ここまで19回にわたり、セトナとマニペを主人公とする「恋マリモ伝説」について、物語が書かれたいきさつや、発表後のストーリー改変の実態、そしてマリモ文化の発展と衰退に至る経過を通観してきた。従前、この物語については、「アイヌの伝説か和人の創作か」という問題に目が向きがちであったが、こうして一連の流れを追ってみると、マリモには様々な文化芸術活動をインスパイアする力が秘められており、多方面にわたって作品が残されてきた状況がよく分かる。
とはいえ、重要でありながら言及できなかった事柄も少なくない。稿を閉じるにあたって、四つばかり書き留めておくこととしたい。
安藤まり子が再録して2013年にリリースされた「マリモの唄」.
このアルバムには、歌詞にマリモが登場する「うるわしの阿寒」も収録されている.
その第1は、登場人物の名前である。永田耕作の原作および青木純二の転載では、主人公の若者を「マニベ」と記している。ところが、私が所持する資料では、この二つと1936年に発刊された石附舟江の「伝説蝦夷哀話集」(連載⑨)を除いて、すべて「マニペ」となっているのである。かくいう本稿では、連載の冒頭で取り上げた「佐藤直太郎郷土研究論文集」(連載①)が「マニペ」としているのに従って、永田と青木の原著を引用する以外は「マニペ」で通してきた。果たして、それでよかったのか。物語を未来に伝えるにあたってどちらを使うべきか、検討の必要があるだろう。
名称が変わった経緯については、1930年代に物語が何度かラジオで放送された際(連載⑦)、音声が違って伝わってしまったのではないかと想像されるが、論考できる資料はなく、実際のところはよく分からない。
一方、オリジナルの「マニベ」を引き継いだ上の「伝説蝦夷哀話集」では、青木純二の「悲しき蘆笛」を下敷きにしつつも、これまた独自な改変が行われている。底本が「悲しき蘆笛」と分かるのは、原作である永田耕作の「阿寒颪に悲しき蘆笛」を青木が改変した際の痕跡、すなわち連載⑬で指摘した「文語調から口語調への会話文の書き換え」や「時間に関する具体的な記述の削除」がそのまま残っているからに他ならない。
伝説蝦夷哀話集に収められた「恋の二つの毬藻 千古の秘密を漂はす阿寒湖」の冒頭部分.
また、「独自な改変」は多岐に及ぶものの、見逃せないのはタイトルが「恋の二つの毬藻 千古の秘密を漂はす阿寒湖」に、また物語の最後が「(セトナが愛人の名を呼びながら死んだのち)今もこの湖に繁る玉藻の中には、時折二つ一緒の玉藻がある。それを恋の二つ毬藻といっている」となっている点だ。1931年に現れた「恋マリモ」という愛称(連載⑦)を取り入れた証しと見てよいだろう。
しかしこれ以降、「恋マリモ伝説」の主流はセトナとマニペが阿寒湖に身を投げる話へと移って行く。永田のオリジナルストーリーは「伝説蝦夷哀話集」で絶えることとなった。
(つづく)
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【釧路新聞文化欄・日本マリモ紀行#481,2019年2月11日】