青木純二はなぜ、永田耕作の「阿寒颪に悲しき蘆笛」(以下、永田版)に手を加えた上で、「悲しき蘆笛」(以下、青木版)として発表したのだろう。
前回指摘したように、永田版の舞台は「現在」で、アイヌの古老が500年前の昔話を語る設定となっている。どう見ても、創作と分かるつくりだ。これに対して、青木版では、こうした「つくり」が削除されている。その結果、これも既に述べたように、あたかもアイヌ民族に伝わる物語であるかのような印象を与える内容となり、後々、「和人の創作か、それともアイヌの伝承か」という論争を生む原因となった(連載⑩)。
「恋マリモ伝説」は,1960年代以降に出版された図書の多くで「青木純二による創作」とされるようになっただけでなく,
「観光のためにつくられた」という説まで現れるようになった.
脇哲の「新北海道伝説」(1984年・北海道出版企画センター刊)でも,
「和人創作のマリモ伝説-阿寒観光の語りぐさ」と題してこうした見方が紹介されている.
だが、これでは原作に手を加えた理由にはならない。ここから先は想像にならざるを得ないけれども、青木が1924年に札幌の富貴堂書房から「アイヌの伝説と其情話」を出版するにあたって、永田版をアイヌの伝説らしく装って収録したと見るのが自然であろう。
ところが、同書の「はしがき」には、「ここに書いたもの全部が古文書をあさり、あらゆる伝説研究書を読破し、その上、親しくアイヌ部落を訪ふて古老達に聞いた話ばかりなのである」と書かれている。連載①で私は、「(はしがきが)額面どおりなら、掲載されている話は原著からの引用もしくは聞き書きだけとなり、著者の創作でないのは明らかだ」と述べたが、逆に創作と知りながら脚色したとなると話は大きく違ってくる。「はしがき」の信憑性そのものを疑わなくてはならない。
その一方で、青木版の最後には、「山の伝説と情話より」と引用元と見なされる記述が添えられている(連載①)。もし、アイヌの伝説で通したいなら、原著の存在は伏せておく方が都合がよいのではあるまいか。どうにも一貫性がない。何だか、青木版の成立過程の方が伝説っぽくなってきた感があるが、他に資料がない中で、これ以上の詮索は望めそうにない。「恋マリモ伝説」のストーリーの改変は、早くも青木版の段階で始まっていたという事実を確認して先に進もう。
さて、連載⑦で述べたように、1926年に東京の第百書房から青木版が再発行されたのがきっかけとなって、北海道内のラジオや新聞で、マニペとセトナの物語がたびたび取り上げられるようになった。1931年6月28日の旧釧路新聞には、「湖畔のある酋長の娘が下僕のあとを慕って、湖に飛び込んだあとから二つつながった毬藻が生れた」という紹介記事が載っており、これをもって「マニペとセトナが湖に身を投げマリモに化生する」というストーリーの嚆矢と位置づけてよいだろう。
二つつながったマリモ? 内部に小さなマリモを抱えたマリモがまれに見られる.
小球の実体は,光が届かずに枯死しかけた中心近くの藻体が脱落し,
マリモの回転運動によって球状になった集塊だ.
そして、わずか1か月後の7月27日の記事では、身投げからさらに進んで、「カモイゼップ(神魚・ヒメマス)がマニペとセトナを湖底へと導いた」という、たいへんロマンチックなストーリーへと変化を遂げている。次回、この内容を詳しく紹介したい。
(つづく)
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【釧路新聞文化欄・日本マリモ紀行#475,2018年11月19日】