大韓帝国(29) | 朝鮮王朝から大韓帝国へ

京仁鉄道  (5)

 

1898(明治31年)年4月、「西-ローゼン協定」が締結され、朝鮮への経済進出を本格化しようとしていた日本は、翌年の1899年(明治32年)1月、喉から手が出るほど欲しかった京仁鉄道の敷設権を買い取ることに成功し、モースがおこなった起工式とは別に、1899年4月23日、あらためて仁川起工式を執り行いました。

 

第二次起工式(仁川駅)

 

京仁鉄道引受組合は、それまで工事を請け負っていたコールブランの後を引き継ぐかたちで、日本鉄道会社の支配人だった足立太郎を総支配人として朝鮮に送り込み、残っていた工事を再開することになりました。
工事を請け負ったのは鹿島組(現在の鹿島建設)でした。
5月15日には、組合組織を会社組織に改め、「京仁鉄道合資会社」として、それまで中心的な役割を果たしてきた渋沢栄一社長に就任しました。
京仁鉄道は、仁川(インチョン)から漢江のほとりの鷺梁津(ノリャンジン)まで、ほぼ平坦な地形で、トンネルもなく、1899年(明治32年)4月に着工、9月に竣工して仮営業運転が始まり、10月には仁川・鷺梁津間の開通式が仁川駅でおこなわれました。

 

仁川・鷺梁津間の開通式(仁川駅)

 

難工事だった漢江橋梁の工事は、雨季の増水時や冬の極寒期には工事を中断しなければならず、同じ1899年4月に着工して、翌年の7月までかかっています。

 

漢江橋梁の橋脚工事

 

この橋脚は、コールブランがすでに手をつけていた基礎工事が杜撰だったため、それを一旦撤去して、あらためて良好な地盤の上にコンクリートを打ち、その上に花崗岩を積み、さらに水面から約11メートルの高さまでレンガを積み上げて作られています。

橋梁はアメリカ製の鉄骨橋梁(単線用)が十連梁で架設されました。

 

工事中の漢江橋梁

 

モースと韓国政府との契約に盛り込まれていた歩行者用の舗道を設けるという計画は、費用と工期の関係から中止されました。
一方、漢江の右岸から京城までの線路は、1900年(明治33年)の5月から工事に着手し、漢江橋梁の完成とほぼ同時の1900年7月に完成しました。
これをもって、京城から仁川にいたる全区間の工事が完了し、1900年11月12日、新門外(※敦義門外)の京城停車場で、盛大な開通式が挙行されました。

 


京仁鉄道開通式 (白い×印は南大門駅)

 

この開通式の様子は、日本の「竜門雑誌」が次のように伝えています。

 

竜門雑誌  1900年(明治33年)12月

○京仁鉄道開業式の景況

 

(要約)

京仁鉄道会社の開業式は、去る十一月十二日正午、京城西小門外の京城停車場構内に於て挙行された。
会場の入口には大緑門を造り、歓迎と題する大扁額を掲げ、その他の出入口には、それぞれ緑門を設け、無数の球灯が縦横に吊し渡され、立食場、余興場、来賓休憩場の設備はもちろん、朝鮮軍楽をはじめ日本芸妓手踊舞台も設えられていた。
社長たる青淵先生(渋沢栄一)をはじめとして、社員一同は十時頃より参集して来賓の迎接をおこない、内外の賓客は十一時頃より続々参集した。
仁川港からの来賓は十時二十分、仁川発の特別仕立の汽車で、正午前式場に到着し、余興場の内外は賓客で溢れていた。
おもな来賓は、韓国皇帝陛下の勅使をはじめとして、同国の大官では、清安君李載純、内部大臣李乾夏、度支部大臣閔丙奭、外部大臣朴斉純、農商工部大臣権在衡、学部大臣金奎弘、賛政尹定求、元帥府検査局総長李学均、農商工部協弁、通信院総裁閔商鎬、内蔵院卿李容翊、賛政成岐運、平理院裁判長金永準、中枢院議長金嘉鎮、内官李秉鼎、漢城判尹李鳳来ほか各局長等七十余名で、欧米人では露国公使パヴロフ、英公使ガルビンス、独逸領事ワルベルト、米公使アーレン、宮内顧問サンズ、通信院雇クレマンシー、米国仁川領事ペンネット、独逸名誉領事ウオルター・タウンセンドの諸氏のほか数名、清国公使の徐寿朋、同参事官、領事呉氏等であった。
本邦人では、林公使、山座、国分両書記官、公使館附武官、三増領事、守備隊附将校、電信通信部員、郵便局員その他、仁川京城居留の主だった者五百余名が出席し、見物の韓人が停車場に充満していた。
正午になると、爆竹を合図に式場を開き、来賓一同が式場内に導かれた。
やがて社長の青淵先生が壇上に進み、本日の開業式に際し、内外の貴顕紳士諸君がこのように来会されたのは実に光栄とするところであると述べ、次のような式辞を朗読された。

 

式辞
京仁鉄道の工事が竣を告げ、本日、開業の祝典を挙げ、内外貴紳のご来臨をいただき、本会社の光栄これに過ぐるものはない。
そもそも、本鉄道の起源は、米国人ゼームス・アール・モールス氏が大韓政府の特許を得て創始したもので、後に不肖等同志が相謀り、氏と協議して、その事業を承継し、会社を組織して工事を施行することになり、諸君の会社に対する常に親愛なる至大の好意が寄せられ、遂に今日を迎えたことは、本会社の深く鳴謝するところである。
交通機関が国にとって須要であることは言を俟たず、とくに鉄道の如きはその最たるものであり、鉄道ができれば、交通運輸至利至便となって、荒野が開け、物産が殖し、工芸が興り、商業が通じ、国家の富強増進が期待できる。
まして、大韓国は大陸の一端を占め、海洋に斗出し、土壌は肥え、水陸天産の豊富な強域なのだから、本鉄道が延長わずかに数十哩に過ぎず、敢て交通機関として誇るほどのものではないとはいえ、幸いにも大韓国におけるこの事業のさきがけとしての光栄を引き受けることができた。
そして将来、鉄道の敷設は歳を追って進歩し、東西に相連らなり、南北に相貫き、ついに辺隅遐陬に普及し、内に富源を開拓しないところはなく、外には我日本をはじめ、各国との通商が盛んになることは、深く信じて疑わないところである。
しからば、このひとつの鉄道敷設も、また決して小さな功に止まらず、願わくば、大韓国の発展を増進する先導者となってほしい、これが本会社の微意である。
よって、大いに前途を祝して、ここに開業式の詞を呈する。

大日本明治三十三年十一月十二日
京仁鉄道合資会社社長
男爵 渋沢栄一


この先生の式辞の朗読が終わると、峯尾音三郎氏が韓訳文を、市原盛宏氏が英訳文を朗読した。
次いで、鉄道院総裁の閔丙奭氏が登壇して祝辞を朗読、和訳文の朗読があり、足立太郎氏が壇上に進み、京仁鉄道起工以来の経過を報告し、式を終えた。
来賓一同は、新造玉車の拝観をしたが、玉車に対する欧米人と韓国諸大臣の好賞はきわめて大きかった。
この間、余興場では韓国軍楽の吹奏があり、一方で京城日本居留地民の寄附による芸妓手踊が、また一方では韓国演劇が開演し、木村煙草会社仁川支店の寄附による手品も同時に開演し、四方八方に各種の技芸と音楽とが興った。
衆賓もよろこび、それから予て用意してあった立食場に導かれ、数百の来賓がみな食卓に就き、杯を傾け、痛飲淋漓の間に、林公使の食卓演説があった。
次いで、外部大臣朴斉純氏、青淵先生、米国公使アーレン氏等の演説があり、その都度、日韓両国皇帝陛下、及び京仁鉄道の万歳を唱和し、充分の興を尽し、午後五時頃、散会したという。
聞けば、このような盛会は、韓国建国以来、未だ曾て見なかったものだという。
(以上)

 

 

こうして、京仁鉄道は、一日4往復の運行を始めました。

保有する車両は、蒸気機関車4台(アメリカ製)、客車等38両でした。

開通直後の輸送実績は、当時、韓国で発行されていた民族系新聞「帝国新聞」の1900年12月17日の記事によると、7月8日、新門外停車場(京城停車場)まで開通してから11月8日までの124日間の延べ乗客数は 97,144人、貨物の総重量は16,00万斤に達したということです。
また、鷺梁津まで開通した際には、東京経済雑誌が次のように伝えています。

 

○京仁鉄道開業の景況  1899年(明治32年)10月14日

 

昨月18日から開業した韓国京仁鉄道、仁川-鷺梁津間の営業景況    

     
9月18日  乗客 208人 貨物 208斤
9月19日  乗客 305人 貨物 719斤
9月20日  乗客 323人 貨物 1517斤
9月21日  乗客 251人 貨物 9678斤
9月22日  乗客 369人 貨物 不明

 

これは各停車場を通算したもので、乗客の八割は韓人、また八割は三等客。
荷物は金巾(かなきん)・糸・銅貨・鮮魚・酒・野菜・牛皮・昆布等である。
停車場は、仁川・松峴・牛角洞・富平・素砂・梧柳洞・鷺梁津の七箇所である。

(※のちに、龍山、南大門、京城を併せて10箇所となりました。)

 


合計21哩(マイル)余り(※およそ34km)で、一時間四十分で到着する。
発車は仁川、鷺梁津共、午前・午後、どちらも二回までだという。
また鷺梁津から京城は、数ヶ月後でないと開通しないが、鷺梁津から漢江の江岸まで、一哩余りの砂路には、人車鉄道を敷設中だという。
(以上)

 

また、営業実績については、同じく東京経済雑誌が次のように伝えています。

1900年(明治33年)2月10日

 

○京仁鉄道社員総会

 

去る三十一日、兜町の渋沢氏邸に於て開会。
社長渋沢栄一氏が議長となり、工事、及び営業の状況、収支計算を報告し、
次に、次のように三十二年下半期利益金の分配案を可決した。

 

当半季利益金    9,406円余 
繰越益金            5,044円余
合計                14,450円余

 


社員配当金      11,162円余
次季繰越金        3,188円余

 

この景況から見れば、京釜鉄道の如きも、将来必ず相当の利益を収めることになるだろう。

(以上)

 

 

同じ頃、東京では、京仁鉄道合資会社の主催で朝野の名士を招いて報告会がおこなわれました。


中外商業新報  第5420号  1900年(明治33年)2月27日

京仁鉄道の招待会

 

(要約)


京仁鉄道合資会社員の渋沢栄一、益田孝、大倉喜八郎、中上川彦次郎諸氏、及びその他の合資社員が主催し、昨二十六日午後五時より、これまで同鉄道に対して尽力された在朝在野の人々数十名を帝国ホテルに招待し晩餐会を開いた。
当日出席した主な人々は、大隈伯をはじめ、高平内務次官・松本鉄道作業局長官、松尾理財、阪谷主計、内田通商の三局長、並びに近藤郵船会社社長、加藤副社長、京釜鉄道発起人の竹内、大江、尾崎、佐々等の諸氏三十余名であり、席が定まると、渋沢社長が社員一同を代表して、去る三十年中に同組合を組織して、米人モールス氏と同鉄道の引受契約を結び、越えて昨三十二年一月に同鉄道を引受け、昨年九月十一日を以て全線二十六哩のうち、仁川-鷺梁津間二十哩間の営業を始めるに至った顛末、並びに同鉄道の現状を述べ、最後に少数の合資社員が外国における事業で、このような好結果を得たのは、ひとえに朝野諸名士の有力なる後援のおかげである旨を陳べて謝意を表した。
次に、これに対する大隈伯の挨拶があり、さらに渋沢社長の紹介により同社の支配人・足立太郎氏が同鉄道の工事、並びに営業の実況を演述した。
以上が終わって散会したのは、同九時過ぎだったという。
(以上)

 

 

この京仁鉄道の敷設について初めて朝鮮国王に言上し、朝鮮政府との交渉をおこなったのは、1895年当時、在朝鮮公使だった井上馨でしたが、渋沢栄一大隈重信の斡旋で進めた鉄道の買い取りについては、井上馨は断固反対していたようです。
民間会社が相手国の政府と交渉して進めるのならばともかく、政府が相手政府の承認もなく出資するのは不法であると考えていたようです。
それで渋沢と激論になったようですが、そのあたりのことを渋沢栄一本人の回顧談でみておきたいと思います。

 


竜門雑誌  昭和2年5月  諸々の回顧(五)(青淵先生)

私の関係した鉄道について

 

(要約)

 

日清戦争後、日本は朝鮮に対して大いに威力を増した。
従つて、朝鮮との暫定条約で、鉄道の敷設の権利を得たのでありますが、二十八年、三浦公使が朝鮮の王妃を殺したために、朝鮮王は甚だしく日本を嫌がるようになりました。
それで、日本の方から仕事を持ちかけるきっかけがなくなっていたとき、米人ゼームス・モールスが、東洋で事業を起こそうとして渡来し、遂に朝鮮王と鉄道敷設の契約をして、コールブランに、京城-仁川間の鉄道工事を始めさせた。
ところが、二十九年頃、モールスとコールブランとの契約がよくなかったと見え、工事が進まないので困却し、権利を売ってもよいと、モールスが大川(平三郎)などに話したから、大川がそのことを私の処へ言って来ました。
これより先、私は、朝鮮とは暫定条約も出来ているのに、鉄道を外人の手で敷設するようでは困ると、ときの外務大臣だった大隈さんに話し、自分等の手でやりたいと、二十九年、前島密、大江卓、竹内綱等と共に主唱して、二十九年冬か三十年かに、京釜鉄道敷設の願書を出しておきました。
ところが、鉄道というのは距離も長く、従って資金も多額を必要とするものだが、モールスのやっている京仁鉄道は、短距離で、二百万か二百五十万位で出来るものであり、工事も既に始めていたから、これを京釜鉄道の仲間とは別に、一つのシンジケートを作って買収しようとの話を進めました。
参加者は、三井、岩崎、安田、大倉、今村等で、これを大隈さんに話したところ、結構であると言うので、買収の契約をしました。
但し、モールスの手で工事が半分位は出来ていたから、その金を支払ってやらねばならぬのに、この資本が一時に出せないので、政府の金を百万円ばかり無利息で借入れて支払い、そのままモールスの手でコールブランに工事をやらせて、残りは完成してから渡すということにしました。
当時私は朝鮮の金融と運輸とは日本人の手でやらねばならぬと考へて居りました。
そこで、内閣が更迭して伊藤さんを総理とする内閣が成立し、井上さんが大蔵大臣になりました。
ところが井上さんと私とは前から極く懇意な間柄であったのに、この京仁鉄道買収に関して「政府の資金を融通すると大隈が約束したのは不法である。」と言い、これを破棄しようとしたから、私は大蔵大臣邸に井上さんを訪ねて大議論をやり、ついに、「国家には代えられぬ、重大事件を看過しようとするならば、今後貴方とは交際しない。」と言い放ったところ、井上さんも、「交際しなくともよい。」と、絶交にまでなろうとしました。
そこで私は、このことを伊藤さんに話したところ、伊藤さんが、「まあ、怒ってくれるな。」と言い、結局、伊藤さんの心配りで借りることが出来たのであります。
こうして政府の援助は受けることができたが、コールブランの工事が捗らないので、中途から足立太郎をやり、三十三年の十一月に完成しました。
私は完成前の三十一年に渡韓し、開通式の時にも、重ねて行ったが、王様の名代も来て、なかなか盛大でありました。
誠にこれは波瀾も多かったが、意義のある鉄道であります。
(以上)

 

 

渋沢栄一の言い分は、結果として互いの利益になればよいというものでしたが、井上馨が主張したように、朝鮮政府の与り知らぬところで密かに資金を出して工事を行わせ、朝鮮政府の要望にも関わらず、改めて協議して条約を結ぶこともせずに、当事者抜きで敷設権を買い取るといった行為は、朝鮮政府とモースとの間で取り交わされた契約書の条文に明らかに違反しており、不法なだけではなく、相手政府の自主権を認めていないことになり、国際的な信義に悖る行為でもありました。

井上が反対した理由は、ロシアとの関係悪化を憂慮したからだとも言われます。

井上は、あくまで朝鮮政府が起工して、日本はそれに必要な資材や技術を供与すれば、それなりの地位を得られ、且つ、ロシアとの関係に不都合が生じないと考えていたとされています。(「世外井上公伝」)

また、日露戦争には最後まで反対していたということで、そんな井上を渋沢栄一は「悲観論者」と断じています。

 

(つづく)

 

 

 


 

参考資料

 

朝鮮鉄道史. 第1巻 (朝鮮総督府鉄道局編、 1929)

デジタル版「渋沢栄一伝記資料」 第16巻