補遺③ ヒメマスのアイヌ名 |   マリモ博士の研究日記

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      - Research Notes of Dr. MARIMO -
  釧路国際ウェットランドセンターを拠点に、特別天然記念物「阿寒湖のマリモ」と周辺湖沼の調査研究に取り組んでいます

 補遺の3番目は、ヒメマスのアイヌ名についてである。連載⑮で取り上げたように、1931年7月26日と27日の2回にわたって旧釧路新聞に掲載された「秘められた二つの魂-阿寒天然記念物『恋まりも』の伝説」には、マニペとセトナの入水に際して、「カモイゼップ(神魚、ヒメマスの謂)が舟を取りまいて湖底へと導いた」という記述がある。

 

1938年に発刊された片岡新助著「国立公園阿寒を知る」のグラビア.

このころには,マリモとヒメマスが阿寒湖を代表する生物として広く認識されるようになった.

本文中,ヒメマスは「カバアイチツプ」と記されている.

 

 ところが、ヒメマスは一般に「カパッチェプ」と呼ばれ(知里真志保著「分類アイヌ語辞典第二巻動物篇」、1962年・日本常民文化研究所刊)、「カモイゼップ」という名称が出てくる文献は、私が知る限り、この旧釧路新聞を除くと連載⑧で取り上げた西村真琴の随筆集「水の湧くまで」に限られる。この中の「緑の王国」の章で、西村が1926年にマリモ調査のため阿寒湖を訪れた際、地元の熊五郎というアイヌから聞き取った話として、「マリモは昔からスカナキツプと言ってカモイゼツプ(神魚=ヒメマス)と共に、この湖の宝物ということになっている。この宝物は、後の世まで守って行かなくてはならないと考えている」と記されているのだ。

 

 これに対して、西村よりも70年近く前に阿寒湖を訪れた松浦武四郎は、当該魚を「カパチエフ」と書き取っており(戊午東西蝦夷山川地理取調日誌・1859年刊)、以降も内田瀞と田内捨六が「カバチェップ」(開拓叢書第一號日高十勝釧路北見根室巡回復命書・1882年刊)、川上瀧彌が「カパチェプ」(釧路國阿寒地方採集記・1897-1898年刊)と、「カパッチェプ」に近い呼び方で記録している。これ以外の古い資料でも状況は同様で、「カパッチェプ」が一貫して用いられてきたのは疑いない。
 

2007年に釧路市教委と阿寒湖パークボランティアの会が解読・再版した西村真琴の「緑王国」.

マリモの最も古いアイヌ名である「スカナキップ」が出てくる点でも重要な文献となっている.

MARIMO Webで閲覧できる.

 

 

 「水が湧くまで」が発刊されたのは1927年。1931年の旧釧路新聞に「カモイゼップ」が登場するにあたって、「緑の王国」から引用された可能性がある一方、同時期、釧路・阿寒地域で実際に「カモイゼップ」と呼ばれていた可能性も否定できない。

 

 この問題について私は、2017年に釧路叢書第37巻として刊行した「阿寒の大自然誌」の「アイヌ民族はマリモをどう見ていたのか」の章で、「カモイゼップの和訳として西村があてた『神魚』のアイヌ名はカムイチェプで、本来はサケを指す。アイヌ民族は、重要な食料資源であるサケ類を細かく分類・命名しており、ヒメマスをサケと誤認したとは、にわかには考えがたい。もし、熊五郎の話が虚構でないとすると、マリモとヒメマスの重要性が広く認識されるようになった当時の状況を背景として、アイヌ民族の間にもマリモとヒメマスを宝あるいはカムイと見なす新しい価値観が広がっていた可能性がある」と指摘したが、これらのいずれであったにしろ、「カモイゼップ」という呼称が定着して後世に引き継がれることはなかった。

 

 「マニベ」という主人公の名前が「マニペ」に変わった話と同様(補遺①)、論考に役立ちそうな資料は見つかっておらず、残された謎の一つとなっている。

 

 (つづく

 

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【釧路新聞文化欄・日本マリモ紀行#483,2019年2月25日】