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何でもアル牢屋

趣味丸出しの個人コラムです。フラっと立ち寄れる感じの喫茶店的なブログを目指してます。御気軽にどうぞ!

ふと気になっていた事だが、論破王・ひろゆきは、何故、テレビ活動を増やしているんだろう。
ネットでプロフィールを調べてみると、元と言う肩書が多くてどれが本業なのかよく分からない。なんだか判らない場合、実業家と言う肩書で間違ってないだろうから、実業家の西村博之社長でいいんだろうか。

テレビ出演過多に関して、もし彼が「単なる暇潰しです」って言うのであれば腑に落ちない。ひろゆき君のキャラと、これまでの言動を振り返れば、テレビ主演ほど面倒臭い事は無い。小銭のギャラなんて興味が無いだろうし、金と暇を持て余してるなら、テレビ出演よりも有意義で楽しい事は幾らでもある筈と考えるのがひろゆき君の筈。テレビやネットで話題になっている論破企画を、一番馬鹿にして下らないと思っているのは実の所、ひろゆき君本人だろう。やりたくない事はやらない。無駄だと思うものはやらない。馬鹿を見下すキャラのひろゆき君が、馬鹿番組が考えた論破企画に乗る事自体がナンセンスな様な気もする。
 

これから書く事は推測、憶測になってしまう事を予め断わっておくけど、もしかして、ひろゆき君の事業が傾いて来てるのではないか?

と言うのも、テレビに出て来る<テレビ慣れした実業家>が、間もなくして倒産したケースって頻繁にある。ひろゆき君の場合、急にそうはならないだろうけど、経営している動画サイトのニコ生も、以前よりも利用者が減っているのではないか。現状ではライバルのユーチューブが猛烈な勢いで世界中を賑わしてるし、御手軽さと便利さで、どっちを使うか?の選択をした場合、おそらくユーチューブに軍配が上がる。ユーザー感覚からすると、違法だらけだけど使いやすいユーチューブの方に人気が集まると言う事。実際、ひろゆき君は自著で「違法だらけの動画サイト」だと、ユーチューブを批判している。
御自慢の<働かずして金を儲ける>と言う座右の銘からすれば、ゲスな番組のテレビ出演で小銭を稼ぐ事は、意に反してるんじゃないのかなと思う。例え事業が傾いてたとしても世間に弱みを見せないって所は、彼らしいなとは思うけどね。

産経新聞の神戸連続児童殺傷事件の記事を読んで驚いたのは、被害者の遺族である土師さん、山下さんへの手紙が平成29年まで続いていた事だった。
加害者の元・少年Aが少年院から出所したのが2004年。その11年後に唐突に出版され世間をザワつかせた「絶歌 神戸連続殺傷事件 元少年A(太田出版)」。それから14年もの間、弁護士を通して手紙を書き続けていたのは意外と言うか驚きだった。記事インタビューの中で土師さんは、こう語っている。

「なぜ淳が殺されなければならなかったのか、納得のいく理由を知りたい。彼に会いたいとは思っていないが、手紙などで答えてほしい」

私がコレを書いている先日、日本テレビのドキュメント番組で、もう一人の被害者の遺族である山下さんを特集していたのだが、土師さんと山下さんに共通していたのは、送られてくる手紙を敢えて読んでいないと言う事をメディアを通して公表している事だった。出来る事なら我が子の敵討ちをしたい。だけども法的に許されないと言うもどかしさと常に向き合っている。その辛さが確かに伝わってくる。
 

元・少年Aは何故、手紙を送って来なくなったのだろう?と考えると、単純明快な答えが浮かんでくる。それは、どうせ読んでくれて無いから。この際、土師さん、山下さんを特集するメディアの編集にも問題があると思う。手紙は来ている。だけど読んでないと言う事をテレビで言ってしまうと、加害者からすれば何の為に書いてるんだとなってしまう。番組が善意的にしなければならない事は、加害者に行動意欲を掻き立たせる事であり、萎えさせる事ではない。道理を説かなければならない訳であり、嘘でもいいから「手紙は細かく読んでいる」と言う事を主張するべきだったと思う。そう主張する事で、書く側もモチベーションを保てたのではないか?
だが、手紙が絶えた事を報道で訴えたと言う事は、手紙に目を通している訳であり、長い月日もあって心境の変化はあったと思われる。時が満ちたと言う表現が相応しいかどうかは判らないが、土師さん、山下さん共に、弁護士を通して元・少年Aとの面談を考慮してみてはどうだろう。加害者の立場になって考えてみれば、どれだけ手紙による謝罪をしても受け入れて貰えない。それではどうするかと言う手段の一つが「絶歌」だったのかもしれない。憎い奴の顔は見たくない。本も読みたくない。だけど手紙は絶え間なく寄こせでは、中々、進展はしないと言うのが現実ではないのだろうか。

自殺した人に聞いた訳ではないが、自殺する人には共通点がある様に思う。それは、先を考え過ぎる事。
具体的に先の事って言うのは、仕事と金の事で、仕事を無くせば収入が途絶える。金が無くなれば生活が出来なくなる。誰もが金が無くなった時点で本能的に死ぬと直感する。俳優の渡辺裕之芸人の上島竜兵、芸能界で連鎖してしまった自殺と、二人の自殺動機も、細かい理由は有れど、先行きが見えなくなった事が根底にある。

渡辺裕之の場合、自律神経失調症を患っていたそうだが、医学書を調べると自律神経失調症は状態であって病気ではない。臓器、脳、神経、筋肉を検査し、器質的に問題が無く、それでも強い自律神経症状を訴えた場合に診断される。更に自律神経の症状意外に精神症状を訴えた場合、不安障害、又はパニック障害と診断される。

実の所、私自身、30代初めの頃に軽度のパニック障害に陥り、暫く精神治療をした経験がある。軽度であれば抗・不安薬のみの治療で重症化を防げる。悪化すれば抗・不安薬と抗・鬱剤を併用しなければならなくなり、治療にも時間が掛かってしまう。精神治療は早期発見と早期治療が鍵となる。この事は身を持って知った経験だ。おそらく渡辺裕之は治療が遅れたケースかと思われる。見た目が逞しくて強そうなので、周囲も気付きにくかったのかもしれない。
上島竜兵は此処数年、テレビでたまに見かける事はあったが、見る度に目が死んでいた。笑いの表情を造ろうとするが目が笑っていない。顔色も血の気がない。何処か具合が悪いんだろうなと思わせる雰囲気があったが、案の定、糖尿病を患っていた。血圧、血糖値、尿酸値、どの項目も要注意の状態だと何かの番組で自分でカミングアウトしていた。その最期も、自宅で倒れていた所を嫁さんが発見したらしいが、全容までは明かす義務はない。著名人の死亡報道は、遺族の意向もあって本当の事を言わなくてもいい事になっている。前ぶり無しの降って湧いた様な芸能人の死亡ニュースは自殺の可能性も高い。渡辺裕之にしても上島竜兵にしても、配偶者が第一発見者なので、事故なのか事件なのか警察から強制的な調べを受ける事になる。二件とも事件性は無しと言う判断で、両者ともに自殺と言う報道で世間に伝わった。

先々の漠然とした不安の正体が<お金>なんだとすると、全てが腑に落ちて来る。その典型が貯金

とにかくガッポリ稼いで楽をしたいと言う考え方が現代人の特徴で、その手段として名声を挙げようとする。名声を挙げると自動的にお金に繋がるという合理的な考え方をする様になったのも、現代人の特徴だろう。

日本と言う島国は規模は小さい癖に、インテリ根性の輩だけは、やたらと多いのも特徴で、自分達の普通だと思ってる生活環境が<意外と金が掛かっている事>に気付いていない。感覚の麻痺なんだろうなと思う。

一方で良い兆候もある。最近、20代の若い世代が意図的に手狭な住まいを選ぶのだと言う。話を聞くと「自分の生活に掛かる無駄金を払いたくない」と言う事らしい。だから家の広さも必要最低限であればよく、要するに箱があって寝食できれば拘らない。こうなると、かぐや姫の<神田川>の世界に近い。
 

金を今使いたい訳じゃないけど、なんだか金を稼ぎたい。目的の無い金作りが日本には蔓延していて、ユーチューバーが正にそう。社会貢献をしたい訳じゃなく、馬鹿を見せて再生回数を挙げて儲ける。ユーチューバー達も金を稼ぐ明確な目的って特に無い。稼いだ金は殆ど貯金。「何で貯金なの?」って聞けば「先々、安心をしたいから」と言う答えが返ってくる。

誰が言ったかは知らないが、<YouTubeは個人が持つテレビ局>とはよく言ったもので、なるほど巧い事言うなと思った。私個人の考えだが、動画の未来は、それほど明るくないと思っている。飽和状態は競争を生み、競争になると過激になる。誰もがアイデアと言う名の下に真似の出来ない過激な動画作りを始め出す。真似が出来ない事は大体においてヤバい事が多い。ヤバいから真似が出来ないとも言い換えられる。いつか国を揺るがす、とんでもない機密情報が出回って一般ユーザーが自由に動画を使えなくなる時が来るかもしれない。その際、真面目に使ってる人も居るとか、有益な動画もあるとか、申し開きは通用しない。一般のユーザーが悪用して大惨事を招いたって事が論点になってくる。そうなってくると、特殊な立場の人しか使えなくなる事も起こり得る。誰もが<動画と言うテレビ局>を持つ時代が終わるって事も考えられる。

気付いてる人が少ないかもしれないけど、動画って言うのは一蓮托生な部分があるって事。一人の間違いで皆が巻き添えになる。安易な感覚で動画を流す人は、危機感をもっと感じるべきなんだよ。

周囲に流されず世の中を自分勝手に生きていく一つの極意があるらしい。その方法は「居心地が悪いと感じたら、その場を去る」
一種の逃避って事になるのだろうが、自分自身が世の中を生き抜いていく為の手段と割り切れば、逃避も逃避ではなくなると言った所か。だが、この方法には一つの難点があって、人に頼らない事が前提になってくる。自分勝手を貫く生き方を、基本的に人は許さない。嫌だと感じる場所から脱出するには、ある種の覚悟がいる。孤立、孤独、虐め、今風で言えばハブられる事を想定しなければならない。後は生き抜く強さ。他人から危害を加えられるかも知れないと言う危機感を常に感じなければならない。物理的な攻撃に対処する為には腕っぷしも必要かもしれない。これは勿論、正当防衛。後はメンタル(精神力)。何を言われても書かれても挫けず、サラリと受け流す切り替え。

こうやって必要な要素を並べていくだけで嫌になってくる。だから殆どの人は、自分勝手を恐れて、無難に生きる道を選ぶ。
 

逃避とは我慢をしない事

今、日本全体が我慢する事が悪い様な風潮になった。仕事も恋愛も結婚生活も無理をしない。金が勿体ないから冠婚葬祭も短縮して早々と済ます。結婚式は女の為と聞いた事があったが、この御時勢、金の無い女達がウェディングドレスは要らないと言って結婚式を自分から辞退するのだと言う。これも我慢の一種だろう。

身内が死んでも葬式はせず、早々と火葬場に行って骨にして終わる。周囲には死んだ事すら秘密にして全て終わった後に事後報告する。これも何らかの我慢だろう。法事に至っては、嘘の用事の典型例として笑い話にするしかなくなった。

だが、見方を変えると我慢とは違う何かが見えてくる。詰まりは面倒臭いのかもしれない。考えてみると、世の中で起きる事件は「面倒臭い」から始まって居る事に気付く。ストーカー殺人は、その典型で、意中の相手と段階を踏んで交際する事を面倒臭がった結果、手っ取り早い方法を探した結果論だ。強盗事件なんかもそうだ。働いて金を稼ぐのが面倒臭い。だから金のある場所から盗む。金が無くなったら何処かから盗めばいいと言うシンプルな考え方。殺人事件なんかも、殺した動機の殆どが「コイツは面倒臭い奴だから殺した」となる。嫌いな奴は殺すに限ると言う人間関係の終焉、究極論とも言える。
 

例の北海道で起きた遊覧船事故の一件も、オーナーの面倒臭いから始まった。

会社の屋根のアンテナが故障してるにも拘わらず直さない。知っておきながら直さなかったのは、遊覧船会社の物件そのものに関心が無かったからだろう。この事件は一言で表すと「経営のずさん」の一言しか言い様が無い。

山梨のキャンプ場で行方不明になった少女の事件も、当時の捜査員が面倒臭がって森の奥地に入る事を躊躇った。人が通れる無難な獣道しか捜索して無かった事が明るみになり、一部のメディアが警察組織に「奥地の捜索を面倒臭がったのではないか?」と不信感を示している。

こうして並べていくと、全ての発端は面倒臭いから始まっている。ロシアとウクライナの戦争も実の所、プーチン大統領とゼレンスキー大統領の面倒臭い関係が伏線だった。ゼレンスキーはプーチンをコケにし、挑発されたプーチンはキレた。一部の評論家が「この戦争はプーチン個人の喧嘩」と評したのは、この辺の事情から来ている。二人の年齢を調べてみると親子ほど離れている。70歳近いプーチンと40代のゼレンスキー。日本で言う団塊世代と団塊ジュニアの二人だ。血で血を洗う壮絶な親子喧嘩とも言える。

私自身はどうかと言えば、最近、テレビやラジオを視聴しててムカつく事が増えた。

一昔前は、メディアに対するムカつきをブログで爆発させた時期もあったが、歳のせいなのか、随分、自制心が効く様になった。経験則で書かせて貰うと、怒りの感情を記事に投影させると、瞬間的な達成感と快楽を得られる。しかし、それも持続はしない。時間が経って自分で読み返すと気分が悪くなってくる。更に悪い事に、読み手から嫌悪感を示される。読み手が嫌悪感を感じた事を察すると、今度は読み手に対して悪態を突く。こんな繰り返しが過去にあった。随分前の出来事だが、2ちゃんねる掲示板に晒された事もあった。
 

思うに、SNSから日々離れられない人達の殆どが、現実逃避と我慢の限界に苛まれているのではないか?

社会問題に発展している誹謗中傷も、どうにも我慢できそうにない。だから書いてやるみたいなノリで境界線を踏み越えていく。ネット中毒を研究している精神科医に言わせると「読むのは構わない。だけど書く事を我慢してみてはどうか?」と言う事らしい。確かに判る。読む行為は「受けの立場」だから、自分の意思で、いつでも退く事が出来る。だが書く事は、一旦乗り出すと中々止まれない。時に暴走する。ムカついている自分にハッと気付き、自問自答する。

「自分は何故、ムカついているんだろう?」

「何か他に考え方は無いか?」

この2点を思考出来た時点で、境界線を越える事は無くなる。何かにムカついたら試してみてね。

地球上で誹謗中傷をする生き物は人間しかいない。何故か?それは<言葉>を持っているから。
SNSの場合、言葉を持たなくても<書く事>で中傷出来る。語らずして人を傷付けると言う手段を人間は会得してしまった。文字による中傷を一番最初に始めた人って誰なんだろうと考えてみる。どんな知者でも答えを出すのは不可能に近い。だけど、その最初の人は、人を傷付ける為の一番安全な方法を編み出した。肉体への物理攻撃ではなく精神への間接攻撃。安全地帯に居ながら他者を攻撃する手段。やられた側は肉体が傷付くのではなく精神にダメージを負う。
ダメージが一定範囲を超えると人は自殺する。追い詰められると自殺する生き物は人間しかいない。動物には自殺と言う概念が存在しない。だから、どんなに虐待されても自分からは死なない。と言うか、自殺の仕方が判らない。動物に出来るのは、死を覚悟する本能的な<死への予感>しかない。

昔読んだアガサ・クリスティーの小説に、こんなセリフがあったのを想い出した。

「考える事さえ辞めてしまえば、人は楽になれるのにね・・・」

凄い。この一言に多くの意味が集約されている。染み入る言葉って言うのは、実の所、一言に込められているモンなのである。
とは言え、世の中から批判が全くなくなるのも危うい。肯定と否定、褒める、貶す(けなす)。怒る、優しくする。このバランスが崩れると真実が判らなくなる。

批判を必要悪と考えた場合、一つだけ信念を持たなければならないのは、自分が関心を持って批判する事に誇りを持つって事。反論されても返せるだけの自信を持てって事。その準備が出来たら正々堂々と批判をする。それが私の考え方だ。