大韓帝国(13) | 朝鮮王朝から大韓帝国へ
○ 独立協会の活動 (9) 
 
韓国史データベース「韓国史18 近代」から、独立協会の活動を見てきましたが、
今回が最終回です。
 
 
< 独立協会の活動 >
 
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1898年11月26日の高宗の仁化門での親諭は、高宗自身の少し高めの声と、静かな口調で読みあげられ、そこに集まって平伏しながら、一言一句、噛み締めるように聞いていた独立協会員たちを感動させ、特に、「汝萬民の罪は予一人にある。」というところでは、一同が大声をあげて感泣したと言われます。
この親諭のあと、一時、中枢院から排除された独立協会側の議官も再び任用されることになり、民心も次第に落ち着きを取り戻し始めました。
ところが、12月に入って中枢院の若手の議員が朴泳孝を大臣に推挙するという、とんでもない話が持ち上がり、中枢院はこれを賛成多数で可決しましたが、これが高宗の逆鱗に触れ、この議員も含め、独立協会員が片っ端から逮捕され、とうとう議会の開設運動も実を結ぶことなく、多くの民意に支えられた独立協会の活動は、ついに終焉を迎えることになってしまいました。
親諭のあとの様子から、その経過をたどってみたいと思います。
 

「褓負商襲撃以後の対立闘争とその収拾」のつづき
 
11月29日、政府は中枢院の専任議官を全て解任し、新管制によって中枢院議官を新たに任命した。
新しく任命された議官は、政府官僚4人、褓負商29人、万民共同会員、及び独立協会員17人で、民権派が占めた議席は、全体の三分の一だった。
さらに、12月4日、新内閣の閣員が発表された。
閔泳煥が議政府参政、徐正淳、権在衡が議政府賛政、朴定陽が農相工部大臣、沈相薫が軍部大臣、韓圭卨が法部大臣、閔泳綺が度支部大臣、金明圭が学部大臣、李根命が内部大臣、朴斉純が外部大臣になった。
新しい政府閣員の任命に対する国民の関心は大きかった。
新しい政府閣員に挙げられた沈相薫、閔泳綺、金明圭の名前は、しばらく落ち着いていた民心を再び刺激した。
12月6日、万民が再び鍾路に集まって共同会を開催し、この三人の斥退と、五凶の懲弁と、再登用の禁止を要求する上疏をおこなった。
この上訴に対する皇帝の批答は、三大臣ははすでに決まったことであり、五凶のの裁判は法司で行うことになっており、再登用の禁止も所管の官庁が行うことで、既に廃止した万民会を復設したことは抗命に当たるので、直ちに解散せよというものだった。
この批答に接した万民共同会は次のように上訴した。
 
① 勅諭から半月経って、政令が一つも施行されず、人心を慰悦していない。
② 奸凶たちが売国の陰謀を企てており、一般民は恐ろしくて安業できない。
③ 民心が不服なのは、三大臣が一日政府にいれば、万民が一日被害を
    蒙るからだ。
④ 五凶をかばい、法の通りに処断していない。
⑤ 前日陳べたのは褓負商であり、常民ではなく、廃止後もその名称を変えて、
    群れを集めて奸凶輩の手先になっており、危急の禍機だ。

万民共同会を再び開催した動機は、外国公使の前でおこなった皇帝の誓約が履行されないことだった。
解散を約束したはずの褓負商は、城内にそのまま屯聚していて、逮捕令が出ていた趙秉式などの宮廷保守派は相変らず皇帝と通じており、民権派が斥退を要求した人物が軍部、度支部、学部などの重職の大臣に任命されており、改善の兆しが見られなかった。
万民共同会では、政府の失策の責任を追求しようと、委員20人を各部に派遣し、大臣、協弁以下、各局長まで、全員を民会に呼び出そうと主張した。
これにより、委員が各部を占領して、各官吏を強制的に質問するなどしたため、公務が行なえなくなり、政府が機能しなくなった。
こうした状況のなかで、なす術がなく、対応に苦慮していた皇帝を庇護したのは、保守派の儒者たちだった。
政府に強迫する万民共同会の請議は、伝統社会の知識階層で、指導者階層の儒者たちの反発を受けることになった。
崔益鉉などの儒者は、万民会や独立協会の類は一切廃止すべきで、主謀者と首唱者を全員処断せよと、強く要求した。
幼學(※官職に就いたことのない無位無官の儒生)の李文和の上訴では、独立協会は、群衆を集め、軍部の重要な威福(威権)を冒し、欧米の共和政を我々のあらゆる旧規に移植するために、大臣を追い払うようなことも茶飯事で、男女の別があるのに、会には老少婦女が雑居して、国政を論ずるのは禽獣のすることであり、尹致昊を逮捕し、その首をはね、ぶら下げて、万民に警告し、先王の美典を修復するようにと求めた。
儒者は、万民共同会が共和政の実施を目的としており、また、伝統社会体制の秩序を紊乱させ、崩壊させることになるので、これを廃止して処断することを強く主張した。
しかし、これらの反発も上疏以上のものではなく、成長した民力に挑戦することはできなかった。

万民共同会の性格は、独立協会に指導されていた初期の頃と比べて、次第に変化していた。
それは、日本へ留学して帰国した若者たちが、徐々に台頭して、主導権を握ろうとしていたことが、大きな原因のひとつだった。
彼らは、この機会を利用して、一躍国政に参加しようという強い欲求を持ち、悪政改革をして、既存の秩序を破壊しようと考えて、非常に過激な運動を展開しようとしていた。
法律の範囲内での民権の獲得と、議会の設立を通して人民が参政するというビジョンの実現を目指していた初期の民権運動とは、かなりの隔たりがあった。
民権運動の基礎を作り上げなければならない議会設立運動が、後期にきて、ほと
んど議論されなくなり、11月2日に頒布された中枢院新官制が、その10日後の12日に改正されて、民選の機会の付与が奪われたのにも関わらず、万民共同会では、中枢院官制改正問題を一度も議論しておらず、また、皇告協会員が議席の半数を越える29議席を占めたのに比べて、民権派は議席の三分の一に相当する17議席という構成を異議なく受け入れ、12月16日の最初の会議に出席した。
新しく任官された17人の議官は、万民会の代表と、独立協会の代表で、万民会で選出された崔廷徳、魚鎔善などは、日本へ留学して帰国し、一躍政界へ躍進しようという野心に溢れた若者たちで、彼らは後期の万民共同会で気炎を吐いた演説をおこなって群衆を惹き付けていた。
民権派運動を利用して、韓国の内政干渉に、用心深く、徐々に道を付けようとしていた日本公使は、魚鎔善を直接呼んで、軽々しい言動をしないように厳しく戒めた。
12月16日に開催された初めての中枢院の会議では、現時局の収拾のためには、一番の適任者に政治を任せる必要があるとして、各部、府、院、庁の主務長官として最も適当と思われる11人の人材を無記名投票で推薦することを提案し、その結果、閔泳駿、閔泳煥、李重夏、朴定陽、韓圭卨、尹致昊、金守漢、朴泳孝、徐載弼、崔益鉉、尹容求の11人が選ばれ、政府に通告された。

※ 以下、菊池謙譲著「近代朝鮮史(下)」の要約です。
 
仁化門外での親諭により、独立協会、皇国協会の両会は、著しく融和したかのように静かになった。
特に、独立協会の幹部は中枢院議官を拝命し、会長の尹致昊は漢城府判尹、副会長の李在商は内閣総務局長の重職にあり、皇帝の独立協会に対する処遇は、甚だ厚いものがあった。
ところが、中枢院会議の席上で、議官崔廷徳から突如、緊急動議が提案された。
その要旨は、目下政府の急務は人を得ることにあり、故に、自分は朴泳孝、徐載弼を推挙したいというもので、この案に同意した者は11人、不可とした者は僅かに2人であった。
かくて、朴泳孝、徐載弼を中央政局に立たせる推挙案が突然、中枢院を通過した。
もともと独立協会には、朴泳孝を推し、民会を牛耳るようにしたいと策動する一派があり、そのため、朴泳孝大統領説さえ風聞され、政府は痛くその行動に関心を寄せていた。
もし、朴泳孝が独立協会を味方として捲土重来すれば、たちまち政変となり、政権が独立協会の手に落ちることは明白で、この意外な中枢院決議に宮廷は恐怖し、独立協会の禁圧に乗り出すことになった。
(以上)

※ 朴泳孝を推挙する動議をおこなった崔廷德の略歴
 
1865年慶尚北道大邱生れ。
1898年11月まで教員を勤めたあと、独立協会の活動に参加し、総代委員となって日本にいた朴泳孝を支援する活動をおこなった。
1898年11月28日、独立協会の推薦で中枢院議官。
1899年6月、独立協会と万民共同会を弾圧した勢力を処断するために、高永根らと共に大邱爆薬製造者などを買収して爆薬を製造し、6月8日から6月12日にかけ、大臣らの邸宅に爆弾を投げて逮捕令が下され、7月2日に日本へ亡命した。
1900年に開かれた欠席裁判で絞首刑を宣告された。
1907年7月に赦免され、8月に帰国した。
帰国後は一進会評議員として活動した。(韓国民族文化大百科事典より)
 
このことは、拡大した民権派の運動を、政府が弾圧して鎮静化させる最大の口実になった。
11月26日、皇帝の勅諭以来、再び集結した万民共同会による対政府闘争の標的は、皇帝の食言であり、その場に外国公使まで同席させて約束したことを履行しないのは、外国公使を欺くものだとした。
皇帝と政府に対する各外国公使の反応も冷やかだった。
ただ、こうした事態と、チャンスが再び来ることを、ひたすら待っていた日本だけが皇帝に接近してきた。
皇帝は、皇帝自身や政府の力では到底収拾できない動乱、あるいは革命寸前の事態の収拾のために、自ら日本公使の諮問を求めた。
民権派の運動以来、日本は民権派に対する政府の弾圧を糾弾し、運動の激化を
それとなく策動してきた。
それは、日本が民権派の運動によって、近代市民社会の形成を導こうとしたわけではなく、彼らの変わらぬ目的は、政府の力では収拾できない政局の混乱を招来させることによって、日本に救援の手が伸び、再び内政に干渉できる機会を作ることだった。
したがって、前にも論じたように、日本公使は、本国政府に対して、帝国政府は、ロシア政府、またはその他と共同して、断然決心して韓国の内政に干渉し、皇帝を翼賛、または抑圧して、弊政改革を実行するべきだという意見を打電していた。
 

当国の近来の国状の具報並びにこれに関する卑見具申の件   
1898年11月23日
日置 臨時代理公使 → 靑木 外務大臣 
機密第五二號   
 
(抜粋)
一. 帝国政府は、(露政府もしくは其他と共同で) 断然たる決心をもって、当国の内   政に干涉し、帝を翼賛し、また抑圧して、弊政の改革を実行させるべきか。
二. または、日本にいる亡命者の朴泳孝らと帝との間に媒介の労を執り、彼等に、   今、一応、自由を維持させることを試みるか。
三. あるいは、この趨勢をこのまま棄て置き、いよいよ大破裂に至ったときに、断然     たる処置をするか。
目下、幸いに加藤公使が東京に滞在中につき、とにかく対韓政略について永遠の方針を御決定になることが緊要と存じ、以上の事情を具申し、卑見を申し上げた。
敬具
 
その機会はまもなくやってきた。
東京に留まっていた日本公使の加藤増雄に早く帰任するように請願して、加藤が帰任し次第、皇帝に謁見できるように兪箕煥に密旨を与え、帰任する加藤を仁川まで出迎え、12月15日、加藤が国書を奉呈し、次に皇帝に謁見し、三時間にわたって時局の収拾に関する問題を議論した。
これは議論というよりは、加藤が東洋の平和云々という趣旨で皇帝を説得したものである。
この席で、加藤は次のような、いくつかの項目を実施するよう、皇帝に建議した。
 
① 民会激昂の直接の原因となる褓負商を城外の道路まで退去、解散させること。
② 陛下の信用が高く、与望のある人材を登用して、政府を組織すること。
③ 陛下が敦礼門(※仁化門)に臨御して民会に向かって誓約した事項を実行する
    こと。 (陛下の威信が地に落ちれば、民心が離散する恐れがあるため。)
④ 宮禁粛清(宮殿の威厳と静寂を保つ)すること。
⑤ 外国の事情や情報に通達した博識な人物を政府に網羅し、日本の人智によっ
    て、日本優位の政府を組織し、常に民論を優先すること。

以上は、暴動寸前だった事態の収拾のために、皇帝と政府がひとまず百歩譲り、民論を沈めることを要求するものだった。
また、政府に戻って、再び正常な職務を行うように、各部の門前に兵士を配置し、訴求を藉託する民の乱入を防ぐようにし、各部の門前には、6人の兵士を配置し、万民会の集会も、集会場所にあらかじめ兵士を送り、集会の機会を持たせないようにした。
兵力は、民会の襲撃のときのような、刺激的な方法で動員せず、集会以前の状態で阻止して離散させるために動員した結果、万民会では集会の場所を持つことができず、なすすべもなく、群がって歩き回った末に解散するというような有様だった。
政府では、特に国民が排斥する三大臣を逓職とし、軍部の大臣に閔丙奭、度支部大臣に朴定陽、学部大臣に尹容九を任命するなど、民意に応じようとする努力も見えた。
民論の鎮圧が次第に進行する過程で、皇帝と保守派の政敵、朴泳孝と徐載弼を大臣の候補に推挙する事件が起きて、これを主導した議官で、崔廷徳、申海永、卞河璡どを、朴泳孝など、その他亡命者からの指示、依託をされたという疑惑で逮捕し、また、朴泳孝の任用を上疏した李錫烈などを逮捕した。
11月21日には、国事犯は罪の軽重に関係なく、また魁と従とに関わらず、みな通常の法律によって処断するという、強硬な詔勅を頒布した。
 

※ 承政院日記 1898年11月9日(陽12月21日)

詔勅に曰く
逃亡した罪人を赦さないのは、国に法律が有るからである。
聞いたところ、朴泳孝の任用について堂々と上疏したことが一度や二度ではないという。
これがどうして臣民の口から出ることなのか?
あまりに驚き、嘆かわしく、口にしたくもない。
原疏は秘書院で退けたというが、これをもし厳しく懲罰しなければ、法の意味はなく、国家は国家足り得ない。
法部に命じて、李錫烈等の諸犯人を警務庁で捕らえ、実情を明らかにして、法律に照らして、厳正に処分せよ。

詔勅に曰く
法律というものは、国に信をたてることであるから、罪がある者は処罰し、罪がない者は処罰しないのが古今に共通の原則である。
朕が王位を継いで以来、上天の好生の徳(※民を大切にする気持ち)を体し、先王の教えを守り、罪状が確かでないときには軽い刑罰を適用し、初めから刑罰をなくすようにすることを目標としてきた。
ところが、近頃規律が緩み、国事犯はいつでも亡命出来るものと考え、累ねて君徳を汚し、国体を汚損するのも顧みず、これを思うと、痛嘆せずにはいられない。
およそ外国に逃げた者はもとより、犯した罪の大小と軽重を問わず、また、主犯か従犯かを問わず、乱臣賊子という点においては同一である。
国に常法がある以上、永遠に無赦であることを、汝臣民は悉く知らねばならない。
(以上)
 

※ この高宗の詔勅について、加藤全権公使は本国に対して、次のような報告をおこなっています。
 
1898年12月27日  
朴泳孝召還の建議に関する件
加藤 全權公使 → 靑木 外務大臣   
發第八八號
 
(要約)
昨月二十九日、万民公同会会員と負褓商等から五十名を中枢院議官に任命して以来、同院はほとんど民意の中核ともいうべき姿だったが、12月16日、同院において、時勢が険しいことを考えて、宜しく人材を投票し、議政府に推薦すべしとの議が成立し、11名を投票した結果、そのなかに、朴泳孝と徐載弼がいた。
議長李鍾健は、朴は法律上、問題のある身の上なので、陛下の厚慮がなければ、吾々からこれを許すことはできないと主張したが、この反対説は多数とはならず、ついに、議政府に推薦することになった。
朴、徐の二氏については、特に参考意見が添付された。
朴氏の分は、次のようなものである。
朴泳孝は、開国五百四年閏五月十四日の詔勅中に、陰に不軌を図り、事は既に発覚しており、法部に命じて厳格に罪を正すことになっているが、光武二年六月二十六日の詔勅のなかに特教(※1)があり、この詔勅に準拠し、併せて光武二年十月三十日、官民公同会から上奏して実施した六條のなかの第四項(※2)により、罪があれば国法に処し、罪がなければ重用することもできるということなので、ともかく、朴氏を召還すべきだ。

※1 
甲午と乙未の変乱を経た今、その経歴にこだわるあまり、良材美器があっても、これを使わずに埋没させてしまえば、畢生の抱冤となるだろう。
それがどうして王道の蕩平の意と言えるだろうか。
乱逆の罪は宗社に関わることであり、法がある以上、赦すことはできないし、また、朕一人の意のままになることでもない。
しかし、その罪状が曖昧のまま放逐されたり、糾弾に遭った者については、みな赦して、垢を洗って出直すようにせよ。
懐疑を抱いたり畏縮したりしないように、みな誠を尽くすことができるようにせよ。
また、今日からは、一賞一罰、妄りに施行せず、みな公議に付すようにせよ。
 
※2 
今後、重大犯罪はすべて公判に付し、被告に充分説明の上、自腹したあとに刑を施行すること。
 

万民公同会もまた、去る19日に、この召還のことを会議に附し、ついに委員三名を選んで、その罪科の有無を裁判してほしい旨、法部に訴願することに決議し、同日、この委員三名が法部に出頭して願意を申し出た。
しかし、朴氏問題は陛下の大権に属し、法部が処弁することできないとの指令を附して却下された。
ところがまた、前主事の李錫烈という者が、ほかの三十余名の疏頭となって、同様
の召還の上疏を捧呈したところ、二十二日、これが却下されただけでなく、疏頭者を捕縛せよとの詔勅を下ろされた。
(※前記、承政院日記 1898年11月9日の詔勅)
同時に、亡命者に関する詔勅が下された。(※同上)
この詔勅に続いて本問題の運動の中心だった公同会へも解散の詔勅が下ろされたため、公同会員は、時勢に鑑み、大いに考える所があり、本問題は別事件として、当分、主張するのを止めることにしたということで、今後、本問題は立消えとなりそうな趨勢である。
以上、具報する。
敬具
(以上)
 

逆賊の名前が議論に上がると、民権派の強硬な対政府闘争も下火にならざるを得なかった。
皇帝は引き続き公務離脱者、公務遺棄者、公務妨害者を処断するという詔勅を頒布した。
12月25日には皇帝の勅諭以来、民会を再び説諭して、政局を混乱させたことに対して勅諭を下ろし、十一条目の罪を数え上げた。
 
 
※ 承政院日記 1898年11月13日(陽12月25日)

① 既に禁令があるのに、随所で集団をなし慢心して止まることを知らないこと。
② 独立協会はすでに准許したのに、万民共同という勝手な名目をたてたこと。
③ 勅令で退去を命じたのに、終始抗命して、愈々甚しくなったこと。
④ 投鼠忌器は古人の戒めるところなのに、大官への凌辱が茶飯時であったこと。
 (※投鼠忌器:鼠に器を投げると器が汚れるのでためらうこと、転じて、ほかの
  ことにも配慮して、行動を控えること)
⑤ 人は敢えて主君の落ち度を、わざわざ世に示すようなことはしないものだが、
    外国公使館に投書して、自ら罪を企てたこと。
⑥ 民と官は體が異なるものであるのに、官人を威嚇して無理に赴会させたこと。
⑦ 部、府の行政に空白があってはならないのに、官衙に乱入して妨害したこと。
⑧ 裁判事件は力で敵対するものではないのに、訴求することがあると称して群れ
    をなして妨害したこと。
⑨ 派兵して宮門を防備したのは命令によるものなのに、興奮して投石し、重症を
    負わせたこと。
⑩ 何度も命じて召したのだから即時来待すべきなのに、妖言を扇動し、ひたすら
    反逆したこと。
⑪ 逃亡犯は赦されず、みな誅を受けるのに、衆議の場で言を開き、任用すること
    を希図したこと。
 
その他、さして重要でない罪はいちいち数えることができないほどである。
嗚呼!汝等は以上の所列の罪を認めるのか、認めないのか?
汝等に、自らを免ずる言葉はなかろう。
国に常憲があり、天がこうして怒っており、厳格に処罰する道がないわけではない。
しかし、細かく究めれば、汝等は自らこの罪に落ちることに甘んじるのが本意ではないというのが真実であろう。
初めは忠と言い、愛と言い、そこに不善はなかった。
しかし、最後は道理に悖り、国を乱し、言い逃れもできず、疑懼の念が生じる所以となった。
朕は、汝等の父母であり、汝等が初めの善をなくしているだけであることを知っている。
故に、凡そ汝等の前後の所犯はすべて免ずるので、汝等は安心して、ためらわず
に、互いに声をかけあって退去しなさい。
嗚呼!汝等は、朕のこの言を聞いて、涙しない者がいるだろうか?
本来の自然な良心が、必ず沸き出てくることだろう。
各々が以前の誤りを洗い流し、全てを新たに始めなさい。
これについて、朕が再び言うことはない。
 

日本公使の控えめな武力使用の勧告と、中枢院による大臣の推薦事件は、皇帝に、再び民会を排除する勇気と機会を与えた。
兵力の使用により、集会の機会が奪われ、民力を動員することが難しくなり、万民会側の代表の逮捕拘禁は、これらの運動を委縮させ、連発される皇帝の断固たる詔勅は国民に新たな恐れを抱かせた。
 
 
※ 承政院日記 1898年11月16日(陽12月28日)
 
詔勅に曰く
信義というものは五つの徳のなかでも最も重要なもので、そのため、人に信義がなければ、その役割を果たすことができず、国に信義がなければ、治めることはできない。
前回、朕はすでに胸襟を開いて民衆に諭したが、未だ理解が得られていないことを懸念して、ここに再び告げる。
そもそも人民は一人、二人という孤独なときには、その分を守ろうとするものだが、数百、数千人と群れをなすと、自然と気持ちが昂揚し、そのなかで、初めは敢えてしないような話をし、あげくに、敢えてしてはならないことをするようになる。
前日のいわゆる民会もまた然りである。
初めは忠君愛国を旨としていたが、最後には言うこと為すこと恐れを知らず、解散されるときに至っては、心配することは逮捕されることで、することは隠れることで、主君の威厳が示されることさえわかっていない。
人数が多いか少ないかに関わらず、いやしくも集会の日に赦免したいと欲し、解散したあとに食言(言ったことを言わなかったことにする)するなどということを、どうして国家が民に対しておこなう道理があろうか?
今日からは、疑いはきれいに解いて、各自戻って、安心して生業に就きなさい。
もし、また浮言をまき散らして、迷って引き返さず、隊列を成して同じことを繰り返そうと思うのなら、これは自ら罪を招くことになり、 国法は極めて厳しく、再び許すことはできない。
内部に発令し、警務庁、漢城府に命じて、民人等に深く諭して、よくわかるようにしておきなさい。
(以上)
 

特に、近づく厳冬の寒さで、民衆集会はさらに厳しい条件に置かれることになった。
12月25日以降、鐘路の集会は次第になくなり、ソウルの通りは、再び昔のように静かになった。
1899年1月中旬、かつて民論が沸騰していた頃に五凶として排斥され、免官又は流刑となった兪箕煥、李基東、洪鍾宇、朴有鎮、吉永洙らが特赦となり、趙秉式、閔種黙も特赦となり、兪箕煥、洪鍾宇、吉永洙が新たに官職に任命され、閔泳煥、朴定陽は辞表を出した。
民会によって斥退された沈相薫、閔泳綺が大臣として内閣に入った。
政府は再び保守内閣に戻りつつあった。
彼らは、保守派の儒者らとともに、民権派の再起を根絶するため、毎日のように、独立協会の打倒を訴える上疏をおこない、1899年1月4日、上疏者の身分を制限する、言論の自由に対する規制案を議政府会議で通過させた。
また、身分規則を新たに制定して、近代的な言論の自由にも制限を加えた。
一方、皇帝は皇権強化のために大韓帝国の官制を頒布して元帥府を設置し、軍の統帥権を掌握し、親衛隊を増やすなど、皇権強化を目指す一連の政策改革を施行した。
 
この結果について、H.B.ハルバートは、 THE  PASSING  OF  KOREA」のなかで
次のように書いています。
 
「独立協会は、陛下の約束が守られるかどうかを忍耐強く待ち、もし、約束が守られなければ、大衆の世論が改革を求めるまで待ってから動くべきだった。 
ところが、致昊自身が、次のように告白している。
「万民共同会は独立協会のコントロールの範囲を超えてしまい、強く助言したにも
関わらず、12月6日に再開された。彼らの言動は配慮に欠けた厚かましいものだった。中枢院は12月16日に日本から朴泳孝を呼び戻すよう建議したが、共同会には、こういった行動を許してしまう軽率さがあった。多少なりとも保守的な人々は、まさにこの名前が出たことに反発し、朴泳孝に肩入れした主張が始まったことによって
その疑惑の念が一挙に昂じてしまった。」
改革派の敵対者たちは、おそらく、この議論を最大限に利用しただろう。
独立運動は、大衆の世論という最強の支持基盤を失い、力によって無残に抑えつ
られた。
多数の改革派が逮捕され、投獄された。
それは運動の当事者だった責任を問われたのではなく、特に、朴泳孝を連れ戻す
計画に関わったという嫌疑からだった。
こうして、至高の理想を目指した政治集団に終末が訪れた。
その方法は、まったく平和的なものだったが、その主張が時流に先んじたものだっ
たために、初めから十中八九、成功の見込みはなかった。
1899年の年明けは、独立協会と改革運動への強い圧力によって政治的には静穏
な様子だった。
将来、当時の日本は大きな間違いを犯したと評価されることになるかもしれない。
独立協会の目的と目標は、日本の利益に直接結びついていたが、もしも政府に
力量があって、この運動の成功に積極的な関心を持ち、それが確かに実行可能なものだと判断していたら、その後の歳月は、また違った展開になっていただろう。
しかし、この間、日本は、どちらかといえば、ずっと表立った動きを控えていた。
それは多分、ロシアとの衝突を避けられないとみて、最終的な対決の用意が整うまでは、時期尚早な対立を招くのを避けたということなのだろう。
(以上)
 
(独立協会の活動 おわり)
 
 

 
参考資料
 
国史編纂委員会韓国史データベース 「韓国史」18 (近代)

朴容玉著「萬民共同会」

承政院日記
韓國民族文化大百科事典
菊池謙譲著「近代朝鮮史(下)」 ( 1937年 大陸研究所 )
Homer B. Hulbert   
THE  PASSING  OF  KOREA   ( 1906  Doubleday,Page&Company )