【話題の人】 永井紗耶子:歴史小説で第169回直木賞を受賞 | ねぇ、マロン!

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【話題の人】永井紗耶子:歴史小説で第169回直木賞を受賞

三田評論ONLINEより

  • 永井 紗耶子(ながい さやこ)

    作家

    塾員(2000 文)。新聞記者等を経て2010 年に『絡繰り心中』でデビュー。『木挽町のあだ討ち』で第169回直木賞、第36回山本周五郎賞を受賞。

  • インタビュアー森重 達裕(もりしげ たつひろ)

    読売新聞文化部記者・塾員

ライターと作家の二足の草鞋で

──直木三十五賞と山本周五郎賞のダブル受賞、おめでとうございます。芝居小屋を舞台とした受賞作『木挽町(こびきちょう)のあだ討ち』(2023)は、普段演劇の記事を担当している私も大好きな作品です。まずは一昨年に直木賞候補となった『女人入眼(にょにんじゅげん)』(2022)の頃からの変化についてお聞かせください。

永井 ありがとうございます。2020年にデビュー10年目にふさわしい作品をつくりたいと思い、19年頃から根を詰めて書いていました。それが『商う狼──江戸商人 杉本茂十郎』(2020)です。

初校が出たのが20年2月頃のことで、6月には出版の見通しが立っていました。編集者にはコロナ禍が落ち着いてからにしますかと訊かれていましたが、先が見えない中、待っていても仕方ないと思い発表しました。『商う狼』を書き終え、少し時間ができるなと考えていたらコロナ禍となり、ひきこもり生活に入りました。

──永井さんは慶應を卒業後、新聞社を経て、フリーライターとして執筆活動をされていました。『商う狼』の頃は作家との二足の草鞋だったのでしょうか。

永井 そうですね。2019年はライターの仕事が残っていましたが、『商う狼』を連載しながら、少しずつ執筆媒体を減らしていきました。

──これから小説に本腰を入れようというところでコロナ禍になった。

永井 周りからは「(フリーライターを)まだやっていたのですね」とも言われていました。文芸書の編集者からもちゃんとやってほしいと言われ、作家として気持ちが固まっていきました。

──作家としてデビューしてもすぐに仕事は辞めないようにと編集者に言われるそうですね。

永井 『絡繰(からくり)心中』(2010)でデビューした時にそう言われました。その後も少しずつ小説のほうに舵を切るのがいいのかなと迷いつつ、逆にライターを続けながら小説を書き続けるのもいいかもとも思ったり。どちらも楽しくやっていました。

──片方の仕事がもう片方のヒントになる、といった感じでしょうか。

永井 そうです。作家に切り替えたいという強い気持ちがあったわけではなく、とはいえ、ライターの仕事は複数で動くことも多く、私の都合だけでは何ともならないこともありました。ムックなどの制作に関わると小説が後回しになり、それは困ると編集者に言われたりもしました。

大好きな芝居の世界を描く

──コロナ禍で逆に小説を書ける時間が増えたのではないでしょうか。

永井 そうですね。取材に出る機会が少なくなり、小説に集中できるようになりました。鎌倉時代のことを書き下ろしたいと考えていた2020年に、ちょうど大河ドラマで「鎌倉殿の十三人」の制作が決まりました。それまでも鎌倉時代の物語は出版各社に提案していたのですが、なかなか書かせてもらえませんでした。大河ドラマと重なるタイミングで出版社に持ち込んだところ出してもらえることになったのが『女人入眼』です。

──構想を温めていたのですね。

永井 『絡繰り心中』でデビューできなければこの作品を応募しようと思っていました。資料は集めていたので、大河ドラマに乗っかるつもりで本格的に書き始めました。

読者の方が北条政子役の小池栄子さんと重ねて読んでも問題なかったのではと思います。私は大河ドラマと一緒に楽しんでもらおうという気持ちで書いたので、直木賞候補になった時は驚きました。

──『女人入眼』は選考委員の宮部みゆきさんも推していました。

永井 本当に嬉しかったです。結果は次点でしたが、候補に入っていきなり受賞するのもこわいと思っていました。『女人入眼』では女性史を扱い、「女性の歴史を書く人」として定着してしまうと少し窮屈かもしれない……と感じていたので、結果的に2度目の候補での受賞はベストだったと思います。

とはいえ、『木挽町のあだ討ち』は、文学賞を取ろうと思って書いたわけではありませんでした。『商う狼』では10年の節目になる賞が欲しいなと思っていましたが、『木挽町のあだ討ち』は本当にただただ楽しく書いた作品でした。

──たしかに楽しく書いた感じが伝わってくる作品ですね。

永井 私は演劇や落語が好きなので、芝居小屋を舞台にしたこの作品を楽しく読んでもらえたらいいなと思いながら書きました。あまり苦しむことなく書けた作品です。

歌舞伎と落語に触発されて

──私は歌舞伎の記事も担当していますが、『木挽町のあだ討ち』は歌舞伎を知らない人にもわかるように書かれているのが見事です。

永井 『日経エンタテインメント!』で歌舞伎入門の連載を担当した経験が生きているのかもしれません。市川染五郎(現・松本幸四郎)さんにお話を聞き、松羽目物(まつばめもの)とはこういうものとか、荒事はこういうものといったことを書かせてもらいました。

四国の金丸座まで取材に行き、「女殺油地獄」を観た後、舞台裏を見せてもらいました。そこで初めて奈落を間近にでき、スタッフの人たちが片づけをしている熱気をワクワクしながら見ることができました。

──作中でも奈落は重要な場面です。

永井 そうですね。舞台との距離感を掴む上でも奈落の機構を見られたのは本当に大きな経験でした。

──資料から想像する以上のリアリティが得られたのですね。『木挽町のあだ討ち』の登場人物は皆生き生きしていて、永井さんの人生経験が滲み込んでいるようです。

永井 私自身も芝居がとても好きで、劇場には頻繁に通っています。実は大学卒業後に入った産経新聞を半年ほどで辞めた時、まったく書けなかった時期がありました。文章を読むのもしんどいほどだったのですが、劇場と美術館に通うことはできました。

──歌舞伎以外の芝居もご覧になっていたのですか?

永井 芝居は学生時代から下北沢界隈の小劇場でよく観ていました。新聞社を辞めた時、芝居の裏方をやりたいと思い、野田秀樹さんが主宰するNODA・MAPのワークショップにも参加しました。おそらく何かきっかけがほしかったのでしょう。とりあえず応募したところ選考に通ってしまった。参加してみると、ガチの演劇畑の人たちが大勢いて、台本を読まされたりしました(笑)。

私は中村勘三郎さんと野田秀樹さんが好きで、NODA・MAPは中学生の時から前身の夢の遊眠社の興行を観ていましたし、解散公演にも行きました。そうしたら、私が新聞社を辞めた頃、野田さんと勘三郎さんが歌舞伎狂言の演目「研辰(とぎたつ)の討たれ」をやったのです。

──「野田版 研辰の討たれ」も仇討ちの話ですね。

永井 これが私にとってディープインパクトでした。迷彩の袴を着た勘三郎さんが出てきて何かすごいことを始めたぞと感じた。あの作品で、野田さんが仇討ちとは何ぞやと問いかけていると感じたことが、仇討ちについて考えるきっかけになりました。

──『木挽町のあだ討ち』はいわばインタビュー形式の作品ですね。こうした表現にもライターとしての永井さんが溶け込んでいるように思えます。

永井 以前、先輩ライターの方に「インタビューはドアを開けて入ってきた瞬間から始まっている」と言われました。相手が入ってきた時の空気感みたいなものまで原稿に落とし込むようにと。『木挽町のあだ討ち』ではこうした雰囲気を登場人物の口調からも感じ取れるようにしたいと思いました。

──聞き手が“ここ”にいるのを感じさせつつ話が進んでいくのはすごいです。

永井 ロールプレイングゲームのように、読者が聞き手になって物語が進む面白さも演出したいと考えていました。

──以前、永井さんが出たラジオ番組で「頭の中で登場人物が1人でにしゃべり始めることもある」とおっしゃっていました。

永井 憑依芸ではありませんが、登場人物が脳内に住んでいるような(笑)。もともと考えている時間が長いので、書いているとそういう瞬間が訪れます。こうした時はそのままいけるのですが、逆に腹落ちしていない時はすごく練っている。キャラが勝手にしゃべり出すところまで詰まっていないと、上手くいかないようです。

──『木挽町のあだ討ち』の面白さは何と言ってもあの滑らかな語り口です。執筆中は落語を聞いていたそうですね。

永井 私が落語の独演会に行くきっかけになったのは、学生時代に飛行機の中で聴いた落語チャンネルでした。以前、ライター時代にお世話になった方に誘っていただき、後に人間国宝となる五街道雲助さんが1年半にわたって続けておられた独演会「らくご街道雲助五拾三次」に毎月通い、楽屋までお邪魔しました。ファンクラブにも入り、出版記念サイン会にも行くガチファンです(笑)。

誰にも言わずに書いていた

──中学・高校はミッション系の学校だったそうですね。当時から将来は物を書く仕事を志していたのでしょうか。

永井 書くことが好きだったので、そうなりたいと思っていました。聖書を二次創作したり、七三分けの徴税人マタイが登場する4コマ漫画を描いたりして遊んでいました(笑)。

小説を書き始めたのも中学生時代に童話を書いて賞をもらったり、小説で学生コンクールの賞をもらったりしていたことが大きかったと思います。実は大学時代もたくさん応募しました。

──永井さんと私は同時期にメディアコム(メディア・コミュニケーション研究所)で学んだ間柄ですが、それは知りませんでした。

永井 誰にも言わず、こそこそと時代小説を書いていました(笑)。

──慶應の文学部では何を専攻していたのでしょうか。

永井 専攻は人間科学でした。歴史小説を書いているので国文学専攻と思われるのですが、時代小説で新人賞を取る作家が少ない印象があり、現代小説も書けるようにと「人科」を選びました。就職先を考え始めた時に、マスコミに勤める作家が多いと知り、メディアコムにも入ったわけです。

──人間科学専攻ではどなたのゼミに所属していたのでしょうか。

永井 小林ポオル先生のゼミでした。ソシュールやボードリヤールといった言語学や哲学のテキストを読んでいました。

──私も永井さんもメディアコムでは大石裕先生のゼミに所属していました。大石ゼミに入ったのはなぜでしょう?

永井 何より面白そうだったからですが、新聞を読み込むことにとても手ごたえがありました。大石ゼミではとにかく新聞とにらめっこし、そこから1つのテーマをどのように扱うか、ひたすらディスカッションします。文学部にいて政治学の素養も身に付くのがとても面白かった。

大石先生も普段飲み会とかではフワッとしているのに、「いや、だからさ」と言い出してキレキレのコメントを飛ばす。急に目を覚まさせられる感じがほんとうにすごい。

4年生の時は、文学部の卒論とメディアコムの卒論に加え、新人賞の応募作品も書いていました。それはある歴史小説の賞でいいところまで進んだのですが、デビューには至りませんでした。

古典を学ぶために佛教大学へ

──慶應を卒業されてから、佛教大学の大学院に入学されましたが、そこで何を学ばれたのでしょうか。

永井 佛教大学を選んだのは、歴史ものを書けるようになりたかったからです。聖書に関しては読んだという自信があるのですが、仏教は古典を理解しなければいけないと思っていました。ですが、本を読むにも限界がある。私はなぜキリスト教を理解できたのかと考えた時、実際に“中の人”に聞いたからだと思い至り、2年制の通信教育課程に入りました。

──中高生の頃にシスターと直に接していたことが大きかったのですね。

永井 そうです。それなら仏教も中の人に聞こうと。

──歴史小説を書く上で仏教の知識が基礎にあれば、派生できる部分も多いでしょうね。

永井 お寺や仏像、庭、お茶、山水画などへの理解も深まります。私が説話文学といった民間的な信仰も含めて仏教の根源的なところを理解したいと先生に相談したところ、それなら起源に戻るのが良い、奈良時代の『日本霊異記』を研究しては? と言われました。

──最澄、空海よりも前の時代でしょうか。

永井 そう、法相宗と呼ばれる7世紀頃の宗派です。唯識説の世界ですね。最初は『今昔物語』を読もうと思ったのですが、先生によると『今昔』は『日本霊異記』の影響を受けている。だから、『日本霊異記』をやったほうがいいと。天狗信仰も面白いから天狗の研究はどう? とも言われました。小説の種がゴロゴロ転がっている感じでした。

海外で翻訳される作品を目指す

──永井さんがこれまでに影響を受けた作家を教えてください。

永井 最も影響を受けたのは永井路子さん。それから田辺聖子さん、山岡荘八さん、司馬遼太郎さんでしょうか。

──永井さんが勤めた産経新聞にはかつて司馬遼太郎さんも記者でいました。

永井 そうですね。その背中を追ってというほどではありませんが(笑)、就活の時に時代小説家の経歴を調べたりしました。永井路子さんが小学館にいたこともあり、私は新聞社か出版社に就職するのが正解だろうと思っていたのでしょう。

大学時代は宮部みゆきさんや東野圭吾さん、小野不由美さん、京極夏彦さんが出てきた頃で、私もミステリーやホラーを書いていました。

──史実の調査など、時代小説を書く上で気を配っていることはありますか。

永井 もちろん調べますが、やりすぎると身動きがとれなくなることもあります。調べるだけ調べて、これ以上は出てこないというところまで行けたら想像で書くという感じです。

よくたとえるのはゴジラです。あれがもっともらしく映るのはゴジラ以外がリアルだから。突飛なことを設定するなら、他の部分は細かくつくったほうがいい。そう思って史実ではない要素を入れる時には、他の部分を丁寧に書くようにしています。

調べものもコロナ禍の間に国会図書館のデータベース化が進み、とても便利になりました。enpaku(早稲田大学演劇博物館)も利用していますし、物語の舞台にはなるべく足を運びたいと思っています。そうもいかない時はグーグルマップを歩く(笑)。

産経新聞での連載「きらん風月」で静岡を舞台にした時は、掛川や日坂、小夜(さよ)の中山に出かけました。歩ける距離は歩き、そうでなければグーグルマップで歩いた実感を得ます。

──これからチャレンジしてみたいことは何でしょうか。

永井 海外で翻訳される作品を目指したいと思っています。私たちが『三国志』やシャーロック・ホームズを読むように、日本の歴史を扱ったエンタメも海外で通用すると信じています。そのために、そうした作品を書くための普遍性とは何かと考えているところですね。

例えば、ネットフリックス的なコンテンツで月代(さかやき)は受けるのかといったことや、どうしたら海外の人にも格好よく見えるか、あるいは江戸以外の時代を扱うか、といったことも考えています。

──そうした展開に向けて、『木挽町のあだ討ち』をぜひ時代劇にしてほしいです。今日はお忙しい中、ありがとうございました。

 

(2023年11月22日、三田キャンパスにて収録)


※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。