⑯ ヒメマス話、身投げ話と合体 |   マリモ博士の研究日記

  マリモ博士の研究日記

      - Research Notes of Dr. MARIMO -
  釧路国際ウェットランドセンターを拠点に、特別天然記念物「阿寒湖のマリモ」と周辺湖沼の調査研究に取り組んでいます

 前回紹介したように、「ヒメマスがマニペとセトナを湖底へと導いた」というストーリーは、1931年7月に旧釧路新聞に掲載された「秘められた二つの魂-阿寒天然記念物『恋まりも』の伝説」が初出となる。ところが「歴史の皮肉」というやつで、後に「恋マリモ伝説」と呼ばれるようになるのは、同じく1931年の6月に同紙に掲載された「湖水に身を投げたマニペの後を追ってセトナも湖中に身を投じ、それがマリモになった」という話(連載⑦連載⑭)の方であった。

 

 この投身話が広く知られるようになったのは、同じく前回触れた山本多助が、1940年に日本旅行協会から発刊した「阿寒国立公園とアイヌの伝説」に「セトナと毬藻の話」と題して紹介したのが端緒となる。例によって、最後の部分を引用しよう。

 

 

山本多助らが1950年に創始した“まりも祭”.

 

 

 「(マニペはメカニを殺してしまったことを後悔し)舟を遙か湖上に漕ぎ出して、日頃いつくしんでいた蘆笛をこの世の名残に、心ゆくまで吹きならし、哀れにも湖水に身を投げました。いく日か過ぎてマニペの死を知ったセトナは耐えきれぬ悲しみに沈み、湖岸に佇んで物思いにふける日が幾日か続きました。或る日セトナも丸木舟を湖に漕ぎ出したまま、二度と其の美しい姿を部落に見せなかったのです。そして阿寒颪の吹きすさぶ夜にはセトナのむせぶ泣き声に和してマニペの哀しい蘆笛がきこえるのです。其の後のことです。阿寒湖には恋する二人の心が一つになった毬藻が浮び漂う様になりました」

 

 身投げがストーリーの骨格になっているとはと言いながら、セトナが湖岸に佇む場面や「二人の心が一つになった毬藻」といった表現は、ヒメマスが先導役となる話に見られるものだ(連載⑮)。このことから、早々とヒメマス話の一部が投身話に取り込まれた(あるいは二つの話が合体した)と解してよいだろう。

 

 

 さて、「阿寒国立公園とアイヌの伝説」の発刊以降、投身話はアイヌ民族の文化や伝説を紹介する書籍、阿寒地方の旅行ガイドブックなど、様々なメディアで取り上げられるようになった。まずは、1942年に北方出版社から発刊された更科源蔵著「コタン生物記」から。

 

更科源蔵著「コタン生物記」(1942年・北方出版刊)の表紙.

「マリモ」の項で「恋マリモ」が紹介されているが,マニペやメカニは登場しない.

 

 

 「(セトナには親の決めた許嫁がいたが)彼女はそれを嫌って別に恋を語らう若者があった。コタンでは親の許さない恋には重い罪の掟があった。二人の儚い恋の語らいはついに村人の知るところとなった。若者は追われて湖にのがれ再びコタンには帰らず、恋にもだえる身を水清い湖底に沈めてしまった。

悲恋のセトナも若者の後を追って、月光の湖に丸木舟を漕出しついにまた帰らなかった。それから風が吹く蘆笛のなる湖に、いつの頃からかマリモの姿が目につく様になり、次第に殖えて行った。村人は秋風が吹くと二人の悲しい物語を思い出し、二人はついにマリモになったのだろうと・・・・」

 

  というわけで、話はすっかり別物になっているのである。

 

  (つづく

 

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【釧路新聞文化欄・日本マリモ紀行#477,2018年12月17日】