【話題の人】 寺田親弘:起業家育成を目指す「神山まるごと高専」 | ねぇ、マロン!

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【話題の人】寺田親弘:起業家育成を目指す「神山まるごと高専」

三田評論ONLINEより

  • 寺田 親弘(てらだ ちかひろ)

    Sansan株式会社代表取締役社長/CEO/CPO、神山まるごと高等専門学校理事長
    塾員(1999環)。Sansan株式会社代表取締役社長。三井物産を経て2007年Sansanを創業。本年4月「神山まるごと高専」を開校。

  • インタビュアー北村 友人(きたむら ゆうと)

    東京大学大学院教育学研究科教授・塾員

高専をつくるという選択

──本年4月に徳島県神山町に開校された「神山まるごと高専」が話題です。なぜそもそも高専(高等専門学校)をつくろうと思われたのですか。

寺田 僕はこれまでも、これからもビジネスが主戦場だと思っています。ただ、7、8年以上前から学校をやりたい思いがありました。

ビジネスでは届かない社会課題があるのは自明のことで、むしろビジネスで解決できることはとても小さいとわかっていました。そういう部分にお金ができたから寄付をするとかではなく、自分らしく何かできることはないかなと思った時、「やはり学校設立だろう」と思ったんですね。

では一番自分らしく学校をつくるには、どのような学校をどういうアングルでつくれば意味のあるものができるか。そういう中でいくつかのキーワードを合わせていったら、それが高専になったような感じです。

僕は中等部から塾高に進み、高専というもの自体は全然知りませんでした。会社(Sansan)をつくったら、高専卒の人が入ってきて、そんな仕組みもあるのかと思ったほどです。

学校設立を考えた時、高校はとかく大学の予備校のようになってしまったり、大学はその反動と就職準備の場になってしまっているところもある。その期間を若い人に上手く使えないだろうか、と思いました。

──その期間に起業家を育成したいということですね。

寺田 そうですね。僕は自分が起業家として得た経験、スキル、能力は学校教育の内側で得たものが少なかったという感覚があったんですね。起業家を育成するにあたって、もっと学校教育の内側でできることがあるのではないか、と思っていたんです。

また、これはインスピレーションですが、その時に縁があった神山町という、「奇跡の田舎」とも呼ばれるような東京の真逆の限界集落の場所で、起業家になるためのテクノロジー、デザインを学べる高専というキーワードを持つ学校があったら成立するんじゃないか、と思ったわけです。

僕は三井物産時代にアメリカのシリコンバレーを訪れた時、ここは砂漠に突然スタンフォードができてできあがった場所なんじゃないかという印象があったんです。だから、神山町にも小さくてもハブになるような教育機関が生まれたら、何十年後かにシリコンバレーのような場所にならないかなと。

開校までの苦闘

──学校設立までにはいろいろな曲折があったと思います。

寺田 そのような漠然とした考えで始めたのですが、当初はもうちょっとビックドナーみたいなイメージだったんですよ。構想をつくって、「よしよし頑張れ、いいじゃん」とかやっているイメージだったのですが、構想をぶち上げたものの全然進まない(笑)。

校長は決まっても理事長がいない。当時、ISAK(インターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢)の小林りんさんに紹介された、起業家の山川咲さんを理事長にと思ってアプローチをしたら、彼女がすごく真剣に向き合った結果、「このプロジェクトは寺田さんが理事長をやるか、白紙に戻したほうがいい」と言われたんです。

その言葉は強烈に響きました。「白紙に戻せば」とまで言うのはすごい。それで、人生おかしくなっちゃうかもしれないけど、自分がやるしかないなと思い直しました。そこからの2年半は本当に大変でした。発表当時、社内外に言っていたのは、ダブルフルコミットメントだと。目茶苦茶な言葉ですが、2倍働いて、会社と学校100%やると言っていました(笑)。

──そうまでさせるのは学校の魅力と神山の魅力、どちらが大きいですか。

寺田 正直言うと、責任感だけで動いていた時期が結構長くあり、つらかったです。どんどん教員が決まり、移住するという人生の選択をしてくれる。寄付してくれる人も増えてくる。開校資金が27億円集まった。これで学校ができなかったらどうするんだ、と日に日に責任は大きくなりました。日々ワクワクしながらやっていたかと言われると、もっと必死でした。最近でこそ、やって良かったなと思いますけど。

──神山に最初に行かれたのは2010年頃ですよね。大南信也さんと出会い、サテライトオフィスをおつくりになったり。

寺田 その頃は楽しんでいました。いいな、この場所、神の山とか最高じゃんと(笑)。大南さんと初めて会った時、彼は「創造的過疎」という言葉を使っていた。神山の建設会社を祖父の代から経営されているんですが、彼自身はスタンフォードダブルマスターなんです。とてもインテリなコンセプトを持ち出してくる土建屋のおじさんだな、ととても興味が湧きました(笑)。そこから、町が変わっていくのを直接見てきて面白いなと思っていました。

社会に直結する5年間

──最近だと塾員の本城慎之介さんの「軽井沢風越学園」など、経営者の方がつくる学校がいくつかありますね。

寺田 中学校や小学校も考えたこともあったのですが、私自身何か「芯食う」感じがしなかったんです。神山でやったから注目していただいた気もします。渋谷高専だったらそこまでじゃないんじゃないか。

社会に直結する5年間の設計ができる期間というのがよかったですね。高校をつくったら、大学への接続を意識せざるを得ない。高専の場合はいったんそこで完結しているんですよね。

高専生は就職は本当に引く手数多だし、そうであれば起業するということをメインストリームに置いたらそれでいいのではと。高専というと良き技術者養成みたいな、狭い感じがするけれど、実は一番汎用性のある、選択肢の広がる学校なのではないかと思ったのです。テクノロジーとデザインなんて、言ってみれば、現代の読み書きそろばんみたいなものですし。

──なるほど。今、国際的にも高専はすごく注目されていて、特にアジアの国々が、さらに発展するのに必要だと高専教育を行っています。

寺田 当時、一番よく話していたのが大南さんですが、神山から見た時も高専は新しかったわけです。小、中学校をつくっても、そもそも生徒が減っている中で取り合うことになる。高校をつくっても大学進学に自然と目が向く。なので社会に直結する高専は確かにいいなと意見が一致しましたね。高専は再発見して、再活用していくべきフォーマットだという気はします。

自分がやるのだったら自分にしかできないことをやりたいと思いました。グローバルリーダー育成みたいなものはいろいろなところが標榜している。当初は、グローバルリーダーではなく野武士を育てるんだ、と言っていましたね。

学生の成長を実感

──実際に学校が始まって、学生さんたちにお会いになられ、様子はどんな感じですか。

寺田 初めてのこと過ぎて、上手くいっているのかすらわからないです(笑)。15、6歳の年齢の、北は北海道、さらにロンドンから、南は沖縄まで。また学費を無償化しているので家庭環境も様々。高校進学時点でこの「神山高専」に決めた子は、すごくエッジが立っているんですよ。そういう子たちが全寮制で生活しているので、日々本当にいろいろあります。

ちょうど今週、学費無償化をサポートしている会社の人たちに来てもらって、学生が4人ずつプレゼンする機会があったんです。去年のサマースクールで中学3年の彼らのプレゼンも見たのですが、そこから比べて、とても上手くなっていた。すごいな、着実に皆成長しているなと思いました。

一方、僕が学校の理事長として高専に向き合うと、株式会社って本当によくできているんだなと思います。

──株式会社と学校の違いはどこに一番強く感じられましたか。

寺田 会社は成長していくことを所与としていると思うんです。だから、売上、利益、規模などがあって、そういうものによって滞らないものがあり、それぞれが自分の貢献と紐付けやすく、相互に評価しやすい。そして、成長せずに利益がなかったら死んでいく。

一方、学校組織そのものには成長は関係ない。売上、利益の概念はない。しかもそこに集うメンバーは先生、学生がいて、学生の保護者がいる。会社はいくら従業員が主役だと言っても、実際は自分たちの組織に力点があるわけじゃないですか。でも、学校は本当に学生が主役。その中で、「理事長って何をするべきなんだろう」と日々思っています。

起業家講師との交流

──起業家を育てていくわけですが、何か卒業生に対するサポートなどはイメージされていますか。

寺田 卒業生に投資するファンドを学校としてつくっても、利益を生みそうだと思っています。そういうファンドでできたお金はまた未来の学生の何かに充てるというサイクルをつくれたら、美しいなと思います。在校中、起業家講師という名前で毎週名だたる起業家の方に来ていただいていますが、その人たちとつながっていく機会もあると思うので、彼らは起業するのにかなり有利な立場だと思うのですね。

──すごい人たちが神山に教えにいらしていますね。

寺田 そうですね。昨日も星野リゾートの星野佳路さんが1泊2日で授業して、学生たちとたき火を囲んでずっと話しているんですよ。そんなことを毎週やっているので、相当ぜいたくなことですね。

起業家講師は起業というものを広い意味で捉えているので、アーティストもいれば官僚の方もいます。学生たちがそういう人たちとしゃべって、「すごいけど普通の人だな」という感じになっていく。最初は勘違いでも、大きなことを考えて失敗したりしながら、何かが生まれてくる期待はあります。

──学生さんたちと対峙する先生はどのように選ばれたのでしょうか。

寺田 先生集めはお金集めと同じぐらい大変でした。山の中に引っ越してくださいという話ですからね。しかも、うちのシラバスを教えられる先生を揃えるのは無理じゃないかと。

でも、半年間で先生たちもすごく成長しているように見えます。神山高専には毎日どこかの企業の人がいて、僕らも教育界の人間ではないし、当然ぶつかることもあるのですが、社会に開いた、ある種普通ではない学校なので、皆、社会と接して、いい意味で変化していっているんだと思います。

──先生たちにとってはいわゆる普通の学校ではないので、常識が通じない面もあるでしょうね。今後、普通の学校で先生をしていた人たちの授業が増えていくと、普通の学校化していくリスクはあると思うのですが。

寺田 一定程度そのリスクは感じています。この学校は普通の学校ではない前提で、先生方とどう上手くつくっていくか。一方、僕は学校の素人だから、わかってないことも当然あるわけで、それは日々悩んでいて本当に手探りです。

──いろいろな方を巻き込んでつくってきた中で、あの校歌はどういう経緯で生まれたんですか。

寺田 学校だから校歌が欲しいと思い、山川咲さんに、「何かいいものを企画してほしい」と言ったら、100年続く応援ソングの観点だと作曲は坂本龍一さんしかいないと。病床に伏していらしたのですが、最後の仕事として選んでもらい、取り組んでいただけた。歌詞はご指名だったUAさんにアタックして「KAMIYAMA」が生まれたんです。

──すごく素敵な歌ですね。

寺田 有り難うございます。校歌っぽくはないです。いきなり英語が出ているし、学生は歌えるのかなと。でもすごくメッセージがこもっている。有り難いバトンをもらったなと思って、大切にしていきたいと思っています。

個人の体験を超えた教育

──私は塾高から慶應ですが、塾生時代はどういう学生でしたか。

寺田 塾高は本当にぎりぎり卒業させてもらいました(笑)。停学もしていますし、ひどいものでした。野心と野望だけはあるものの、目の前にあることに対して盛り上がれないという。

でもSFCに進んで、学生ベンチャーもどきのようなことをやって、ちょっと社会に対して開けたように思い、これがいいみたいな感じがありました。僕はSFCの6期生ですが、当時はインターネットのメッカ的な感じで、それを語ることによって、大人とも接することができるような気がしました。

大学受験がなかったこと自体は、すごく良かったんだろうなと思います。高専は大学受験がないので、そこはつながっているかもしれないですね。

──好きなことをやれる学校ではありますよね。特に塾高は校則がほとんどない学校ですから。

寺田 塾高時代は自由な感じはとても良かったかなとは思いますね。一方、野心・野望を持て余してしまった自分もいた。だから、そういった子たちに応える学校をつくっています。

「寺田少年、君は神山高専に行っていたら、もっとインパクトのあることを早く叶えていたかもしれない」と過去の自分にある種向き合いつつやっています。

教育って本当に誰でも語るじゃないですか。そして、皆、自分が良かった時代を再現しようとする。僕は慶應の学生時代は良かったですが、もっと他にできることがあったのではないかという思いが、高専をやり始めた時の視点として強くありました。

──今の言葉は教育学者としては刺さる言葉です。教育は誰もが語るのですが、それはあくまで個人の視点、個人の体験だけで語っている。でも実際の教育は全く違う能力が求められる。
  寺田さんが言われた感覚は慶應だからそれを感じられたところが、もしかしたらあるかもしれませんね。

寺田 それはあると思います。慶應は少し客観的な空気、言わば、各々が自立して自由に動いている雰囲気がある場所だったような気がする。でも、あれをそのまま再現すればいいとは思えないですね。

──20代、30代、40代とご自身はどう変化してきましたか。

寺田 20代はサラリーマンで、30代はがむしゃらにやって、40ぐらいからは会社が死ぬ、生きるみたいな闘いではなくなり、もうワントラックやらなきゃと、神山高専を仕掛けているんですね。それが今仕上がって、もうすぐ50みたいな感じです。

今回の学校設立は、もう1回ゼロから起業したような感じがあって、難易度が高く、成長したという実感はすごくあります。それがこれから50代になって何をもたらすかまではまだよくわからないですけれど。

今は両方やるだけですごく忙しいですが、ちょっと思っているのが、僕らがやっていることはビジネスアプリケーションなんですが、もうちょっとサイエンスレベルまで持ち上がる社会実装みたいなものもやってみたい。

慶應の同級生で青野真士君(政策・メディア研究科、理工学研究科特任教授)がつくったAmoeba Energyという会社を株主としてコミットしています。バイオコンピューティングみたいなことをやっているんですが、ああいうのは面白いと思いますね。

──高専でモノをつくる子たちを育てることは、ある意味、間接的にそういうことにかかわっているのかなという気もします。

寺田 そうですね。神山高専のミッションとしている「モノをつくる力で、コトを起こす」という言葉は、僕もソフトウェアというモノはつくっている実感はあるのですが、自分のバックグラウンドがそうではなかったから、それこそ慶應高校にいた寺田君に、そういうことをちゃんと勉強しろと言いたかったんです。

彼ら、彼女らがどう、社会に変革をもたらすかは楽しみですね。

──今日はどうも有り難うございました。

 

(2023年10月19日、Sansan 本社にて収録)


※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。