大韓帝国(30) | 朝鮮王朝から大韓帝国へ

京義鉄道(1)

 

○ 山縣有朋が提唱した主権線と利益線


極東への進出を図るロシアがシベリア鉄道の建設を急ぐなか、朝鮮半島を南北に貫く鉄道(京釜鉄道京義鉄道)は、大陸進出を視野に入れていた日本にとって、軍事利用のためにも何としても手に入れたい最重要利権でした。
日清戦争の4年前(1980年)、当時、総理大臣だった山縣有朋は「外交政策論」のなかで、次のような意味のことを述べています。

 

(要約)

「国家の独立自衛の道は、主権線を守り、他国の侵害を許さないということ、また、利益線を防護して、自己の形勝を失わないということのふたつがある。
主権線とは国境であり、利益線とは隣国との接触の情勢が我国の主権線の安危と緊密に関係している区域である。
我国の利益線の焦点は朝鮮にある。
シベリア鉄道が数年を経ずして竣工すれば、ロシアの首都を出発して十数日で黒竜江に到達する。
シベリア鉄道完成の日は、すなわち朝鮮に多事のあるときであることを忘れてはならない。
また、朝鮮に多事のあるときは、東洋に一大変動を生ずるときであることを忘れてはならない。

そのとき朝鮮が独立を維持できる保障は何もなく、それは我国の利益線に対する最も急激なる刺激となる。
利益線を防護し、独立を完全なものとするために実際に行うべき計画とは何か。
我国の利害にとって最も緊密な関係にあるのは、朝鮮国の中立である。
明治8年の条約(※明治9年の日朝修好条規)は各国に先立ってその独立を認め、18年には天津条約を結んだ。
ところが、朝鮮の独立は、シベリア鉄道の完成の日とともに、薄氷のごとく危うくなろうとしている。
朝鮮が独立を保つことができず、ベトナム(※フランス支配)、ミャンマー(※イギリス支配)のようになれば東洋の上流は他国が占めることになり、直接危険を蒙るのは日清両国となり、対馬諸島の主権線は頭上に刃が掛かった状態となる。
清国の近状から察すれば、全力をあげて他国の占有に抗う決意があるようだ。
朝鮮の独立を保持しようとすれば、天津条約の互いに派兵を禁じる条款が障害となって、両国の間に天津条約を維持するのが難しい情勢となる。
将来、このまま天津条約を維持するのがよいのか、あるいは、朝鮮が恒久中立の位置を保てるように、連合して保護するのがよいか、これが現在の問題である。

(以上)

 

※ これが日清戦争の4年前の日本の総理大臣の見解でした。

このあと日本は、朝鮮半島から清国の影響を完全に払拭するために、日清戦争を戦い、朝鮮半島から清国軍を完全に排除することに成功しました。
1894年11月、清国が講和を申し入れる直前、山縣は第一軍司令官として戦地にあり、鴨緑江を渡って、九連城の無血占領に成功していました。
そこで山縣は、あらためて「朝鮮政策」について天皇に上奏文を認めています。

 


1894年(明治27年)11月7日
山縣陸軍大将「朝鮮政策上奏」

 

(要約)

臣有朋 謹んで奏上する。
日清戦争は未だ終結しておらず、臣は軍隊を率いてなお海外にあり、日夜、進軍作戦の計画に汲々としている。
今ここで、直ちに対韓策を奏上するのは、あるいは時機ではなく、分を誤るおそれがないとも言えないが、顧みれば、我軍はすでに鴨緑の大江を渡り、九連城を取り、安東県を収め、北は昌城付近の敵兵を掃討して鳳凰城を領収し、南は太孤山を占有して、第二軍と連絡を通じた。
さらに敵を追って北京に入り、彼国を降伏させるところまでは成し得ていないが、朝鮮八道から清兵を根絶して、朝鮮の国土を清兵に蹂躙されることがないようにするという一事は、何とか既にこれを成し遂げている。
軍事多忙といえども、そのために衷心を披瀝する暇がないわけではない。
況や国家の将来のための急務は、一日もおろそかにできないものであることは臣が確信して疑わないところである。
そもそも、今回のこと(※日清戦争)と言えば、その主意とするところは、義兵(※日本軍)を起して朝鮮の独立を助け、清国に一切干渉させないことにある。
宣戦の詔勅は光り輝いて日星のようであり、天下にこれを知らぬ者などいない。
今後の戦況が如何なる形勢となっていくのか、予め予測することはできないが、朝鮮の為に独立を全うするという一事は、実に、我国が列国に対して自ら担ったところの義務である。
仮にも世界の信用を失ないたくないと欲するのであれば、決してこれを変えることはできない。
然るに、朝鮮国内の情勢を観察すれば、ほとんど落胆を禁じえないものがある。
仁川から義州に至るまで、日を経ることおそよ50日、道を行くことおよそ150里、風土、山川、民情、風俗、臣が直接見聞したものもまた少なくない。
土地が豊かで、山川は秀美ではあるが、その民人に至っては、概ね暗愚であり、かつ産業に務めず、しかもその蒙昧純朴の気風は極めて稀有なものがある。
三千年来の旧邦の文物、章典などは残っておらず、至るところ穀物不足の嘆きに堪えないのが、今日の朝鮮国である。
思うに、これは政令が宜しきを得ず、生命財産が安固でないことに依るのだろうが、国民もまた進取の気性に乏しく、むやみにその場しのぎに飽食しては眠るといった風習のためでもあろう。
この国を助けて、独立の名と実を全うさせるのは、まことに至難の業だと言わざるを得ない。
況やこれを独立させて、東洋における我国の利益を全うするための方便に使うのであれば、すべからく今のうちに速やかに、これに対処する計を講じないわけにはいかない。
そして、それに対処する計は、もとより二、三に止まらないが、臣が見て最も急務だと思うのは次の二策である。

 

・ 釜山から京城を経て義州に鉄道を敷設すること

・ 平壌以北義州に至るまで重要な地に邦人を移植すること

 

そもそも弱小な朝鮮を助けて、その独立を全うさせようと欲すれば、清兵を駆逐して、八道から根絶するだけでは足りず、少なくとも今後数年の間、若干の兵員を駐屯させて警備にあたらせねばならないのはもちろん、政府に勧告して、政府の改善を図り、軍隊の訓練、教育を進め、殖産の発達に努力させるのと同時に、我国が運輸、交通の権を握り、一旦、東洋に有事の際には、これを利用して機を誤らないよう計画しなければならない。
そしてこれを行うのに最も必要なのは釜山-義州の鉄道であり、釜山-京城間の鉄道については現在すでに密約があるが、これを延長して義州に至らなければ、その功が最後の詰めを欠くものになるのではないかと臣はひそかに怖れるのである。
また、釜山-義州の道路(経路)といえば東亜大陸に通ずる大道であり、後々、支那を横断して、直ちに印度に達する道路となることは少しも疑いを容れないだけでなく、我国が東洋に覇を振るい、永く列国の間に雄視しようと欲すれば、すべからくこの道を印度に通じる大道としなければならないと、臣は確信して疑わない。
そして、その道路というのは、わずかに二三の険坂があるだけで、幾多の河流に架橋すれば、決して鉄道を敷設するのに難しいことはない。
いま直ちに得るもので、失うものを償うに足りないことは臣もよく熟知しているが、長い目で見れば、必ずや損益は償還され、尚余りあるようになるだろう。
一時の小さな不利のために百年の大計をためらってはならない。
他国、あるいは朝鮮に鉄道を敷設させ、わが国は座してその運用を制すべしと論ずる者がいないわけではないが、これは朝鮮の現状からみれば、到底、望めることではなく、断じて我国がこの敷設を成就するに勝ることはなかろう。
平壌以北の主要な地に邦人を移植する理由というのは、これとはやや異なる。
平壌以北は、概ね清国に接近している。
臣が実際に歴訪したところによれば、清国の文物や風俗に近いものは決して多くはない。
鴨緑江で一線を画しており、まったく別の天地という状況である。
平壌以南と異なるところといえば、人民がいくらか質朴な面があるというだけであるが、清国との国境からさほど遠くないため、勢い影響を受けやすい傾向にあるのは当然のことである。
適宜、主要な地に邦人を移住させ、やがて彼らに商業、農業の権利を掌握させると同時に、そこの土着民を誘導して真成なる文化の域に向かわしめ、それによって清国の影響を断然として排絶すべきである。
以上、臣が見て、対韓の急務とするところを申し上げずにはいられず、あえて聖域を冒して陛下に上奏する。
陛下がもし、臣が機に先んじ、分を誤っていることをお咎めにならずに、閣臣に命じて細かくこれを議論させてくだされば、臣の幸いであるだけでなく、国家の幸いでありましょう。
臣有朋、謹んで奏す。
明治二十七年十一月七日 九連城にて認める
陸軍大将伯爵 山縣有朋

(以上)

 

※ 山縣は、国家の幸いのためには、京釜線だけでは足りず、「日本が東洋に覇を振るい、永く列国の間に雄視しようとするなら」、京義線は必須のものであり、かつ、できれば日本がこれを建設すべきだと考えていたようです。
それだけでなく、沿線の主要な地に、日本人を移植したいと書いています。
当時の主要な地とは、どんなところだったのか、韓国併合前に朝鮮を視察した衆議院議員荒川五郎の「最近朝鮮事情」から引用して見てみたいと思います。

 

・ 自序

 

(要約)
朝鮮経営は、日本人の天職であると共に、日本国の生命である。
朝鮮経営の事、一日進めば百日の益があり、十歩遅れれば千歩の損になる。
一時一刻が急がれるとき、邦人の多くが朝鮮の事情に明るくないのは、実に遺憾の極みであり、条約や協商がいかに完全であっても、事情に明るくなくては交渉は密とならない。
交渉が密とならなければ関係は薄く、関係が薄ければ国権が伸びず、国権が伸びなければ経営の事もまた進まない。
交渉を密にするには、邦人の移住を奨励することが第一である。
移住者が多ければ利害が錯綜し、利害が錯綜すれば関係が厚くなり、交渉もまた密となる。
故に、朝鮮の経営は、おおいに邦人の移住を奨励することが急務である。
殊に、個人の利益からみても、朝鮮は我国民の宝庫ともいうべきで、中でも農業、漁業、鉱業は朝鮮の三大業であり、邦人が行って開拓し、取得できる利益は決して小さなものではない。(後略)


・ 京義鉄道の沿線

 

(要約)

京義鉄道は漢江沿岸の龍山(ヨンサン)を起点としている。
開城(ケソン:旧称は松都 ソンド)までは記するに足るものはないが、碧蹄館(ピョクチェグァン)は小早川隆景が明の大将・李如松を伐った我国の歴史に有名な地である。
それから土城(トソン)を過ぎて金川(クムチョン)駅に至る。

 

韓国教員大学歴史教育科著 「韓国歴史地図」 (2006 平凡社)より

 

金川は禮成江(レソンガン)の上流にあって、大豆の産地である。
助邑浦(ジョウッポ)というのは、金川の邑治(ウプチ)から一里ばかり近傍の、穀物や魚などの市場で、仁川(インチョン)への船が絶えない。
平山(ピョンサン)、南川店(ナムチョンジョム)、新酒幕(シンチュマク)の諸駅を過ぎて瑞興(ソフン)駅に至る。
瑞興の市街には城壁があって、なかに都護府使衙門がある。
市街は所々瓦葺の家も混じっていて、黄海道のなかでは大きな市城である。
瑞興からは興水院(フンスウォン)、桂東里(キェドンリ)の次が黄州(ファンジュ)である。
黄州は黄海道西北部の首府で、戸数一千、南は載寧(チェリョン)の沃野に続き、西は平安道の平野に連なり、商業上の好位置を占める。
取引きの主なものは綿花、大豆、雑穀、雑貨で、殊に生牛などは市の日ごとに千頭以上の取引がある。
郡守衙門の家は高所にあって眺望がよろしい。
兼二浦支線は黄州から分かれ、8哩(マイル)ほどの支線である。
兼二浦は大同江(テドンガン)の南の岸にあって、旗津浦(キジンポ)と相対し、鎮南浦(チンナムポ)までは30哩の地で、近頃拓けた新市街である。
水深は10尋(約18m)もあって、優に4千トンまでの大船を10数隻停泊させることができる。
工兵少佐渡邊兼二が発見したので、兼二浦と名付けたのである。
(※兼二浦には、後に日本製鉄が製鉄所を作っています。)
黄州から中和(チュンファ)駅を過ぎて、大同江を渡れば、有名な平壌(ピョンヤン)で、平壌駅から平壌城までは一里ほどある。
平壌から順安(スナン)や粛川(スクチョン)を渡れば、海のような大河の河口に達する。
ここは清川江(チョンチョンガン)と大寧江(テリョンガン)が合流して海に入るところで、この駅を新安州(シンアンジュ)というのは、清川江の少し上流の義州(ウィジュ)街道に安州城(アンジュソン)というのがあるからで、安州は船の便もよく、人も二千五百ばかり、本邦人も少なからず住んでいる要枢の地である。
新安州は鉄道のために拓けたところで、ほんの数戸があるだけだが、新安州の河口はなかなか広く、向岸の何日浦(ハイリッポ)までは船で行く。
何日浦は新安州よりは盛んで、日本人の宿も少しはよろしい。
何日浦の次は定州(チョンジュ)である。
この地は次第に衰微しているが、人民は進歩的な思想を持ち、気概に富むと言われ、断髪改服して進歩を唱える「一進会」(政治結社)の会員はこの地に多い。
定州から路下里(ロハリ)、宣川(ソンチョン)、東村鎮(トンチョンチン)、車輦館(チャリョングァン)を過ぎれば新義州(シニジュ)である。
この間は、所々に古城趾の壊れた城壁がウネウネと山から谷、谷から野へと連なっているのが見える。
これは満州から外敵が侵入してくるのを防ぐために設けたものであろうとのこと。
新義州から三里ほど進めば義州(ウィジュ)、前を流れている鴨緑江(アムノッカン)を渡れば九連城(清国)で、この地は清韓往来の要衝に当たっている。
新義州の向こうは安東県(清国)で、また、六里ほど下ると龍巖浦(ヨンアムポ)である。
鴨緑江の上流には無尽の森林があって、これを伐って、筏で下ろし、諸地で取り引きをする。
取引き額は年間、数百万円にのぼっている。
龍巖浦は、露国が朝鮮経営の入り口として占有し、木材の集散地を作ったりしたところであることは、世人の記憶に新しい。
(以上)

 

 

山縣が主張していたように、京義鉄道は京釜鉄道と共に朝鮮半島を縦貫する軍用鉄道として最も緊要なものとされ、その後、日本軍兵站総監部のなかに臨時軍用鉄道監部を設置して、日本軍が直接敷設していくことになります。
一方、当時の朝鮮側の鉄道敷設への取組みはどのようなものだったのでしょうか?
次回は、そのあたりを概観してみたいと思います。


                                         (つづく)

 


 

参考資料


大山梓編 「山県有朋意見書」 (1966 原書房)
荒川五郎著 「最近朝鮮事情」 (1906 清水書店)