ジョージ・スタイナー:義塾を訪れた外国人 | ねぇ、マロン!

ねぇ、マロン!

おーい、天国にいる愛犬マロン!聞いてよ。
今日、こんなことがあったよ。
今も、うつ病と闘っているから見守ってね。
私がどんな人生を送ったか、伊知郎、紀理子、優理子が、いつか見てくれる良いな。

曽田歩美様に頼んでマロンの絵を描いていただきました。

ジョージ・スタイナー:義塾を訪れた外国人

 

 

三田評論ONLINEより

 

  • 髙宮 利行(たかみや としゆき)

    慶應義塾大学名誉教授

波乱含みの来日

1974年4月13日、成田開港前の羽田空港に、文芸評論家で文明評論家としても脂の乗ったスタイナー氏がサラ夫人と令嬢デボラさんを同伴して、慶應義塾のゲストとしてやってきた。1929年生まれだから45歳だった。だが、到着便のアナウンスがあったのに、本人たちがなかなか到着ロビーに出てこない。迎えに出た文学部の安東伸介教授と私が、時計ばかり気にしだした頃、「慶應大学の安東伸介さん、入国管理事務所までお越しください」とのアナウンスが響いた。

スタイナー教授は訪日にビザが必要なアメリカ国籍なのに、ロンドンからビザなしでやってきたのだった。BOAC(現在の英国航空)は搭乗口で旅券チェックをしなかったのだろうか。まもなく参加した三田でのセミナーで、「私のアイデンティティは、国や人、言語ではなく時の流れにある」と公言した、ユダヤ人らしい発想の持ち主だった。幼い頃パリに住んでいたオーストリア系ユダヤ人の一家は、ゲシュタポ(ナチス・ドイツの秘密国家警察)の迫害を受け、アウシュヴィッツの収容所に送られる寸前、両親はジョージをパリ行きの列車に窓から放り込んだ結果、彼だけが生き残ったのである。「アウシュヴィッツの死刑執行官は、自室で葉巻を咥えてモーツァルトのレコードを楽しんだ翌日、心の痛みももたずに、ガス室送りのスイッチを押す。そこにカルチャーはあるのか、文明とは何か」という強烈な問題意識を抱くスタイナーの来日は波乱含みで始まった。今考えると、ナチスによるユダヤ人虐殺からまだ30年しか経っていない頃だったのである。アウシュヴィッツ問題は彼の批評の根幹であった。

結局、久野洋塾長からの正式な招待状を携えていたスタイナーは、麻薬を持ち込んだロックグループなどから離れて、ロビーに姿を現した。48時間の臨時ビザが与えられたのである。もちろん後日正式なビザが下りたことはいうまでもない。スタイナー来日の第一声「まるでカフカの世界のようだった」は、今も私の耳に残っている。その英語には彼のアイデンティティと同じく、地域的な訛りはなかった。ドイツ語を母語とする両親から、パリで生まれ育ち、ニューヨークのフレンチ・リセに学び、シカゴ大学を1年で卒業、ハーヴァードで修士号、オクスフォードで博士号を取得した後、『エコノミスト』誌の編集員を経て、プリンストン大学研究員、同大学教授、インスブルック大学のフルブライト教授、ケンブリッジ大学に創設されたばかりのチャーチル・コレッジの特別フェロー、そして来日と同時期にジュネーヴ大学の比較文学教授就任という華麗な経歴を知れば、それも理解できるかもしれない。

三田でのセミナー、講演、雑誌の対談

60年代の学生紛争が一段落した頃に、スタイナーは三田にやってきた。由良君美(ゆらきみよし)経済学部教授(後に東京大学教授)らの気鋭の研究者が、彼の著作『言語と沈黙──言語・文学・非人間的なるものについて』(1967年)などを次々と翻訳したので、彼の思想は江湖に迎えられていた。久保田万太郎基金を活用するため、文学部の池田弥三郎学部長を囲む「若い衆」(学生紛争の解決に奔走した面々)が集まって、スタイナーの招聘に動いたようだった。「ようだった」というのは、当時私は助手になりたてで、安東教授の使い走りとして動いたに過ぎないからだ。

安東教授の音頭取りで、学外からも小池滋、富士川義之、高橋康也、山口昌男、江藤淳ら活躍中の中堅、福田陸太郎、大橋健三郎、外山滋比古、大庭美奈子といった著名人も参加して、三田で2日間のセミナーが開催された。スタイナー氏の講演の後、鈴木孝夫、松原秀一といった教授たちも議論に加わった。鈴木先生に「虹は何色ですか」と尋ねられたスタイナー氏は、「5色かな、6色かな、よく分からない。イギリスで虹を見た最後の詩人はワーズワースだったから」とジョークで切り返した。質疑応答では、英仏独の3カ国語を操って対応していた。国際的に活躍する学者とはこうあるべし、という姿を見せたのである。

公開講演会や専門家とのセミナーが終わると、『ユリイカ』『英語研究』『新潮』などの雑誌の取材や社交の機会が設けられた。評論家の加藤周一との月刊誌『世界』の対談では、互いに机を叩いて大激論になった。一方、向島の料亭では90歳を過ぎて矍鑠として三味線を弾く芸者の枯れた芸にほれ込むひと時もあった。クラシックを愛好するスタイナーは、安東教授が招待したN響の定期演奏会で、ショスタコーヴィッチの交響曲第7番「レニングラード」を、息子のマキシムの指揮で一家で聴いたが、大曲の演奏が終わった時「何と全体主義的なこと」と吐き捨てるように言った。この夜のプロはもう1曲、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番で、独奏者はポリーニという豪華版だった。

学生と話す時間を希望したスタイナーは、文学科の院生たちに楽しそうに、時には辛辣にコメントを与えた。不測の事態に備えて、私が若い教員として同席する機会を与えられた。ある男子学生が「大学で文学をやることだって社会の役に立つと思うのですが、家族が反対するのです」と泣き言を言うと、氏は間髪を入れず「文学をやっても社会の役には立たない。自己満足しかない。だからこそ貴重な時間を大切にしよう。一生文学をやりたいのなら、金持ちのお嬢さんと結婚するように」とアドバイスした。

講演中のスタイナー教授

 

三田での体験

4月23日生まれのスタイナーは、来日して10日後に誕生日を祝ったわけだが、その日が文豪シェイクスピアの誕生日で命日、イングランドの守護聖人セント・ジョージの祝日で、しかも慶應義塾の開校記念日と重なったのである。この偶然に、論客をもって知られる氏も相好を崩して喜んだ。

滞在が終わりに近づいた頃、スタイナーは安東教授に言ったそうだ。「ここに来る前に読んだ中根千枝教授の『タテ社会の人間関係』(1967年、英訳もベストセラー)を読んだり、カーメン・ブラッカー博士(福澤諭吉論で博士号を取得したケンブリッジの日本研究者)から得た話で、日本は縦社会だと散々聞かされてきたが、どうも慶應は違うようだ。君と髙宮さんの言動を観察していると自由闊達で、欧米の社会で見る師弟関係とそっくりだから」。さすがに慧眼で、塾内の自由闊達な雰囲気を見抜いておられたのである。もっとも私が大きな図体をして、肩で風切って歩いていたからかもしれない。

スタイナーはケンブリッジの英文学講師だったが、教授に昇格することなく、3年の任期後、再雇用されなかった。歯に衣着せぬ言動が保守的な教授たちの反発を買ったのであろう。F・R・リーヴィスや、後のコリン・マッケイブと同じく、スタイナーもケンブリッジを追われ、ジュネーヴ大学の比較文学の教授となった。しかし、その後もずっとケンブリッジに住み、週末に帰宅すると、土曜日の朝は開館前の大学図書館前に仁王立ちで待っている姿を何度も目撃した。その頃私もケンブリッジに3年間留学していたからである。氏とは学会でお会いしたり、ロンドン行きの電車を待つケンブリッジ駅で遭遇したものだ。その都度、「安東さんはお元気ですか」と声をかけられた。後に研究休暇でケンブリッジに滞在した安東教授一家とは、家族ぐるみの交際を続けた。

スタイナー教授は幼い頃罹った小児まひの後遺症のため、スポーツは不得手だったようで、一度心不全を患った。しかしその後も評論活動を続けている。チェスをよくするスタイナーには、有名な観戦記『白夜のチェス戦争』(1973年)がある。

スタイナーが三田に残した衝撃は、サルトル、ボーヴォワール来塾(1966年)と同じく、大きかった。私も大いに刺激を受けて、彼の著作を読みふけったものである。私にとって最も衝撃的だったスタイナーの言辞は、三田でのセミナーで、「最近はダンテを読まずして、T・S・エリオットのダンテ論を通して、ダンテを語る研究者が多すぎる」と、ギョロリと目をむいて言い放った時だった。背筋が凍りつく思いだった。現代批評理論が盛んになってきた時期で、スタイナーはリーヴィスの『偉大なる伝統』(1948年)を踏まえて、作品理解をその伝統の中で取り戻したいと希求し、批評理論を振り回して古典をもてあそぶ傾向に、警鐘を鳴らし続けたのであった。それは初期の評論集『言語と沈黙』などからずっと受け継がれてきた。

スタイナー来日の影響

短期間ながら日本の知性と議論をし、桜を愛で、京都などを巡ったスタイナーが、帰国後日本論、日本人論を発表するのを期待する風向きを感じていたのか、文化人類学者の山口昌男との対談で次のように語っている。「日本に初めて来て、しかもほんの短期間しか滞在しなかったのに、帰ってすぐ日本に関する本を書いた、非常に有名な人たちがいましたが、私はそういう過ちだけは犯したくありません」(『文学と人間の言語──日本におけるG・スタイナー』)。これは『表徴の帝国』(1970年)を書いたフランスの哲学者ロラン・バルトを揶揄したものと思われた。

スタイナー来塾の余波は年末まで続いた。白井浩司、若林真、中田美喜、安東伸介、池田弥三郎の共同編集による『文学と人間の言語──日本におけるG・スタイナー』(慶應義塾三田文学ライブラリー)が出版されたからである。実質的な編集責任者は安東教授で、英文科総出の出版になった。スタイナーの講演・対談の邦訳には名翻訳者として知られた大橋吉之輔、山本晶、由良君美、加藤弘和といった教員が動員された。本書は資料集としての価値も高いせいか、ネットでは現在も8,000円以上、コンディションがよければ18,000円もする。

ウィキペディアを見ると、90歳に近いスタイナーが存命中で、来塾時はまだベビー・フェースだった容貌が変化したことが分かる。美しい少女だった令嬢のデボラはコロンビア大学の教授になっている。1940年、フランスからアメリカのニューヨークに亡命したスタイナーは、その年米国の市民権を取得した。彼の目にトランプ大統領の移民政策はどう映ったのだろう。以前のような辛口批評を期待したいところだが。

 

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。