【講演録】わが『福澤伝』を語る | ねぇ、マロン!

ねぇ、マロン!

おーい、天国にいる愛犬マロン!聞いてよ。
今日、こんなことがあったよ。
今も、うつ病と闘っているから見守ってね。
私がどんな人生を送ったか、伊知郎、紀理子、優理子が、いつか見てくれる良いな。

曽田歩美様に頼んでマロンの絵を描いていただきました。

【講演録】わが『福澤伝』を語る

三田評論ONLINEより

  • 荒俣 宏(あらまた ひろし)

    作家・塾員

ご紹介いただきました荒俣と申します。団塊の世代で76になります。もう団塊の世代も長老になりまして、何か来し方を整理しなければいけないと思っていますが、慶應の理事・評議員でもある早川書房の社長、早川浩さんから、「福澤諭吉はなかなか難しくて、よくわからないところやわかり過ぎるところがあるので、福澤について小説的に書いてくれないか」と、とんでもないお題をいただきまして、4年間かけて執筆した小説が、ようやく昨年末に出版の運びとなりました(『福翁夢中伝』(上)(下)、早川書房)。おそらくその縁で、今日の会の講演に招いていただいたのかと思います。

一番感じるのは、この会(福澤先生誕生記念会)もそうなのですが、福澤さんの考え方が何かもう生物学的な意味で塾員の体に伝わっているのじゃないかということです。頭というよりも体で受け継いでいる。たとえば名刺交換会と誕生会がくっついて行われるところも、さすがはお若いころの口癖が「モニ(money のこと)がない」だった福澤さんの後裔たちらしく、合理的と思います。

「福澤式経済学」とは?

福澤さんの遺した言葉で何よりも私の印象に残っている言葉はこの「金がない」の一言なんです(笑)。何を読んでも、「金がない」というのは福澤さんの名台詞で、看板でありました。無理もないですよ。だって、1人で慶應義塾を造ったようなものですから。それまでは藩校とか幕府の昌平黌(昌平坂学問所)のような、ちゃんとスポンサーがいた学校だったんです。しかも、幕末当時、尊王攘夷の風が吹き荒れ、洋学を教えていたら切り殺される危険性もありました。それをたった1人で、十何人も生徒を集めて、飲み食いもさせ彼らに洋学を伝えようとしたのですから、お金がないのは当たり前です。中津藩の下級藩士が子どもを十何人育てるようなものです。

でも、ここがすごいところで、そういう塾を維持するために福澤さんは「福澤屋諭吉」という商人になりました。これも一石二鳥で福澤さんらしい福澤式経済学です。僕に言わせると、金がない主義というものを経済にこう生かすという、見本のようなものだと思うんです。その商売がまたすごくて、最初は翻訳家ですよ。

実は私も全く同じで、慶應大学の3年か4年ぐらいの時に、早川書房に翻訳家として雇われました。50年以上前の話です。何で学生なのにやらせてもらえたかというと、その当時あまりやる人がいなかったサイエンスフィクション(SF)を原文で愛読していたので、それなら翻訳もできるだろうと言われたんですね。今思うと、ただ好きで読んでいた本を翻訳すると、お金がもらえてほかの本も買えることがわかりました。

重要なのは、ちゃんと本屋の同業組合である株に入って、本屋さんになったことです。そうして自分で書いた本を売る。江戸時代、藩士の身分で本を書いても、作家は生かさず殺さずなのです。印税や原稿料なんか出ない。一晩どんちゃん騒ぎをやるだけで、お金は一切出ない。

じゃあ、誰がお金を取るかというと技術者です。本の場合、木版を彫る人、挿絵などのデザイナー。そしてもう1つは売る人(版元)です。こういう人たちは、本が売れればいくら、とちゃんとお金が入るのですが、作家には入りません。「好きで書いたのでしょう」というくらいで、著者は金銭の動く「職人」ではなかったのですが、福澤はこの著述家も職業にしようとした。作家では食えないので本屋になった。これはすごい。

今、まさにIT時代で同じようなことをやっていますね。今まで作家は本当に食えなかったのですが、自分で本を出版することができるようになりました。何のことはない、諭吉さんが苦肉の策でやったことは先駆的で、お金がない教育者の経営術の表れではないかと思います。

生活の場と密着した学問

また、学校の中で先生にお辞儀をしなくてもよかったのは慶應だけでした。目礼すればよかった。理由が、また福澤さんらしいのです。普通だったら、能書きを延々と説いたのでしょうけれど、福澤さんの説明の仕方は違いました。この忙しい世の中に、先生に会うたびにいちいちこんなことをやっていたら時間の無駄だと。時間を節約するためにお辞儀をしなくてよいと。これも粋な発想ですよ。

もっとすごいのは、三田に学生たちが通学するにあたり、住むところがない人も多かったので住めるようにした。つまり寄宿舎を建てたのです。もともと旧島原藩邸が寄宿舎として利用されていたのですが、学生の急増で手狭となり、明治33年に新寄宿舎が完成、その中に今の生協の前身にあたる自治的な消費組合も置かれます。『福澤夢中伝』を書いていて、この寄宿舎を1回見てみたくなりました。何百人も入る大きな寄宿舎を造って、先生も生徒も出入りをする。この三田の山の上が生活の場になったのです。その中で塾生たちが暮らせるようになったんですが、そこには先生方の奥さんもいらっしゃったし、子どももいました。

この三田の一角に大きい洗濯場ができまして、学生たちも自分が毎日着る運動着なども洗っていたのでしょう。信じられないことですが、この慶應の洗い場では、赤ちゃんのおしめが干されていた。つまり、全く日常家族生活の段階から教育がスタートしているということです。

高尚な知の問題はさておいても、食わなければいけません。これが独立自尊の「独立」の意味だと思います。自主独立なのです。食わなければいけないということが最重要なので、暮らしの隅々まで関心が行き届いたのです。

塾としての独立経営

この誕生記念会でも、最初に小さな幼稚舎生、横浜初等部生が合唱をしてくれました。あれは日本の教育に江戸時代まであった、非常に重要な特色の1つを思わせるものでした。いわば「家族的絆」です。僕が興味を持つ平田篤胤という国学者は、トータルで3千人ともいう、大変たくさんの弟子を抱えていました。教えたのは、インテリではなく町の人たちで、難しい国学も絵で図解して学ばせて、大変人気があったということです。

そして、平田篤胤の門人帳で一番若い弟子は2歳だったというのです。授業を始める前に、先生方は皆、こういう子どもたちをあやして面白い話を聞かせ、疲れて寝た頃を見計らって、大人たちに向けて話をする。そうやっているうちに、何となく体でいろいろなものが吸収されて、将来多方面の興味と知識を身につけた子どもたちが出る。言ってみればお母さんの役回りを果たすようなことが、平田塾の特色で、財源も自家出版する著作を販売することでした。福澤さんの塾もおそらくそういう感じがあったのだと思います。

たぶん明治時代に学校の中で赤ちゃんが見られるのは、慶應義塾ぐらいだったのではないかと思います。そういういわば家族主義の経済を基軸として、教育が立ち行くようにすること、独立して自営することが、世の中を独立自尊の世界として結合する大きな力だと、福澤さんがはっきりと言いました。

そのために彼は独立自尊の1つの秘訣を自ら実践しました。小銭をためろと。何でもいいから、少しでも貯金をしなさいと。当時、日本でも、なかなか一般の人たちが貯金をするようなことはなかったのですが、貯金を非常に強く勧めた。これが独立自尊の建前です。

大企業に行って大金を儲けて、あるいは株式相場で大当たりして、大金持ちになれ、大成功者になれ、と言いそうなものですが、福澤さんはそうは言いませんでした。小銭をつましく蓄えて、いざとなったらそれで家族を守りなさいと言った。その教えは、日本人がほんらい持っていた心得ですから、誰にも納得できたのです。

今、一般の日本人が自然に持つ処世訓も、同じではないですか。日本人の貯金額は世界で驚かれますよね。下手すると1億円持っているような人たちが、たくさんいます。アメリカ人は、ああいう貯金はしません。これは福澤さんが言ったことが、間接的にでも日本人の心に残っている哲学ではないかと思います。小さく稼ぐということです。

福澤桃介さんという、福澤諭吉の次女・房の入り婿になった人も、世間では相場成金と揶揄するのですが、福澤イズムがかなり浸透していた1人なんです。ある時、交詢社の講演でいいことを言いました。交詢社のお歴々が雑談で、「○○君は慶應大学から大きな商社に行って、今や課長を飛び越えて部長だよね。悔しいな、あんなばかだったやつがたくさん給料をもらって」みたいな話をしていたのです。それを聞いて、交詢社の皆に「おまえら何でそんなに小さなことを言っているんだ。大金を儲けたければ慶應に来てはいけない。俺は慶應で学ばなければ、もっと大金持ちになっていたはずなんだからな」と言ったそうです。

僕はこの発言を知り、慶應はやっぱり自主独立で自由な気質が伝承されていると感じました。僕は『福澤夢中伝』を書いた時、これを慶應の諸先輩が読んだら、金がない話ばかり書いてけしからん奴だと声を上げ、卒業取り消しになるのではないかと心配していたのですが、福澤桃介は、僕よりもっとひどいことを言っているので安心したのです(笑)。

ご存じの通り、桃介は株で大成功した人です。相場で大金を集めるというのは、福澤諭吉が一番嫌った蓄財法だったのです。自分で働いて、体を動かして、その対価として正当なお金を得ることが、自活の本当の姿なので、寝ていて稼ぐというのはとんでもない。しかも、入り婿がそんなことをやったので怒ったわけです。でも、その福澤桃介も、相場師を本意とはせず、すぐに発電や鉄道などの起業や投資という事業に転じて汗をかきます。彼はお義父さんからひどい目にも遭っていたのですが、家族のことを彼なりに大事にしている。後年に川上貞奴をパートナーにしても、妻の房さんと離婚しなかった。

文芸は人生の幸福を増す

福澤さんは最晩年に『修身要領』という教育訓の作成を提唱し、門下生に条文を編纂させましたが、その『修身要領』を読んでも、国家ですら家族の集合体として成立するべきだと明言させています。偶然ですが、この本を書くためにいろいろな資料を漁っていたときに、僕が古本屋さんでみつけたのが、この『修身要領』の掛け軸です。ほんとに、大金出しても手に入れたくなった。なぜならば、『修身要領』は29条から成っていますが、21条の内容に感動したからです。

「文芸の嗜みは、人の品性を高くし精神を娯(たのし)ましめ、之を大にすれば、社会の平和を助け人生の幸福を増すものなれば、亦是れ人間要務の一なりと知る可し」

お若いころは芝居小屋に出入りしたことがなく歌舞音曲にも関心がなかった福澤さんが、文芸が社会の平和と人生の幸福に資すると断言している。私は作家ですから、慶應を出ていてよかったと、心から思いましたよ(笑)。普通、諭吉ぐらいになると、君たちも文明の先頭に立って前進すべきだ、今で言えばAIをどんどんやれよ、くらいなことを条文に書きたいのではと思うのです。ところが、21条では文芸、芸術あるいは演芸、今で言えば娯楽の類いも平和と幸福に欠かせない重要な要素だと書いてある。しかも、この語を明治時代に使われたのには驚きですが、君たちは物質的豊かさでなく品性をアップさせ、心を広くさせることで幸福を得る、と書いた。この一言がいいですね、「人生の幸福を増す」と。

文芸を嗜むことが人生の幸せを導きますと言ったのは、明治時代ではすごいことだと思います。当然、政府からは嫌がられたでしょう。なぜなら、当時は日露戦争に向けて軍備を増強している最中でしたから、いかにして戦争に勝つかが目標で、国民一丸となって戦わなければいけない時代でした。そんな時に、君たち1人1人が心を豊かにし、幸せを増大させることはいいことだ。だから、芝居や芸術にも励みなさいと書いたら、間違いなく目をつけられるでしょうね。

官学のシステムに対抗する

じっさい、福澤さんは私学の古株として国から敵視された時期があります。福澤さんが一番困ったのは、東京大学ができて、大学は官吏というスペシャリストを養成するところだ、大学の目的は卒業証書を出すことと博士号を与えることだ、と位置付けられたことです。この機能を持つからこそ大学には意義があるという、現在につながる教育システムですよね。でも、福澤さんは博士でも何でもないし、当時の慶應で「あなたを博士に認めます」という証書を出したところで一般には通用しなかった。これを通用させたのは、まさに東大という官学が誕生した威力です。官学出には高級官僚という就職先が用意されたからです。大学は大変厳しい入学試験を始めるようになっていくわけです。

慶應義塾をはじめとする私塾も、それに対応しなければいけなくなり、海外から偉い先生を呼び、東大に対抗できる高等教育機関に脱皮せねばならなくなった。卒業証書を取るためだけの機関になってしまうなら、もう家族的な師弟関係で幼児の弟子なんかを入門させられません。大学で赤ん坊のオシメを干すようなことも無理です。でも、福澤さんは博士号を出すという教育の仕方をする人ではなかったから、慶應義塾という名前にもいまだに「塾」を残していると思うのです。塾という部分が本来は源であったと。

ですが、官立大学に対抗しようと海外から教授を呼び集めて大学を造ったはいいが、東大と違って官僚への就職口が閉ざされ、塾生も一気に減少します。例のモニも失われ、危機となります。慶應は福澤なしの新体制に移行せねばならなくなりました。

しかし、福澤諭吉は死ななかったし、福澤の家族主義も失われなかった。新体制へ移行する中で、家族主義は、例えば幼稚舎や、寄宿舎やら、学生自治やら、塾出身者の交詢社といった形で再結成されますから。

そこで福澤さんにも、最後で最大かもしれない仕事が残されました。『修身要領』を読んでみると、何でこんなものを書かせたのかということがよくわかります。あれが編纂されたのは明治30年代ですが、この頃、幼児教育までもががっちりと役所システムの中に入ってしまったのです。

さっきお話ししたのは高等教育の問題でした。学位を与えるということがそのまま職業に通じるシステムが出来上がったからです。私学が一番困ったのは、そういう証明書を出すことができなかった。

それまでは慶應が日本でもっとも機能する西洋文明の教育機関でした。福澤さんは自分が知っている企業に門下生を推薦して、入れてもらうか、あるいは役所でも優秀な新人は慶應の学生を集めるほかなく、各地の学校でも慶應の学生が教師に雇われていたのです。ところが官学が生まれて以来、そういう古いものを閉ざすような新しいシステムが出てきた。それは、簡単に言うと塾的な私学をつぶそう、慶應をつぶしてやれということだった。そして今度は、初等教育の国家による囲い込みです。

『修身要領』と『教育勅語』

僕はやっとわかったのですが、福澤の一番すごいところは、その初等教育の国家指導に対しても、孤軍奮闘した事実だったのです。つまり、教育勅語に反対したということです。教育勅語が憎い敵だったのです。その意味は2つあります。今お話ししたように、初等教育についても制度的に私学がやりにくくなってしまったこと。次に、そのやり方が、悔しいけれど、福澤の教育論をじつに上手く利用していたことです。

『修身要領』は箇条書きになっていますが、何で箇条書きにしたかというと『教育勅語』に対抗したのですね。福澤さんは『学問のすゝめ』で、教育と学問をどう結び付けるかという新しいテーゼを明治5年に出した。あれを皆読んだのです。おそらく皇室も読んだのではないかと思うのですけれど、大ベストセラーになったために、新しい教育を入れ、儒教的な古い考え方を捨てましょう、という考え方が広まるインパクトになったのです。

しかし、明治20年代になると、世の中が西洋化していますので、儒教の教育方針が悪いと言っても、もはや国民には響かない。福澤さんは、『学問のすゝめ』のような成人向けの本を書いたのでは駄目だと気付きました。だから「要領」、つまり子どもにもわかる標語の形にしようとした。よく壁に貼ってある「今日も一日元気に」というような感じで覚えさせればいいのではないかと。それで作ったのが『修身要領』で、29条立てになっている。

一番驚くのは、博愛主義の先取りです。他のどんな国の人々が、どんな宗教や文化を持っているにしても、上下の差はないのだから皆仲良く受け入れましょうという、今で言えば共存の話を書いていることです。一方で、国の独立自尊を守るために敵国と戦うのは義務だとも書いてあります。現代人でも、ウンといえる内容ですよね。

一方の教育勅語ですが、この原本は、大震災の時に半分焼けて、修復された形で現存します。教育勅語はいかにも長そうに見えますが違います。「朕惟フニ 我カ皇祖皇宗……」という序文を当時の子どもたちが全部覚えさせられたのですが、これは原稿用紙で1枚にもなりませんから覚えられます。そしてその内容はというと、なんと、9割は『修身要領』と同じことが書いてあるのです。

明治天皇がお父さんお母さんを大切にしなさいと言う。それで、一家の一番重要な心得は、国のために奉仕することだとなる。でも、あとの9割ぐらいは、福澤さんと同じことが書いてあって、しかも短い。これが明治天皇の言葉であるとされ、これを覚えさせることが学問の始まりだとされました。

『学問のすゝめ』は初編を小幡篤次郎さんと書き、小冊子の形で続々と17編まで出たわけですから、全部読むには今でも長いなと思うぐらいです。そうではなく短くて、今で言えばキャッチワードを使ったことを教育勅語が先にやるのです。今読めば、多くの人が言うように、教育勅語は古くさくも国粋的でもない。福澤さんが書いたと言っても通用するぐらいなので、それを見て福澤さんはやられたと思ったのです。皆の頭に自然に入ってしまうと。

「孝」「忠」への抵抗

でも、ここで一番いけないことを福澤さんは発見しました。すでにお話ししたように、ここには恐ろしい言葉が2つ入っていて、それが嫌だった。それは親には孝行、国には忠誠を尽くすという、「孝」と「忠」です。これが儒教の一番の源で、この教育の基本は絶対に変わらない、永遠不変の殺し文句でした。『教育勅語』にはこの言葉が隠されていて、これに気が付かれないように読ませる非常に素晴らしい文です。井上毅と元田永孚という人が作ったんですけど、たぶん福澤の本なんかを見て、子どもにも読んでもらえるような文章のノウハウを学んだのでしょう。だから、軍人勅諭みたいに硬い言葉ではない。当時としてはすごく軟らかくて、しかも非常に短い。小学生でも記憶できるようなものをつくり上げた。

これを見て、学問や教育の世界の日本で将来の展望が、福澤の思う塾の理念からかけ離れていくことに気が付き、29カ条の『修身要領』をつくると決めたのが、福澤の最後の仕事になったと思うのです。ご本人は、これをやろうとして1回目の脳溢血で倒れ、信用のおける弟子たちに編纂させ、そこにキーワードとして「独立自尊」を掲げた。この言葉が出てくるのはこの『修身要領』がほぼ初めてでしょう。

だから、僕たちがよく知る独立自尊の言葉は、ひょっとすると福澤さんが意図しなかったものかもしれませんが、いい言葉を選びましたよ。独立が全てだと。ご飯を食べることから始めて、自分でやれと。そして、細かい家庭の中のことなどもきちんとやっていくことが重要で、その上に国というものが自然に成り立っていく。まずは家庭なのだと。この言葉が一番重要な問題だったと思います。だから、いろいろな人々の心に響いたのではないかと思うのです。

勝海舟の自負

お話ししたかったことがもう1つあります。1つの因縁が咸臨丸から始まっていたのではないかと僕は思います。福澤さんは江戸に出て来て、すぐに無理やり咸臨丸に乗ってアメリカへ行かせてもらいました。そこに、これも運命だと思いますが、勝海舟という最後まで仲がいいんだか、悪いんだかわからなかった重要な人が一緒に乗っていたわけですね。この2人が同じ船に乗ったということも、たぶん日本にとっては大変重要なことだったのではないかと思っています。

勝海舟はわかりやすいのです。彼は背中に幕府、ないしは日本を背負っていました。俺がやらずに、他の者はとてもできないという自負もあったでしょう。彼の認識では日本は相当危なかったのです。だからちゃんと世界に認められる国としての実力を持たないといけないと思っていた。頭の中は政治家で、日本をどうするかに一生懸命。自分や一般の人々のことはさておいても、日本の国の独立を外交的に維持することが重要だった。だから、まず海軍をつくった。その海軍が、力があることを示すために、外交使節を送り出す時に咸臨丸で無理やり、あとについて行ったわけですね。

咸臨丸ではほとんど何も仕事はしていないのですが、日本も海軍がちゃんとあるんだぞ、という意地ですよ。そして船の中では、誰が船長かでもめるわけです。アメリカの有名な海軍の士官が乗って、その人がほとんど指揮をとってしまって勝海舟は船に弱かったので、少なくとも行きは何の役にも立たなかった。

でも、1つだけ、彼は行きの航海でやったことがあります。それは、途中、荒れ狂う太平洋の真ん中にボートを出して、小笠原の父島に上陸しようとしたことです。なぜそんなことをしたのか。この話は普通はあまり重要とされていないのです。

しかし、裏を探ると大変重要な事情が見つかります。あの時小笠原には日本人は誰もいませんでしたが、各国からの移民団が植民地まがいの自治領を経営していたのです。アメリカは特に、これをアメリカの領土として認めてくれという陳情をペリーがしていました。それが日本の幕府にも伝わり、あそこを取られると大変なことになると気付きました。太平洋の要衝ですから、小笠原が他国になってしまったら困ると、急いで日本人の植民を開始しなければいけなくなりました。

だから、おまえは海軍の奉行なのだから、ミッションとして小笠原に上陸して、日本人が昔からいたという証拠を残してこいと、おそらく言われたのでしょう。だから、嵐の真っ最中に、船を降ろして自分で行こうとしたけど、「あんたは死ぬつもりか」と止められたんですね。

これは日本国に海軍があることを世界に示すためにも、何とか上陸を果たしたかった真意でしょう。プライベートな目的ではなく、ナショナルな目的として、彼はおそらくたくさんのものを背負ってアメリカへ行ったのです。

福澤の好奇心

これに対して、福澤諭吉はどうしてアメリカに行ったかというと、好奇心を満たすためです。オランダ語をやったけど、横浜へ行ったら何の役にも立たず、英語をやらなければいけないと思った。そんな時に日本が初めてアメリカへ使節団を出す。普通だったらその当時、一介の中津藩士ですから同乗するのは無理です。英会話はたぶん全くできなかったと思う。でも、これは行かなければと思った。突き動かしたのは好奇心です。

勝海舟は刀を持っていった。いざとなったらアメリカで相手を切り倒して、自分も死ぬつもりでした。武士だから、本当に使うつもりでした。アメリカに行った時の勝海舟の写真は、膝に大刀を握っています。あれは大変重要なサポーターから「何かあったら、これはうちの家宝だから使え」ともらった、大切な刀だったんです。

一方、福澤さんはあちらでどんな写真を撮ったか。これは有名ですが、写真屋の娘さんと一緒に仲良く写真に写っています。帰りの船の中で皆にそれを見せて、「おまえはこんなことをやっていたのか」という話を自慢げに『福翁自伝』に書いていますね。これを見てもわかる通り、簡単に言うと自分のために行っているのです。自分がいろいろなことを身に付けたいということです。

ところが、行って驚いた。国家的な文明の進展については本で読んでいましたから、福澤さんは向こうへ行って機関車を見ても全然驚かなかった。でも、本に出ていないことがたくさんあった。それがアメリカの家庭生活であり、男と女の接し方でした。

一番驚いたのは、よく引用されますが、ワシントンの子孫の話です。もちろん福澤さんはワシントンが有名な大統領だと本で読んで知っていました。こんなに有名な大統領なのだから、子孫も大変重要な地位に就いていて、国民から仰がれているだろうと思ったのです。ところが、「ワシントンの子孫の方は今どこにいらっしゃいますか」と聞いたら、アメリカ人に「ワシントンの息子? そんなものは知らない」と言われたのです。偉い人の系譜なんかを気にしている人たちはいない。自分たちの生活が良くなり、周りの人々と厚情を結んで、サロンのような社交場所でも自身が堂々と、楽しく暮らすことが1つの大きな目的であって、肩書や爵位で暮らしているわけではないとわかった。

さらに驚いたのは、家に入ったら、昼間は会社で威張っていた人が、奥さんの命令で厨房に入って、大根とかを切っているわけです。この幅の広さは何だと驚いた。それで、何やら議会というものがある。議会は一般の人々の代表が政治に首を突っ込んで、税金の払い先の用途に文句をつける。これがちゃんと権利として存在するのです。

文明の気品に気づく

当時、日本では下のほうから貴族や大名にむけて「おまえたち、わしらが働いたものを召し上げて、無駄遣いをしているだろう」などと文句を言ったら、牢屋に入れられてしまいます。つまり、アメリカは自由なものだと。しかもただの自由なのではなくて、ジェントリーな自由だと。この気品こそが文明だと気付きました。これが身に付かない限りは、いくら工業を盛んにしていろいろな製品をたくさんつくっても、海外でばかにされる。

福澤は偉い殿様が海外の人たちと接することを危惧しました。ホテルに泊まっても、このホテルは自分の城だと思い込んで、トイレに行くにも日本式にお供の人を扉の前にずっと並べて、最初にいる人は刀をちゃんと持って、控えていた。通りかかる欧米の人たちはそれを眺めて、「ばかじゃないのか、あいつらは」と言った。だから、気品というものが日本人に備わらないと、全く意味がないことがわかった。

気品とは「上品」ということを言っているわけではないです。彼はこのように言い換えました。「私がここで言っている気品は、英語で言えばキャラクターなんだ」と。今でもキャラクターという言葉を使いますよね。でも、今のキャラクター、「個性」という意味ではなく、天に誓ってやましいことのない気風を持っていることがキャラクターだという意味です。

人格とよく言うではないですか。あの「格」とは何かというと、天に向かってやましいことはない暮らしをして、独立独歩で人に迷惑を掛けずに自分の力で生きていることです。そういう生活をしていることが、文明の生活だと。女の人をいじめたり、あるいは子どもたちに無理やりいろいろなことを押し付けたりするのではなく、気品を持つことが対等に付き合えるための1つの重要な要素だということに、彼は気が付くのです。だから、今の日本人がアメリカへ行ったら、きっとばかにされる。それでは、文明国として認められないとわかりました。

日本に帰ってきて、彼はいろいろなことをやります。最初は経済を動かそうとか、工業化を進めることに一生懸命になりました。でも、だんだんわかってきます。明治30年代になっても、彼が一番嫌いだった政治家たちが、鼻の下を伸ばして妾をたくさん置いたり、自分の奥さんをいじめたり、家に帰ると1人で威張り散らしている。あれは文明人ではないと。

もう1つ、もっと悪いのがお金の使い方です。袖の下を渡すとか、あるいは肩書や地位を表に出して、俺は何々会社の社長だということで人々を低頭させている、これもジェントリーではない。もう1ついけないのは、中国の例を引きますが、中国のように自由な学問や、自分のやりたいことができないような社会は、そのまま身分や職業が固定していて変化できない。いいにも悪いにも変化することが重要なのだと。もちろん修身や人間の生活の心得も変化せざるを得ないのです。

「独立自尊」の源

したがって、福澤さんは「風格ある個人」を教育することを、初等教育の任務と考えました。お願いだから、忠や孝だけを重んじるのはやめましょうね、ということです。例えば、親孝行というものは悪くはないです。子どもが親の恩を感じるのは、人間として当然です。でも、これが義務になってはいけない。親が子どもに押し付けてはいけません。2、3歳の子どもには、親は責任を持っていろいろなことを命じたり、教えたりするけれど、ある程度成長したら独立した人間として扱わなければいけない、と彼は言いました。

そういう道徳の新たな指標をつくるために、29カ条の『修身要領』をつくった。そして門下生がそれを地方の学校や村議会などに講演をして回ったのです。もう、相手は大学生じゃありませんから、三田を出て地方の諸学校にまで出向くしかない。一方の教育勅語は国が発していますから、どの小学校でも教室に貼ってある。でも、こちらは私学ですから、そんなことはやってくれません。鎌田栄吉や門野幾之進といった教授たちが、手弁当で、100回以上、地方を遊説したというのだから、すごいものです。各学校に行って講演をし、1つずつ皆に伝えていった。その結果が「独立自尊」という言葉、福澤さんが発した殺し文句がわれわれの頭の中に入った、1つの大きな源ではないでしょうか。

この家族的なもの、この福澤さんが伝えた考えの意味は非常に貴重なものだと思います。『修身要領』という福澤さんの最後の大仕事は、慶應を飛び出し、世界中のどんな人々を相手にしても堂々としていられる人格の育成でした。このためなら、三田を売り払ってもかまわないとまで言った。これは大変重要な、それこそ慶應的なキャラクターではないのか。これが、教育における気品ではないかと考えるようになりました。今日はその実感というか、福澤が伝えようとしたことが、まだ生きているということがこの会でわかったので、よかったなと思いました。慶應義塾はやっぱり塾なのです。

ずいぶん勝手な話をしたと、自分ながら反省しています。しかし伊藤塾長に聞いたところ、こういう無礼なことを言っても、我が慶應で卒業証書を剝奪された例は、いまだかつて1回もないそうなのです。だから安心してお話しできました(笑)。有り難うございました。

 

(本稿は、2024年1月10日に三田キャンパス西校舎ホールで行われた第189回福澤先生誕生記念会での記念講演をもとに構成したものです。)

 

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。