロシアの庇護のもとで、国号を「大韓」と改めました。
その頃、韓国で流通していた貨幣の総額は一千万円ほどでしたが、その1/3を日本の通貨が占め、そのうち2/3が円銀で、残りが日銀券(一円兌換銀券)でした。

 

日本銀行兌換銀券


ところが、同年10月1日、日本が金本位制を実施して、円銀を回収することにしたため、韓国の本位貨幣になっていた円銀の供給が途絶えることになりました。 
そこで、第一銀行頭取の渋沢栄一が、在韓日本人商業会議所の建議と、日本政府の要望を受けて、韓国に銀貨市場を残す方法として、従来の一円銀貨に刻印を付した「刻印付円銀」を通用させるという提案をおこないました。
この提案は、当時の朝鮮の三港(※釜山、仁川、元山)、及び京城で流通していた一円銀貨は、所有者の希望によって、一定の刻印を付けて、当分の間、朝鮮の開港場の流通貨幣として充当するよう、韓国政府の同意を得るというものでした。

 

銀と刻印された、刻印付き円銀


これを大蔵省が承諾したため、渋沢は第一銀行釜山支店長に対して、刻印付円銀の通用問題をブラウンと協議するよう指示しました。
ブラウンは、海関税を刻印付円銀で収納し、相場の急激な変化を防止するため、刻印のないものも同じように授受すると約束しました。
この刻印付円銀は、大蔵省が日本銀行を経由して第一銀行に3万円を交付し、それ以降、合計33万円が韓国で流通しました。

1897年11月、度支部財政顧問にロシア人のアレクセイエフ(Karl Alexeieff)が就任しました。
アレクセイエフは加藤弁理公使を訪問し、日本政府が刻印付円銀を日本の本位貨幣(一円金貨)と同等の価値を持つものと認める契約を締結すれば、韓国政府は刻印付円銀を法貨と認定してもよいと申し出ました。
しかし、日本政府はこれを拒否しました。
そのため、アレクセイエフは円銀を「廃貨」と認定し、韓国政府に対して、刻印付円銀は銀地金にすぎないとして、その通用禁止を建議しました。
アレクセイエフが刻印付円銀の通用に反対した理由は、「日本政府が無期限の交換を保証するのであれば、韓国の法貨としてもよいが、その条件がないのであれば、銀価の下落によって政府が理財上の影響を受けることが少なくなく、一般国民も、やはり経済上多大な損害を免がれないので、将来、こうした損害を予防するには、この円銀の通用を禁止しなければならない」というものでした。
そして、1898年2月、韓国政府は刻印付円銀の通用を禁止し、度支部と漢城の四門に掲示文を張り出して告知しました。
しかし、総税務司のブラウンは、この禁止令に反対し、相変らず刻印付円銀を海関税として収納し、日本商人の貿易を側面から支援しました。
3月、露韓銀行が開設され、ロシアが貨幣鋳造権を獲得すると、これに呼応するように独立協会の排露運動が沸騰しました。
これによって財政顧問のアレクセイエフや軍事教官が解任され、4月には露韓銀行も閉鎖され、朝鮮半島からロシア勢力が撤退することになりました。
一方、金本位制に移行した日本は、韓国に流通していた一円銀貨を回収することにしていたため、遠からず貨幣が欠乏し、貿易に支障を来すことが懸念されたため、渋沢栄一は、第一銀行支店の業務視察という名目で訪韓し、刻印付円銀の通用禁止令を解除させるために、高宗や大臣に会って、何度も談判を行いました。
このとき高宗は、渋沢に密使を送って、銀行の設立と、銀貨鋳造のための借款を提供してもらえれば、刻印付円銀の通用を許諾してもよいと提案しました。
しかし、渋沢は韓国の貨幣制度改革の計画を阻止するため、「地金を借り入れて貨幣を鋳造するのは、結局、他国に依頼することになるから、それよりも、刻印付円銀を使うほうが得になる」と、韓国政府の大臣たちを説得しました。
韓国政府にも貿易通貨の欠乏に対する明確な対策がなかったため、結局、刻印付円銀の通用禁止令を解除することとしました。

一方、清国でも、1890年から、「光緒元宝」という銀貨を発行していましたが、1900年に「義和団事件」が発生すると、上海や香港で銀価格が高騰して、韓国内の円銀が大量に流失しました。
韓国は本位通貨を大量に失うことになり、かわりに「新式貨幣発行章程」で補助貨幣とされていた2銭5分白銅貨を鋳造せざるを得なくなりなりました。

 

 

二銭五分白銅貨

 


古来の葉銭は、1892年に鋳造中止になっていたため、鋳潰しなどによって、流通量は半分ほどに減っていて、主に韓国南部だけで使われていました。
白銅貨は典圜局で鋳造されただけでなく、王室の財政収入のために、特定の人に鋳造権が特許されることもありました。
例えば、1901年と1902年には、鋳造額の一部を王室に上納するという条件で、一万ウォンを限度として、日本人にも白銅貨の鋳造権が特許されました。
1901年の鋳造額は三百万ウォンに迫り、1903年には三百万ウォンを突破しました。
偽造なども盛んに行われ、白銅貨の種類は500種類以上に及んだとされています。
なかには、日本で盗鋳した白銅貨を密輸入する者もおり、貨幣の偽造には機械が必要なため、特に日本人の偽造が問題になりました。
韓国内の日本人だけでなく、京都や大阪にも数十か所の偽造所があったということで、1902年には、「韓国白銅貨私鋳取締」という緊急勅令まで発布されました。
韓国でも、円銀の欠乏から、1901年に「新式貨幣発行章程」による銀本位制を廃止して、金本位制を採択することになりましたが、本位貨幣である金貨は発行されず、白銅貨だけが鋳造されました。
白銅貨の濫鋳と盗鋳のため、白銅貨の流通量は激増しましたが、流通量の増加に比べて流通地域が拡がらなかったため、貨幣価値は下落し続け、韓国の幣制は紊乱状態に陥りました。
白銅貨の価値が下落して、韓国の商品市場が縮小したため、輸出額が減少し、零細な日本商人が資金的な圧迫を受け、韓国商人との取り引きが途絶えて、類例のない不景気に見舞われました。
こうした白銅貨インフレの対策として、韓国政府は高宗の片腕となっていた李容翊を中心に、近代的な本位貨幣制度の樹立を目指していました。
一方、このような紊乱状態を絶好のチャンスと捉えた日本は、韓国貨幣の流通自体を廃止する方案として、第一銀行券の発行と、韓国貨幣制度の整理を構想していました。
日英同盟の交渉が本格化した1901年10月、駐韓林公使は小村外務大臣に次のような提案をおこないました。

「韓国政府の貸幣制度は現在のように不備な状態にあり、補助貨幣の濫発が甚しく、日韓貿易に悪影響を及ぼしている。
李容翊一派は、韓国貨幣制度の改革を企画し、渋沢もかつて日韓銀行の設立を提案したことがあった。
これらの計画は、現在のところ、その成否すら難しく、実際に効果があがるまでには膨大な資金が必要となり、歳月も要する。
以前、当国政府の特許を得て、紙幣を発行しようという計画があった。
これは、昨年、第一銀行が韓廷に500万円の借款を契約しようとしたとき、条件のひとつとして提出したものである。
当時、本使は、渋沢から協議を受けたことがあり、紙幣発行の代わりに、香港上海銀行が清国で発行した一覧払い約束手形や、清商が韓国で発行した手形の事例を示し、これらを此較研究のうえ、一覧払い約束手形の発行について、一定の計画を定めてはどうかと提案したことがあった。

※ 一覧払い約束手形 : 呈示したその日に直ちに換金できる手形。

渋沢はこれについて研究し、日本のその筋とも内々に協議したものとみえ、今回、在仁川支店支配人から本使に対して願書を提出させた。
一覧払い約束手形の性質は、兌換券と異なるところがなく、日本国内で流通させる目的のものではなく、第一銀行が韓国内に限って流通させるものである。
これを発行すれば、目下、日韓貿易上の障害になっている貨幣の欠乏を救済する最良の方便になるので、規則の許す範囲で受け入れて然るべきと存ずる。
これを承認するには、日本銀行兌換券と競争させないこと、並びに第一銀行の競争相手となる同業者に同様の計画を行わせないことが必要である。
また、第一銀行が発行する手形でも、広く確実に流通させるためには、海関税の納付に有効と認められる必要がある。
この点については、発行後、民間の信用を得たうえで機を見計って、その筋と協議すればよい。
ともかく、この銀行が商業界で信用を得られるように注意すれば、今後、韓国側に対する難問は、どのようにも切り抜ける手段があるだろう。
韓国内に流通する一覧払い約束手形の発行は、韓国の経済事情や第一銀行の地位からみて、承認して差し支えないと思われるので、貴大臣閣下に御異存なければ、この願書に対して、聞届け、もしくは承認等の文字を加えて指令をいただきたい。」


こうして第一銀行は、韓国の幣制紊乱による貿易市場の障害の除去と、海関税取り扱いの便宜を図るという名目のもとに、一覧払い約束手形の発行を大蔵省に要請しました。
大蔵大臣は、商業規定に違反していることと、強制通用が不当であるとして反対しましたが、第一銀行は、商法の例外規定を作り、強制通用ではなく、任意流通の信用証券とすることで許可をいただきたいと要請しました。
大蔵省はこの第一銀行側の主張を認め、11月に許可をおろし、その監督業務を、大蔵省の代わりに、韓国の各港に駐在する日本領事に担当させるよう指示しました。
1902年1月、日英同盟が締結され、それから4か月後の1902年5月、実質的には、第一銀行券ともいえる額面一円の一覧払い約束手形が釜山で発行され、8月には五円券、12月には十円券が発行されました。

 

 

一覧払い約束手形(渋沢券)

 


このとき、第一銀行は、ブラウンに対して予め協議を行い、承認を得ていましたが、林公使は、韓国政府とは何の協議もせずに、この計画を進めていました。
通称「渋沢券」とも呼ばれるこの一覧払い手形の券面には、「券面の金額は在韓国各支店に於いて日本通貨と引替可申候也」と表記されています。

ここで言う日本通貨とは、日本の本位貨である一円金貨ではなく、円銀と共に流通していた日本銀行兌換銀券を意味していました。
日本としては、兌換準備のための金貨の流出を抑え、韓国人に拒否されて、あまり流通していなかった日本銀行兌換券の流通を拡大させようとしたものと思われますが、韓国人にとっては、事実上、兌換準備の乏しい信用貨幣に過ぎませんでした。
そこで、韓国の商人たちは韓国政府に対して、交換できる貨幣が日本政府発行の通貨ではないと問題提起を行い、排斥運動に乗り出しました。
韓国政府も、1902年8月に五円券が発行された際、渋沢券の通用問題を本格的に取り上げて議論し始め、外部も、渋沢券は日本の通貨ではないと認定し、1902年9月11日、各港の監理に対して通用禁止を訓令し、政府と商人が一体となって、渋沢券の排斥運動を始めました。
これを受けて、林公使は外部に照会し、また、高宗に直接上奏して、渋沢券は日本政府の監督の下で発行されたもので、日本の貨幣を代表するものだと論じ、通用禁止令は通商條約に違反すると主張して撤回を求めました。
1902年9月24日、外部大臣署理の崔榮夏は林公使への照会で禁止令を出した理由を次のように説明しています。

大韓外部大臣署理外部協辦崔榮夏爲照覆事本月十七日接到貴照會內開茲據仁港我第一銀行支店支配人申稱仁川監理遵貴部命令發該銀行一覽拂手形授受禁斷告示等語査該一覽拂手形其性質代表我日本貨幣自無關係於貴國貨幣窃爲普通一般此次阻害明係違章等因准此査韓日修好條規附條第七款日本國人民可得用本國現行諸貨幣與韓國人民所有物交換等語無論何樣貨幣如係貴國現行者自可流通此次貴國第一銀行券面寫明在韓國各支店兌換日本通貨字樣此非貴國現行之貨幣者明矣天下萬國貨幣不行於本國之內而行之於隣國者未之聞也又未聞銀行擅造貨幣而能流通者也如該券面寫明在日本通用字樣亦經貴國政府認許則本政府必無沮遏之理今也不然只欲使韓國人民受用日本國所未有之貨幣此可謂普通一般合法乎違背條約之責不在於本政府而亦自有所歸矣

大韓外部大臣署理外部協辧崔栄夏が回答します。
本月17日に接した貴照会には、仁川港の第一銀行支店支配人の申告によれば、仁川監理が貴部の命令により、第一銀行の一覧払手形の授受を禁じるよう告示が発布されたが、この一覧払手形の性質は、我日本の貨幣を代表するものであり、自ずと貴国における貨幣の窃造とは関係がなく、今回のような阻害措置は明らかに条約違反であるとありました。
これについて調べたところによれば、韓日修好條規附條第7款には、日本国人民は、本国の現行の諸貨幣を用いて、韓国人民の所有物と交換することができる等の文言があり、無論どのような貨幣でも、貴国の現行貨幣は自ずと流通が可能です。
今回、貴国の第一銀行券の券面には、韓国の各支店で日本通貨と交換することができるとの文言があり、このように、貴国の現行貨幣ではないとことは明らかです。
世界万国の貨幣も、本国で通用せず、隣国で通用するということは聞いたことがありません。
また、銀行が勝手に貨幣を作り流通させるということも聞いたことがありません。
この銀行券の券面に「日本通用」という文字があれば、貴国政府が認許したものであり、本政府が妨げる理由はありません。
今回はそうではなく、単に韓国人民に日本国未有の貨幣を使用させようとしているだけです。
これが果たして普通一般に合法と言えるでしょうか?
条約違反の責は本政府にはなく、どこに在るかは自ずと明らかではありませんか。

これに対して、林公使は次のように反論しました。

従来、韓国だけで流通してきた日本紙幣は日本銀行兌換券であり、一種の約束手形に他ならないから、貨幣と考えること自体が誤解である。
本国で通用しない貨幣が隣国で通用しないとは限らず、清国の植民地には、その例がある。
銀行が勝手に貨幣を造って流通させるという点から言えば、貴国の貨幣鋳造もその類ではないか。
この手形は貨幣ではないのだから、勝手に貨幣を作るということにはならない。
このような誤解のもとに公文の往復を重ねるようなことは、両国の交渉上、失態の嫌いがなきにしもあらずなので、もう少し慎重に考慮されたい。
この手形は貨幣と同様に確実なものであり、貴国に在留する各国商人や貴国人が発行する手形と同様のもので、且つ日本政府の監督下にあるので、一層確実なものである。
貴国政府が第一銀行の発行だからといって通用を禁止するのは理由にならない。
本使が、この禁止令を条約違反だと言うのは、商民の任意の通商を阻害しているからである。
故に貴国政府が各港監理に訓令した禁止令は一日も速く撤回されたい。
そうでなければ、貴国政府は両国民の任意の通商を阻害することになり、条約上の責任を免れないものと御承知いただきたい。
(以上)

 


林公使の言い分は韓国の事情をわきまえない屁理屈に近いものがあり、円銀も日銀兌換券も日本通貨であったため、通用を認めていたもので、渋沢券はその意味では日本貨幣とは言えません。

また、韓国には日本の本位貨である金貨が流通しておらず、円銀は大量に流失し、日銀兌換券も回収されていて、日本通貨との引き換えが保証されていない状況での手形の流通を韓国政府や韓国商人が認め難いのは当然のことでした。

しかし、すでに日露戦争が視野に入っており、第一銀行券を韓国の法貨とし、第一銀行を韓国の中央銀行にするという目論見のもとに、韓国の経済支配を目指していた林公使は、どこまでも強硬で、なおかつ脅し文句まで並べています。
また、ブラウンも、政府の通用禁止令を無視して、渋沢券を海関税として収納し続けました。
ブラウンは林と同じ論理で渋沢券を合法的なものとして擁護したため、韓国政府の禁止令は、それによって実効を納めることができませんでした。
そこで、外部は、禁止令を解除する条件として、日本に対して無期限の兌換保障を求めました。
しかし、日本側がこれに対して明確に答えることはなく、渋沢券の発行量と準備金の状況を定期的に調査すると伝えただけでした。
1903年1月8日、外部大臣の趙秉式は、度支部と協議することなく、単独の判断で

禁止令の撤回を決定し、各港の監理に訓令しました。
しかし、清国に出張していた李容翊が帰国してからは、再び議論が沸騰しました。
以前から貨幣制度改革に取り組んでいて、独自の視点を持っていた李容翊は、紙屑同然の渋沢券を流通させれば、韓国は滅亡してしまうと力説しました。

この銀行券亡国論について、韓国政府の各部署間で議論がおこなわれ、普段は李容翊と反目していた政敵たちも、これに積極的に賛同したため、1月30日、度支部大臣、内部大臣の通用禁止令の訓令と、漢城府判尹の告示が一斉に出され、外部大臣が萩原代理公使に照会して、再び禁止令を通告しました。
また、度支部では、ブラウンに公式書簡を送り、海関税を渋沢券で収納したことを叱責し、今後、海関でこの銀行券を収納しないように厳重な指示を出しました。
これに対して、小村外務大臣は高宗に対して、直接上奏文を送り付け、政府の威信と陛下の聖徳に関わることだとして強く善処を求め、日本に帰任していた林公使を軍艦「高砂」に乗せ、軍艦三隻を率いて仁川へ急行させました。
仁川港の日本人商業会議所会頭の尾高次郞は、萩原代理公使に宛てて具申書を提出し、我帝国の利益を無視し、我帝国の威信を侮蔑するような行為は決してその独立や繁栄と両立しないと述べ、次のような要求事項を掲げました。

① 帝国軍艦を仁川に派遣して帝国政府の決心の在る処を明示すること
② 韓国政府の不正行為への報復として、典圜局、もしくはその他相当と認める   

    官有物を差し押さえること
③ 韓国政府に対して、条約上生じた帝国臣民の義務の履行を一切停止すること
④ 韓国政府が不正行為を帝国政府に謝罪するため、当該官吏を厳刑に処すよう

    要求すること
⑤ 韓國における帝国の将来の利益を保障するため、韓国の国庫金の出納を日本

    人に掌握させること
⑥ 沿岸の航海権、内地の雑居権、及び土地所有権の獲得を韓国政府に要求する

    こと

このような日本側の露骨な脅迫に対して、韓国政府も言いたいことを飲み込まざるを得ず、2月13日、外部大臣李道宰が萩原代理公使に照会文を送り、禁止令の撤回を声明することになりました。

大韓外部大臣李道宰爲照覆事前准貴照會以第一銀行一覽拂手形禁止一事迭經往復致滋案情殊非歸好之意本大臣顧念兩國睦誼勉講通瀜辦法亟將前任趙大臣繕置凾飭發付各港市監理俾即遵辦並他官廳所發該銀行券禁阻案件由該官廳業經撤銷査該券授受莫如聽民任便民信之則用不信則不用當經行飭漢城判尹及各港市監理告示人民免致窒碍本案旣臻妥善嗣後我兩國人民任便通商如有阻害自可照章勘斷茲特備文聲明

大韓帝国外部大臣李道宰が第一銀行一覧払手形禁止に関する貴照会に回答します。
これまでの交渉を通じて、事案の状況が非常に好ましくない方向へ発展したため、本大臣は両国の友誼に配慮し、融通方案を講ずることとします。
その結果、前任の趙大臣が用意した函飭を各港市の監理に発送して処理することとし、その他の官庁が発送した第一銀行券の禁止文書は、該当の官庁がすでに撤回しました。
該券の授受は、人民の判断に任せ、人民が信用できれば使い、信用できなければ使わないこととし、漢城判尹、及び各港市監理には、人民に銀行券の流通を阻止しないよう告示し、本案は善処されました。
以後、両国人民が自由に通商することになり、万一、阻害されることがあれば、規定により処理されることを、ここに文書により声明します。


高宗は日本側の要求のとうり、関連する政府官僚らを免官、または譴責し、日本側に謝意を表明しました。
しかし、韓国の商人はそれ以後も排斥運動を続け、政府の措置に抗議しました。
仁川紳商協会前に張り出された政府の告示文は破り捨てられ、仁川第一銀行支店では、連日一万ウォン以上の兌換要求が続きました。
また、李容翊配下の李根沢を中心に、商業協会員が渋沢券の授受を拒否する檄文を作って鍾路に掲示し、商人や商人団体が渋沢券の通用に抗議する通文を全国に発送し、外部に集まって政府の通用決定に抗議しました。
皇城新聞は、商人層の排斥運動に対して、積極的に同調する論説を掲載しました。
2月16日付けの論説では、第一銀行券の発行が、英国のように、植民地で必要な費用を全て植民地で調達する植民地拡張政策から出たものであると批判しました。

加えて、渋沢券の発行は、林公使が韓国政府にまったく相談もなく行ったことで、植民地でもなく、独立国である韓国の経済主権のひとつである貨幣発行権を蹂躙

する行為でした。
6月に入ると、商人たちが中心となって集会を開き、前判事、前議官、前郡守、前警務官など、前職の官僚らの意見を集約して通文を作成し、全国に発送しました。
こうした排斥運動によって、第一銀行は準備金が不足して非常事態に陥り、日本から資金が到着するまで引換の延期ができるように、各港の日本領事の保証を得なければならない事態となりました。
第一銀行漢城出張所では、6月22日から25日までの4日間に兌換要求があった金額と、砂金の代金として銀行券での受け取りが拒否された金額の総額が9万ウォンを越えました。
これらの商人の利害関係を越えた排斥運動は、日本の植民地金融支配の計画に対する抵抗運動であり、一種の救国運動でもありました。
しかし、この抵抗運動も、日本側からの数回にわたる銀行券通用妨害者の処罰要求に対して韓国政府が屈服し、宋秀万などの主導者が逮捕されたため、挫折せざるを得ませんでした。
韓国国民の排斥運動に直面した第一銀行は、渋沢券の信用力を高めるために、渋沢券の発行に関する規定を改正しましたが、結局、それだけでは流通量を増やすことができず、第一銀行券の地位の確立は、日露戦争開戦後の「日韓議定書」の締結を待たなければなりませんでした。


(つづく)

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参考資料

国史編纂委員会 駐韓日本公使館記録 17巻
国史館論叢第6集「澁澤榮一と對韓經濟侵略」(李培鎔著) 
新編韓国史44「帝国主義の経済侵奪」(崔元奎著)

山辺健太郎著「日韓併合小史」(1966 岩波新書)
多田井喜生著「朝鮮銀行―ある円通貨圏の興亡」(2020 筑摩書房)