【特集:大学発スタートアップの展望】芦澤美智子:大学発スタートアップが生み出される環境とは――スタンフォード大学の例から展望する慶應義塾のスタートアップ・エコシステムの将来
三田評論ONLINEより
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芦澤 美智子(あしざわ みちこ)
慶應義塾大学大学院経営管理研究科准教授
スタンフォード大学での調査
スタンフォード大学は、起業家を数多く輩出する大学として有名である。Googleは、コンピュータサイエンス専攻の若き研究者が生み出した。ヤフーは、キャンパス内のトレーラーハウスで産声をあげた。インスタグラムは、起業家育成プログラム「メイフィールド・フェローズ」の学生が立ち上げた。ショックウェーブメディカルは、医学部の起業家教育プログラム「バイオデザイン」から生まれた会社であるが、2024年4月に約2兆円で買収されたとのニュースが世界中に配信された。スタンフォード大学では、このような事例は枚挙にいとまがない。
私はそのスタンフォード大学に、2022年8月から8カ月間、客員研究員として滞在した。「スタンフォード大学からなぜ起業家が生まれるのか」を調査するためであった。初めてキャンパスを訪れた夏の日、強い日差しと爽やかな気候、抜けるような青空が印象的であった。広大なキャンパスは緑豊かで、コロニアル様式で統一された建物群は実に美しかった。訪れてすぐ、「この環境があってこそ、ここから起業家が生まれ、困難の数々を乗り越えるのであろう」ということを全身で理解した。まさに百聞は一見に如かずである。
私の起業家精神にもおのずと火がつき、早速調査を開始した。キャンパスのイベントに顔を出し、起業家教育プログラムに参加する学生を探し出し、インタビューを申し込んだ。さらに縁を手繰り寄せ、プログラムの創設者たちにインタビューすることができた。その中には、2000年からの16年間の在任期間に、スタンフォード大学を全米で一番起業家を生み出す大学へと押し上げた、第10代学長のジョン・ヘネシー教授(現在ナイト・ヘネシー奨学金プログラムを率いており、また、Googleの親会社であるアルファベット会長でもある)も含まれていた。
スタンフォード大学の構内(撮影 高梨良子)
なぜ起業家が生まれるのか
20名余りから聞いた話から、「スタンフォード大学からなぜ起業家が生まれるのか」の理由が浮かび上がってきた。
第一に、キャンパス「外」との活発な連携がある。大学はシリコンバレーの中心に位置し、近隣には大小様々のスタートアップがオフィスを構えている。大学の西側のサンド・ヒル・ロードにはベンチャーキャピタルが、東側のページ・ミル・ロードには法律事務所が並ぶ。この物理的利点を生かすかのように、スタンフォード大学のキャンパスには、日常的に起業家や支援者が訪れ、講義をしたり、ピッチコンテストの審査員をしたりしている。
学生起業家サークル「ASES」のイベントには、イーロン・マスクが参加したこともあるという。キャンパスを訪れていた有名なベンチャーキャピタリストであるジョン・ドーア(Google、Amazon、Twitterなどに投資している)と雑談をし「早く起業しなさい。応援するから」と直接言われたという日本人留学生もいた。ある学生はスタンフォード大学での日々について「起業家精神を『教わる』というよりも『浸る』感じですね」と表現していた。こうしたキャンパス「外」とのネットワーク・交流が、学生の起業を後押しする。
第二に、キャンパス「内」での活発な学部連携がある。例えば、医学部にある起業家教育プログラム「バイオデザイン」には、3つの学部(医学部と工学部とビジネススクール)の学生が参加している。医学部生が医療現場や患者のニーズを提示し、工学部生が技術を提示する。そしてビジネススクール生がビジネスモデルを構築し、プレゼンテーションの取りまとめをしている。
このような学部横断的な起業家教育プログラムがいくつも見られる。学生数は、慶應の約半分(学部生約7,800人、修士博士学生約9,700人)だが、スタンフォード大学公認の起業関係組織の数は40にのぼる(https://sen.stanford.edu/)。そのほとんどが、学部をまたいだ参加が可能になっている。起業アイデアは専門分野を越えた交わりから生まれ、学部を越えた人的ネットワークは、いざ起業する時の補完的なチーム組成を可能とする。起業の種類別、事業フェーズ別に特化した起業支援プログラムが存在する。起業を後押しする仕組みがキャンパスのそこかしこに存在する。
第三に、起業家/スタートアップを支える文化の存在がある。「スタンフォード大学からなぜ起業家が生まれるのか」と問うと、ほとんどの人が、キャンパスを貫く文化の重要性を語るのである。「新しいことに挑戦する」「失敗を許容する」「Yes butではなくYes andで返答する」「めちゃくちゃ働いて少し休む」「組織や人にではなく技術に忠実である」「起業家は社会を前に進める大事な存在である」といった言葉で表現される文化が、キャンパス全体に根付いているのである。
また、学生だけでなく教職員においても、新しい分野を切り開いた人が評価され、アカデミアに閉じず、産業界と繋がって研究を社会実装することに価値が置かれているのだという。そもそも日本において、ここまで多くの人が「文化が大事である」と言及する組織に、私は未だ出会ったことがない。起業家/スタートアップの発展を下支えする文化が存在し、その重要性を多くの人が認識し、自らもその文化の担い手になろうとしている。キャンパス全体が起業家を生み育てようとする雰囲気に包まれていて、リスクを取って挑戦しようとする人に温かいのである。
起業家育成制度はどのように形成されたのか
ここまで理解した後に出てきた疑問は、「さて、スタンフォード大学には、いつからこのような制度や文化があったのだろうか」である。そこで起業家教育プログラムの立上げに携わった教授たちの話を聞いてみると、30年ほど前には、起業を支援するプログラムも、起業を応援する文化も、ほとんどなかったのだということがわかった。ほんの一部の教員が、個人的に挑戦したり支援したりする程度だったそうである。
そこで改めて教授たちに「ではなぜ、キャンパス内で起業家教育プログラムが次々と立ち上がったのか。その担い手は誰だったのか」と聞いてみたところ、4つのことが浮かび上がってきた。それは、「第10代学長ジョン・ヘネシー教授のリーダーシップ」「ヒューレット・パッカードなどの成功した卒業生の寄付支援」「キャンパス近隣のシリコンバレーにおける巨大なインターネット産業化の波」「スタンフォード大学の分権的組織体制」である。起業家育成が大学発展の鍵になると確信したリーダーがいて(ジョン・ヘネシー教授自身、教授になってから1年休職し、起業した経験を持っている)、そのビジョンに共鳴した支援者が資金面で発展を支えたこと、キャンパスの近隣にApple、Google、Facebookなどが次々と生まれ、外部環境要因に恵まれたことは、理解に難くない話であった。しかし、「大学の分権的組織体制」の話は「つまりどういうことなのでしょうか」と追加説明を要するところであった。このことを起業家教育プログラムの立上げに携わった教授に質問したところ、以下のような話をしてくれた。
「スタンフォード大学には優秀な人材が集まってきます。優秀な人というのは、自分たちの世界を自分たちで運営するのが好きですよね。ですから、分散型組織であることが大事なのです。自由な研究が認められていれば、自分の研究成果を社会に実装し、人々の役に立てたい、社会を良き方向へ自らの手で変えたいと思う人、起業を志す人が出てきます。そうして起業を経験した人はその後、自らの苦労や経験を後に続く人に役立てて欲しいと思うでしょう。こうして人々が、自らの起業経験を通じて得た知識や知恵・ネットワークを、次の起業家に提供しようとして、起業家教育プログラムを作ったのです」
分権的な組織体制があってこそ起業家が生まれ、起業経験者が次の起業家を助けようとして起業家教育プログラムが生まれる。このような自由闊達なキャンパス環境が、スタンフォード大学スタートアップエコシステムの起点になったというのである。
慶應義塾はスタートアップを生み出す場所になれるか
こうした話を聞きながら、私はおのずと、帰国後に着任予定であった慶應義塾について思いをはせるようになった。「慶應義塾は、スタンフォード大学のような、スタートアップを生み出す場所になれるだろうか」と。起業家輩出にとって重要な、キャンパス内外との連携は可能だろうか。研究を起業によって実装しようとする人や、起業家教育を担おうとする教職員はいるのだろうか。研究者や学生が志を持って立ち上がる時、それを受け入れる自由闊達な環境になっているのだろうか。「失敗を許容する」文化はあるのだろうか。ないとしたら、それらをこれから作っていくことができるのだろうか。
慶應義塾に来てまだ半年であるが、今私は、「慶應義塾は起業家を生み出す場所になる」と未来について、楽観的に思っている。それはなぜか。
最も重要なこととして、慶應義塾の創立者である福澤諭吉の掲げた理念が、起業家/スタートアップの輩出に極めて親和性があることが挙げられる。『学問のすゝめ』で福澤は、「わが慶應義塾で、すでに技術としての学問をマスターしたものは、貧乏や苦労に耐えて、そこで得たものを実際の文明の事業で実行しなければならない」「学問で重要なのは、それを実際に生かすことである」といったような内容のことを書いている。まさに「塾生よ起業せよ」と言っているようにも読み取れる。そもそも慶應義塾という大学を立ち上げたことからして、福澤諭吉が起業家精神旺盛な人物であったことがうかがえる。慶應義塾はその福澤諭吉を創立者とし、社中にはその理念が引き継がれている。つまり慶應義塾ほど起業家育成に親和性のある大学はそうそうない、と言えるのではないか。実はスタンフォード大学の創立者の理念もまた、実業を重視しており、そのことが起業家輩出の土台となっていると主張する人は多い。
ある教授は、「創業者のリーランド・スタンフォード氏が『スタンフォード大学はカリフォルニアの経済に寄与する人材を輩出するために設立する』と掲げていたことが、今のスタンフォードの文化の土台となっており、そのことがスタンフォード大学から起業家が多く生まれる今に繋がっていると思います」と述べている。スタンフォード大学と慶應義塾は、似た創業者理念を持つ大学なのだ。
さらには、スタンフォード大学で第10代学長のジョン・ヘネシー教授が起業家育成を重視したように、慶應義塾の伊藤塾長が折に触れて、福澤諭吉の実業家育成への理念、学問の社会実装の手段としてのスタートアップの重要性に言及され、リーダーシップを取っておられる。新しい制度と文化を作っていくには、リーダーの発信・行動の影響は大きい。ジョン・ヘネシー教授が当時何を考えていたのか、以下のような話をされていたのが印象的であった。
「私が工学部長の時に、工学部に起業家教育を担うセンター(STVP)を作りました。スタンフォードの学長に就任してからは、 奨学金制度や大学における学際的研究、学内でのコラボレーションについて抜本的な見直しを行い、変革を実行しました。それらすべては「大学が、社会の最も困難な問題を解決するためにどうしたらいいのか?」を常に考えて実行してきたものです。そして私が学長であった16年の間に、次々とイノベーションを生むためのプログラムが設立され、スタンフォード大学は起業家を生み出す大学として世界的に有名な大学となりました」
伊藤塾長のリーダーシップを得て、慶應義塾から社会にインパクトを与えるスタートアップが生まれる未来、慶應義塾にも多くの起業家育成組織が生まれる未来があるのではないかと思えるのである。
スタンフォード大第10代学長からのアドバイス
既に慶應義塾は、日本でも有数の起業家輩出大学である。大学発ベンチャー企業数は全国3位、資金調達額は1位という実績をあげている。日本政府は2022年に「スタートアップ育成5カ年計画」を発表し、大学発ベンチャーへの支援姿勢を強く打ち出している。慶應義塾には多くのサイエンス、すなわち有力な起業シーズ(種)がある。慶應義塾のキャンパスは、東京や横浜のような、大きな経済圏に隣接している。
つまり、キャンパス内外の境界を越えての連携が進めば、補完的に資源を持ち寄ってして、社会実装が進んでいくであろう。さらに慶應義塾には、福澤諭吉の理念がありリーダーシップがある。スタートアップが生まれる条件は見事に整っているのである。
実は私はジョン・ヘネシー教授に「慶應義塾が優れた起業家を輩出する大学になるためには、どうしたらよいと思いますか」と聞いている。その答えは以下のようなものであった。
「慶應義塾は、産業界のリーダーをたくさん輩出していること、OBにはファミリービジネスはじめ、事業オーナーがたくさんいると聞いています。それらの人々の力を集めることから始めると良いと思います。また、スタンフォードには、起業家教育プログラムが、様々な学部で長年にわたって作られてきました。これは一朝一夕にできるものではありません。数十年にわたるプロセスであると考える必要があります。みんなスタンフォードにやってきて、『シリコンバレーを作りたい、5年で』と言うんです。でも、私たちは30年かかっているんです。辛抱強く教育をすることです。また、ベンチャーキャピタルを支援すること、労働法が変わるように政策当事者に働きかけることも必要です。大学として、どのように社会経済の変化を促すかを考え続けなければなりません」
ジョン・ヘネシー教授が指摘するように、慶應義塾は産業界のリーダーを数多く輩出している。そうしたリーダーが結集すれば、慶應義塾は今以上に、優れた起業家を生み、社会をリードすることができるであろう。キャンパスから起業が出て成功事例が増えれば、それは次の起業の基盤となり、さらなる起業が生み出されていく。そうして数十年経つと、キャンパスに起業家育成の制度と文化が根付いていく。社中の「先導者たち」が力を合わせ、社会経済を創っていく未来を思い描くと、胸に熱いものが湧き起こる。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。2024年5月号