補遺② マリモの由来 |   マリモ博士の研究日記

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      - Research Notes of Dr. MARIMO -
  釧路国際ウェットランドセンターを拠点に、特別天然記念物「阿寒湖のマリモ」と周辺湖沼の調査研究に取り組んでいます

 補遺の二つ目は、マリモの由来についてである。セトナとマニペが湖に身を投じてマリモに変化(へんげ)したのち、これが起源となって数を増やし、マリモは群生するようになったのであろうか。それとも、元々たくさんのマリモがあって、その中に2人に由来するものが混じるようになったのであろうか。答えは両方で、身投げ話(連載⑦)やヒメマスの関与(連載⑮)と同様、これまたストーリーが書き換えられているのである。

 

2003年にロシアのインターナショナルグループが日本国内で公演した際のポスター.

恋マリモ伝説はバレエのモチーフともなってきた.

 

 

 このことを最初に指摘したのは、連載①で取り上げた佐藤直太郎であった。彼は、「佐藤直太郎郷土研究論文集」(1961年)の中で、「青木純二の『悲しき蘆笛』では、『セトナが死んだのち湖の奥に生ずる玉藻の中には、きっと、二つ一緒になったのが只一個ある』と記されているだけで、マリモの起源については触れていない」と指摘した。

 

 その一方で、「(セトナが丸木舟で湖に出て帰ってこなくなってから)秋風の渡る湖の面にマリモが浮きつ沈みつしているのが目につくようになった。そして、マリモの数はいつとはなしに、ふえていった。コタンの人びとは思いのとげられなかった若い2人の魂が、マリモになったのであると語り合った」という、東京大学の泉靖一が1955年に生物学の専門誌「遺伝」で紹介した話について、「いつの間にか変化して、マリモの起源のみならず、繁殖までが語られるようになった。抜け目のない巧妙なやり方で、アイヌに精通している和人によって近頃改作せられたもの」と批判している。

 

 

マリモが特集された「遺伝」1955年8月号の表紙.

この中の「マリモの伝説」で著者の泉靖一は「恋マリモ」がアイヌの伝承であるとの持論を展開した. 

 

 実は青木の「悲しき蘆笛」、そして原作である永田耕作の「阿寒颪に悲しき蘆笛」では、物語の中ほどで、月夜の晩にセトナとマニペが玉藻の群をかきわけながら丸木舟を漕ぐ場面が出てくる。セトナの死後に登場する「湖の奥に生ずる玉藻」は、元々あったのだ。

 

 ではなぜ、この「玉藻の群」は後の著作に引き継がれなかったのか。第1の理由はストーリーの短縮だ。山場となるマニペとメカニの争いと、それに続くマニペとセトナの死に直接つながらない中間部は、話が新聞やラジオで伝えられる際にザックリ端折られた(連載⑩)。こうしてまず、マリモが元々あったかどうかが分からなくなってしまった。

 

 では、ストーリーの改変はどのように進んだのか。オリジナルは「玉藻の中には二つ一緒になったのが只一個ある」であった。これにセトナとマニペの身投げ話が結び付き、旧釧路新聞(1931年、連載⑮)では「一つのまりもの中には、二つの悲しい恋の魂が生きている」へと変わった。

 

 さらに、マリモが浮沈する話が取り入れられて、山本多助の「阿寒国立公園とアイヌの伝説」(1940年、連載⑯)では、「阿寒湖には恋する二人の心が一つになった毬藻が浮び漂う様になりました」になった。

 

 そして最後、更科源蔵の「コタン生物記」(1942年、連載⑯)では、「風が吹く蘆笛のなる湖に、いつの頃からかマリモの姿が目につく様になり、次第に殖えて行った」へと至ることになる。

 

 上述した泉のストーリーが、こうした改変の延長にあるのは疑いない。新しい情報を次々に取り込んで変容してゆくさまを見ると、「伝説とは生き物だ」と思わずにいられない。

 

 (つづく

 

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【釧路新聞文化欄・日本マリモ紀行#482,2019年2月18日】