⑰ マリモの認知「全国区」へ |   マリモ博士の研究日記

  マリモ博士の研究日記

      - Research Notes of Dr. MARIMO -
  釧路国際ウェットランドセンターを拠点に、特別天然記念物「阿寒湖のマリモ」と周辺湖沼の調査研究に取り組んでいます

 前回取り上げた山本多助の「阿寒国立公園とアイヌの伝説」と更科源蔵の「コタン生物記」を並べてみると、湖に身投げしたアイヌの若い男女がマリモに化生するエンディングは同じでありながら、そこに至るストーリーは大きく違っている。

 

 前者では、原作と同様、セトナに嫌われたメカニがマニペを逆恨みして襲い、逆に殺されてしまう。マニペはそれを後悔して湖中に身を投げるという筋立てだ。これに対して、後者ではメカニもマニペも登場しない。セトナには親の決めた許嫁とは別に恋人がいたものの、親の許さない恋は重罪。それが露見して、相手の若者は湖に逃れ「恋にもだえる身を水清い湖底に沈めた」という設定になっている。

 

 「コタン生物記」では、物語を紹介する前書きで、「阿寒湖の特産として知られているマリモには『恋マリモ』の美しくも悲しい伝説が、誰かによって書き伝えられている」と述べ、あたかも原作があって、それを引用するかのような書きぶりとなっている。

 

 ところが、物語の後書きでは、「こんな様な話なのであるが、阿寒湖畔のコタンを訪ねて訊いてみると、そんな話は全くマリモの様に根も葉もない話だというのである」と、出処どころか実体そのものさえ明らかにしていない。「恋にもだえる身を水清い湖底に沈める」というストーリーは「コタン生物記」以前同には見られず、「実のところ、この話は更科自身による創作ではないのか?」とツッコミを入れたくなる。

 

 が、本稿の目的は「コタン生物記」の真偽の検証にあるのではない。連載⑩で述べた「原作を改変するのは、例えばインターネットに投稿されたショートストーリーを、たくさんの読者がオリジナルの存在を意識せずに次々と書き換えて行くような感じであったのではなかろうか」という行為が、新聞だけでなく書籍の類いにも及んでいたことを示す例として、ここでは抑えておきたいと思う。

 

週刊朝日1950年9月17日号の表紙を飾った佐藤敬 作「毬藻」.

このころから,マリモに関する情報が絵画や映画,歌謡曲などを通じて全国に広く発信されるようになった.

 

 

 さて、「悲しき蘆笛」が1926年に再版されたのがきっかけとなって、「恋マリモ伝説」のストーリー改変が進んできた経緯について、ここまで詳述してきたが、事態は1950年代になって新たな動きを見せ始める。次に紹介するのは、片岡新助が1951年に釧路観光事業会から発刊した「国立公園阿寒一巡り」で取り上げた「恋毬藻の伝説」の最後の部分である。

 

 「(メカニを殺したマニペは罪を懺悔して)遙か湖上にのがれ、日頃たしなみの芦笛をこの世の別れにと心ゆくまで吹き鳴らし、湖中に身を投じて果てました。(中略)或る日、セトナも亦、独木舟にかいをとり湖心に出て行ったままついにその美しい姿をモノッペの部落に見せませんでした。阿寒颪のふきすさぶ夜、セトナのむせぶ泣く声に和して、マニペの芦笛の音が聞えてくると云い、それで湖中の毬藻には、二人の心を一つにした毬藻があると云い伝えられています」

 

 ストーリーのみならず、表現も淡々として、山本の「阿寒国立公園とアイヌの伝説」に戻った感がある。なぜか。一つには、著者の片岡は釧路市立博物館の前身である釧路市郷土博物館の初代館長を1947年から63年まで務めた在野の研究者で、古い文献にあたっていた可能性が高い。そしてもう一つ、当時、マリモに対する認知が「北海道地方区」から「全国区」へと拡大し始めていた背景があげられる。

 

 (つづく

 

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【釧路新聞文化欄・日本マリモ紀行#478,2018年12月24日】