大韓帝国(14) | 朝鮮王朝から大韓帝国へ
○ 毒茶事件
 

独立協会の活動の背後に日本の影を見ていた高宗は、1898年12月の朴泳孝徐載弼の推挙を機に、断固たる詔勅を連発して道理信義を説き、国家を乱す活動は赦さないと、強い決意を示しました。
この時期、高宗が特に日本の動きに神経を尖らせていたのも当然で、7月に皇帝譲位の計画が発覚し、9月には、高宗自身の命を狙った毒茶事件が起こりました。
高宗の譲位は、のちに伊藤博文が強行し、1907年に成功していますが、そうした動きが、この頃からあったということになります。
日本の脅威から国を守るために高宗が頼みとしてきたロシアは、4月に行われた西-ローゼン協定により、満州での権益と引き換えに、韓国での日本の経済活動について、大きな譲歩をしました。
顧問官スペイエル公使が撤退して、韓国からロシアの影が薄くなりはじめると、
独立協会の活動はさらに勢いを増し、高宗が詔勅で指摘したように、当初の社会運動的な性格から、敢えて政治の混乱を招来するような過激な政治運動へと姿を変えていきました。
その背景には、韓国を政治的混乱に陥れ、再び内政干渉の機会を窺がおうという日本の思惑がありました。
こうした状況の中で、日本党といわれる安駉壽一派による謀反が発覚し、これが失敗に終わると、こんどは、皇帝の暗殺計画、「毒茶事件」が発生しました。
高宗は用心していたのか、僅かに口を付けただけで止めましたが、皇太子は半分ほどの量を飲んでしまい、一時、意識不明に陥りました。
幸いに御医の手当てで命拾いはしましたが、アヘン毒によって、歯がボロボロになり、腎臓に障害が残るなど、重い後遺症を患うことになりました。
この事件にも、安駉壽の一派が関わっていたのではないかとも言われています。
実行犯とされる二人が捕まり、主犯は金鴻陸とされましたが、これは事実かどうか定かではなく、事件の黒幕についても、とうとう判らずじまいになってしまいました。
今回はこの事件について、関連する資料を見ておきたいと思います。
毒茶事件の主犯とされた金鴻陸は、ロシアが撤退し、高宗が独立協会を厚遇した
ため、政治に関与する地位を失って通訳に戻っていましたが、毒茶事件の半月程前に、公務の名を借りて私欲を満たしたという咎で、終身流刑の処分を受けていました。
 

日省録 1898年7月7日(陽8月23日)
 
詔令に曰く、
正二品金鴻陸は、口先だけによって、かつて微労の効があったので、朝廷で官職を高め、俸禄を厚くしたが、それは廉恥の心を養ってほしかったからである。
しかし、狡猾な性分で人をたぶらかし、騙すことを習いとし、公務の名を借りて私欲を満たすことに際限がなかった。
世の人々の鬱憤も久しく止まない。
これは、官職にある者の貪墨として、今までの例のように処断するのでは足りないので、法部に命じて然るべき法を適用して、流配とした。
 

日省録 1898年7月9日(陽8月25日)
 
法部が奏上して、罪人金鴻陸を笞一百、配所を智島郡黒山島として終身流刑に処すよう手配したいと奏請したので允許した。
 

金鴻陸は翌7月10日に配所へ向って出発しましたが、毒茶事件は、それから  およそ半月後の、7月26日(陽9月11日)に決行されました。
その前日にあたる7月25日は満壽節(高宗の誕生日)でしたが、明成皇后院君夫妻が亡くなったばかりで、ことのほか寂しいものだったようです。
まず、加藤公使の報告で、事件の大略をみてみます。
 

1898年9月25日
皇帝並びに皇太子ヘの進毒に関する件   
加藤公使  →大隈外務大臣 
機密第三五號   
 
(要約)
去る11日の夜10時頃、大内において晩餐を召された際、皇帝陛下、皇太子殿下が突然の異変に見舞われ、陛下、殿下とも嘔吐を催されて、皇太子殿下は一時、人事不省となられた。
このため、宮廷の慌てぶりは一方ならず、あるいは御膳のなかに、何か不都合があったのではないかと、その原因の調査がおこなわれた。
陛下は時々、好んで洋食を召上がるということだが、常々先ず珈琲を召し上がる。
当夜もまた、いつものように最初に珈琲を召し上がったが、いつもと違って、不味を呈していたのか、陛下は少量、ニ、三口飲まれ、皇太子殿下は殆んど一、二回に半碗を飲まれた。
御両方とも、その後、間もなく不快を感ぜられ、皇太子殿下が先づ嘔吐を催され、続いて皇帝もまた嘔吐を催された。
そして、当夜奉侍していた内侍七名、女官三名、別入侍一名が残った珈琲を試し、全員が中毒症状を呈した。
そこで、宮内大臣がその事情を陛下に言上して、御苦悶の最中に御許可を乞い、警務庁に命じて閣監庁(大膳課)の厨房要員十四名を拘引して、究問に及んだ。
その人名は、金永基、金在源、趙漢奎、金在順、嚴順石、姜興根、金興吉、金連興、朴大福、崔善根、金順龍、田章大、田秉俊、金敬石等である。
そして、全員の供述によって、当日は先に免職となった金鍾和も混じっていたことがわかったので、直ちに逮捕究問したところ、同人は前典膳司主事の孔昌徳から一千元の報酬を受ける約束で、彼が渡した材料(あるいは砒石ともいう)を陛下に
差し上げる珈琲のなかに入れる手筈だったが、それができずに、やかんのなかへ投入したと白状したため、直ちに孔昌徳を拘引、訊問したところ、昌徳は目下流刑中の金鴻陸から、かつて、陛下に毒茶をすすめて弑害するよう依托を受け、且つ、成功したら、協弁の職を授けると約束されたという。
そして、(流刑地への)出発の前に、同人(金鴻陸)から一封の毒茶を受け取っていたが、最近になって金の妻、某(※金召史)に催促されて、終に犯行に及んだと白状した。
よって、警務庁は、一方で金の妻、某を居宅から、一方で金鴻陸を配所の全羅道黒山島から拘引することに着手し、目下、孔昌德、金鍾和、金の妻の三名を厳重に審問中である。
その他の厨房要員は、すべて監獄署へ移した。
そもそも、孔昌德という者は、先年、陛下が露館ヘ播遷された際に前露国公使のウェーベルが使っていた料理人で、その後、金鴻陸の推薦によって、陛下の厨事を掌管させていた者である。
金鍾和は、僅かニ十六歳の小僮で、もと李宮内大臣の書生で、同氏の推薦により、先に閣監庁の係りに任ぜられたが、その後、洪陵の祭事で、その費用を着服して、二日のうち、一日は祭供を奉じなかったことで、既に免職の処分になっていたものだが、当夜は偶然に入闕していたという。
免職の身でありながら、何故に厨房要員のなかに混じっていたのかというと、これは当国で有名な宮庭内雜小混進の弊であり、このようなことは、平素からありがちなことだという。
金鴻陸が、何故に至尊に対して、このような大逆を企てたのかが問題だが、当人が白状しなければ、その真相はわからないものの、一般の想像によれば、近来、露国派の逆流のなかに立っていて、予想もしていなかった罪名で流罪に処せられたほどだから、このままいけば同人の身上も極めて危険だと考え、むしろ、王鼎に食まずば王鼎に烹られん(※王の鍋で食べるほどの高い地位にいることができないのなら、王の鍋で煮て殺されたほうがいい)との決心で、陛下を除こうと企望した復讐的な凶計ではないかとのことである。
故に、金鴻陸の意は、ただ陛下のみ除去しようとしたものらしい。
このように、やや金鴻陸の使嗾に出たことが分かってきたが、同人の逮捕、審問の上でなければ、その真相は勿論、他に関係者がいるのかどうかも未だ判然としていないため、拘留人一同は未決裁のまま据え置かれ、目下監獄のなかで呻吟している。
現在は、先に本件のような大逆を企てた者は、どのあたりの人物なのかということで、第一に嫌疑を受けて注目されていた安駉壽一派は、僅かに安堵する状況となっている。
(※このとき安駉壽は国内に潜伏していて、10月2日に日本へ逃亡した。)
(以下略)
 
 
※ 毒茶事件の現場は加藤公使の報告には書かれていませんが、菊池謙譲の「近代朝鮮史(下)」では、淸穆齋とされています。
淸穆齋があった場所は、1904年に主要な殿閣を焼き尽くす大火があったため、よくわかっていません。
高宗が臣下との接見や、皇帝の職務をおこなう際に使われていたことから、便殿のような用途の建物だったと思われ、位置としては、即阼堂の西側のあたりにあったのではないかとされています。
 
 
 
高宗実録 1898年9月12日 (事件の翌日)
 
宮内府大臣李載純が奏上した。
このたび、陛下と皇太子殿下におかれましては、同時にお体を害されたとのことをお聞きし、お食事を差し上げる際に、初めから慎重に調べなかったことで、予想外の事態を引き起こしてしまい、まことに驚悚至極です。
下手人らを法部で徹底的に取り調べ、根本的な原因を明らかにして国の法により正しく処罰したいと思いますが、何如でしょうか?
批答に曰く、警務庁に命じて、厳しく原因を究明しなさい。
 
 【陰暦本年七月十日、金鴻陸が流配の詔勅を承り、同日に配所へ出発する途中、しばらく金光植の家に立ち寄り、凶逆の念を生じて、持っていた袋のなかから一両のアヘンを取り出し、これを知人の孔洪植に手渡し、御膳に入れてお出しするように密かにそそのかした。陰暦七月二十六日、洪植は金鍾和と会い、鴻陸からそそのかされた話しをして、鍾和が、一千元の銀を報酬として、御供茶の中にこの薬物を入れた。鍾和はかつて寶賢堂の庫直や、西洋料理を担当する仕事に従事していたが、不善な行いのために解雇されていた。当日は薬物を袖に隠して厨房へ入り、珈琲の茶罐のなかに投入して、ついに進御するに至った。】
 

※  寶賢堂は、景福宮乾清宮の西側、集玉斎の南側にあったものを慶運宮へ移築したものと考えられています。
 
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外国の使臣との接見や御真の奉安などに使っていた建物で、永福堂(純献皇貴妃嚴氏の居所で咸寧殿の東側にあった)の北側にあったとされていて、後に貴人鄭氏が王子李堣を産み、寶賢堂の堂号を受けています。
後述の日省録1898年8月25日の法部の上奏を読むと、あるいは、事件の現場は、この寶賢堂だったのかもしれませんが、よくわかりません。
庫直は、倉庫番、備品管理などを行っていた最下級の官職です。
 
 
高宗実録 1898年9月14日(陽)
 
法部大臣の申箕善が奏上した。
兼任警務使の閔泳綺の報告を見ますと、罪人の訊問の際、終身流刑罪人金鴻陸の口招によるものだとのことです。
金鴻陸を取り調べたいのですが、特旨による流配罪人のため、独断でおこなうことができません、と謹んで奏上した。
これを制して曰く、捕らえて審問しなさい。
 

承政院日記 1898年8月3日 (陽9月18日)
 
前副護軍の玄學均等が上疏して曰く、
伏して申し上げます。
臣等はもとより賎しい身分で、識見も薄いものですが、主君に忠を尽くさねばならない道理は、おおよそ知っています。
ゆえに、あえて下賎の説を、陛下の聖明を仰ぎつつ申し陳べますが、伏して垂察を願います。
乱臣賊子というものが世にあるとはいえ、今日のような 萬古にわたって見たことも聞いたこともないような醜悪な輩が起こした凶毒の変があったでしょうか?
大抵は逆賊を誅戮して親族を滅ぼすのが、上古以来、変わらぬ正法です。
ところが、新法ができてからは凶徒が絞首になるだけで、親族は不問とされ、巨魁は法の網を潜り抜けて逃げ去ってしまい、その遺種が悠然として聖域の内で、密かに禽獣のように息付いており、ついにはマムシのような毒を吐いて、今日のようなことになるのです。
新法というのは、乙未の凶逆の輩が作ったもので、その法は、もとより施行すべき
のではありません。
しかし、収司拏戮の典(連座制や妻子まで殺す法)は祖宗朝の厳格な刑典です。
噫嘻、痛恨です。
逆魁の鴻陸が前後幾年の間に、恥ずかしげもなく山海のごとき恩を賜った結果はどうだったでしょうか。
反って計り知れない凶肚を懐いて、今日の陰謀不軌に至ったではありませんか?
伏して陛下に懇願いたします。
軍民を動員して、その首を梟らし、八域人民が臠肉寢皮(※肉を切って、皮に寝る
:復讐を果たす)すれば、憤怨の情も多少は晴らすことが出来るでしょう。
臣等は未だ国母の復讐を遂げていません。
切歯腐心して血の涙を流しているのに、また再び、このような君父を害する凶賊を見て、心臓が裂け、手足が粟立ちます。
この賊と同じ空の下に生きるくらいなら、死んだほうがましです。
伏して乞います。
有司に厳命して連坐の律を適用し、悪逆の種が育たぬようにし、また凶毒の手がふたたび密かに伸びないようにしてください。
且つ、伏して念じるのは、禁中は大皇帝陛下の深居であり、至厳の地です。
特に皇恩を蒙った者や、別入侍を承った者だけではなく、近頃は官職もない輩が別入侍として易々と禁中に出入りしており、そもそも、凶徒と内応して主上の動静をうかがい、密かに国の機密を漏らさないとも限りません。
したがって、今なすべきことは、得体の知れない輩の出入りを厳禁して、隔絶することです。
そうすれば、奸凶の端くれも、自ずと入ることができません。
且つ、西洋料理は泰西人(西洋人)が食べるもので、およそ我が東土の人の腸胃は泰西人と異なり、もとより飲食すべきではありません。
況んや至尊に対して進御すべきものでしょうか?
かつての列聖朝も、国民らが他国の食べ物を食べ、他国の服を着ることを厳格に禁じていました。
故に、今でも法典にはっきり載っており、今それを論ぜずにおくことはできず、国内の臣民が、他国の風俗をあらそってまねすべきではありません。
伏して乞います。
厳格な課條を立てて、それを造ることや売ることを一切、禁断してください。
そうすれば、自ずと今日のような変もなくなるでしょう。
伏して陛下に願います。
珍奇なものを殊更に賞味されず、正式に供されるものだけを召し上がってください。
そうすれば、主上の食べ物についての憂いも少しは除かれ、閤門のなかの清肅を保つことができます。
臣等の激しい愚憤は、どのように言い表せばいいのかわかりません。
伏して聖明により采納されることを願います。
勅旨を奉じた。
上疏をみて、よくわかった。
声討(※弾劾すること)が公憤から出たものであることは理解できる。
また、最後に陳べたことは、留意しておこう。
 
 
日省録 1898年8月25日(陽10月10日:事件から一ヵ月後)
 
法部以罪人金鴻陸等判決宣告奏
 
法部が罪人金鴻陸等の判決宣告を奏上した。
高等裁判所の質稟書を見ると、被告金鴻陸は、遍く国恩を被り、陰暦本年七月十日、流配の詔勅を承り、罪の有無で不平の念を懐き、同日、配所へ出発する途中
で、新門外の金光植の家にしばらく留まって、持っていた小袋の中の古紙に一両(重さ)の鴉片煙が入っていたので、急に凶逆の念を生じて、至尊を犯そうと、親人の孔洪植に渡し、西洋料理に混ぜて進御するように頼んだと供述しています。
被告孔洪植は、罪人金鴻陸と別れを告げて、新門外まで行くと、そこに鴻陸が留まっていて、一封の薬を手渡して、これは死薬で、御膳に調進するように嘱托したので、その薬を受け取って、親人の金鍾和に手渡し、一千元の酬労で、この薬を御膳茶に入れて進めるように嘱托したと供述しています。
被告金鍾和は、寶賢堂の庫直、西洋料理の進御をおこなっていましたが、不善な行いで処分されたあと、なお以前のように出入りして孔洪植に会い、本月二十五、六に来訪するというので、その日に行ってみると、孔洪植がそこにおり、一封の薬を手渡して、これは死薬で、御茶に調進するようにとの金鴻陸の嘱托だから、汝がこの薬を調進すれば、一千元の銀を酬労として支払うと言うので、それを袖に入れ
て寶賢堂の厨房へいくと、誰もいなかったので、爐上にあった珈琲茶罐に薬を投下したと供述しています。
被告金永基、嚴順石、金連興、金興吉、姜興根等は、陰暦本年七月二十六日に、寶賢堂に入り、西洋料理に熟練した者として進御を行いましたが、珈琲茶のなかに御両方の玉体を害するものが入っていたとは知らず、見逃してしまったことは慙愧に堪えませんと供述しています。
被告金在澤、趙漢奎等は、寶賢堂の書記、進御西洋料理の看検をおこなっていましたが、陰暦本年七月二十六日夜、珈琲茶が御両方を害するとは思わず、慙愧に堪えませんと供述しています。
被告金時順は、寶賢堂の待令、武監で、進御西洋料理の看検をおこなっていましたが、珈琲茶が原因だったとは、慙愧に堪えませんと供述しています。
被告金召史は、本年七月十日、夫の金鴻陸が黒山島へ流配さるというので、新門外へ出て別れを告げたが、夫金鴻陸が言うには、孔洪植に託したことがあるから、孔から書付けか伝言があるかもしれないというので、その後、孔洪植が来見したときに、夫から託されたことがあるのかと聞くと、書き付けを見せて、託されたと言ったが、陰謀までは知ることができなかったと供述しています。
被告朴大福、崔善根、金順龍、田章大、金敬石、田秉俊等は、寶賢堂の軍士で、進御料理を進供するときに、ただこれを運んだだけで、膳を造ることには関わっておらず、珈琲茶が御両方の玉体を害するとは思わず、慙愧に堪えませんと供述しています。
事実は被告等の陳供と自服により明白であり、高等裁判所の質稟書では、被告金鴻陸、孔洪植、金鍾和等は、大明律・賊盜編・謀反大逆條の、凡そ謀叛と共謀は、首犯・従犯を問わないという法律に従って、絞首刑としています。
被告金永基、嚴順石、金連興、金興吉、姜興根、金在澤、趙漢奎、金在順等は、同律の儀制編・合御和薬條の律により、笞刑五十としています。
被告金召史、朴大福、崔善根、金順龍、田章大、金敬石、田秉俊等は無罪放免としています。
被告金鴻陸、孔洪植、金鍾和、金永基、嚴順石、金連興、金興吉、姜興根、金在澤、 趙漢奎、金在順、朴大福、崔善根、金順龍、田章大、金敬石、田秉俊等は、もとより、法律のとうりの処分としてください。
被告金召史は、渠夫の嘱託を聞いており、陰謀の下心を知らないという理はなく、ひたすら抵抗して不実を陳べており、その狡悪は極まりなく、該犯金召史は、大明律・詐爲編・對制上書詐不以實條の、不実により欺いた者の律によって、笞一百、懲役三年に処弁してください。
詔勅により、これを允し、金召史は、懲役の代りに流配とした。
 

承政院日記 1898年8月26日(陽10月11日)
 
詔令に曰く
さきに法部大臣に減俸の処分を行ったが、今聞けば、昨日、罪人を絞刑に処したあと、衆民らが屍体を交差点へ引きずっていって、やたらに刃もので剌したという。
公憤の激しさから行ったこととはいえ、国法が眼中になくて、このような挙に出たものであろう。
法部が前もって気を配っていたら、どうしてこんなことがあるだろうか?
章程に大きく違反しており、捨て置くことはできない。
法部大臣の申箕善、首班判事の李寅祐は免官とせよ。
 

金鴻陸等の処刑状況に対する反省促求   
1898年10月19日
日置 臨時公使 → 朴齊純外部大臣   
第七八號   
 
書翰をもって啓上いたします。
この度の大内における進毒事件の被告金鴻陸、及びその他に対する裁判、並びに刑の執行が極めて秘密に、かつ迅速に施行されたのは、不正な事情があったことを表しているものです。
また、金鴻陸の死体を交差点に晒し、無法な群衆が言うに忍びない蛮行をほしいままにしたのは人道に悖る行為であると、世間には批難をする者もいるようです。
これが事実であれば、貴国の裁判の信用を弱め、文明の域に達しようとする貴国の体面を汚すもので、本使が深く遺憾とするところです。
よって、本使は茲に法司の責任と人道の通義に鑑み、いささかの所感を申し上げ、貴政府の反省を促したく存じます。
よってこの段、照會いたします。
敬具
 

金鴻陸の処刑に関する釈明

光武二年十月二十一日
照覆第七三號
大韓外部大臣朴齊純 → 大日本臨時代理公使日置益閣下
 
大韓 外部大臣 朴齊純が回答いたします。
(照会の復唱)
これについては、重大な問題のため、慎重に調べ、検討しました。
この事件の犯人らは、各々真相を自ら供述し、さらに訊問を加える必要もなく承服しており、時間を引き延ばすことは受け入れ難く、直ちに法に照らして上奏し、勅旨を奉じて処理しており、この獄事の扱いはきわめて公明正大なものです。
死体のことは、都下の人々が公憤のあまり乱入して曳き出し、当時の法官もこれを防ぐことができませんでした。
厳格に管理できなかった責任は免れず、我大皇帝陛下が詔勅によって免官とし、よく戒めるようにしたところです。
これは民人等の無知と妄言によって起こったことで、法司が体面を損じようとしたものではありません。
以上の事由は、本大臣を通じて法部へ知照し、該部もこれに照覆しています。
この旨、文書で回答するので、貴公使の査照をお願いいたします。
右照覆
外部之印
 

梅泉野録卷之二   光武二年戊戌 ①  
 
金鴻陸が処刑された。
鴻陸は謫出先へ赴く際に、アヘン一袋を御膳主事孔洪植に托して、御膳に入れて進毒するように依頼した。
孔洪植は金鍾和に、これをやれば、報酬一千ウォンを与えると約束した。
金鍾和は西洋料理を作って進御する者だった。
彼は萬壽節を機に、アヘンを袖の中に入れて厨房へ入った。
その時ちょうど珈琲茶が沸いていたので、ついにこれを投入した。
高宗は一口飲んで吐き出したが、太子はこれを飲んでしまい、めまいを起こして倒れた。
宦官や姫嬪など、その茶を味わった人々は嘔吐したり腹痛を起こし、宮殿の中は震え上がった。
やがて鞠問が始まったが、孔洪植と金鍾和は、絞首刑を宣告された。
この時、金鴻陸はまだ到着していなかった。
孔洪植は証拠隠滅のために、刃物で自決しようとしたが未遂に終わった。
金鴻陸は、到着するなり、大言壮語しながら承服したが、不道な言葉が多かった。
鴻陸、洪植、鍾和はともに絞首刑となったが、鴻陸の妻は妊娠五ヶ月だったため、軽い罰で、流罪三年となった。
都の民は鴻陸の死体を引きずり出して、その体を切り裂いた。
このときから、閔泳韶が禁中に宿直し、御膳を確かめ、毒見をして事故を防ぐようにした。
 
 

 
 
参考資料
 
駐韓日本公使館記録 12巻
承政院日記
日省録
高宗実録
黄玹著 「梅泉野録」