何でもアル牢屋 -24ページ目

何でもアル牢屋

趣味丸出しの個人コラムです。フラっと立ち寄れる感じの喫茶店的なブログを目指してます。御気軽にどうぞ!

1980年代、地元での話。神奈川県川崎市の元住吉と言う駅の線路沿いに、爺さんが営む一軒の闇屋があった。
闇屋と言う言葉は余り良い印象を受けない。戦後、物に困った人々が持ちつ持たれつの関係で、闇市と言う独自の商売をしていた。闇市は、場所を確保し、自分の所持品に値を付けて買いたい人に買って貰う。正に資本主義の原点の様な商売。今で言うフリーマーケットと言った方が判り易い。

昔話を少しすると、地元の元住吉の駅は大きく変化を遂げた。今の元住吉駅はエスカレーターで上に登ってホームへ行くのだが、80年代の元住吉駅は、一旦、階段で下に降りて切符売り場で切符を買い、改札を通って向かいの登り階段を上ってホームに到着する。降りてから登っていくと言う、今思うと可思議で面倒臭い駅だった。ホームは今と違って、田舎にありがちな外に剝き出しなタイプのホームで、天井に屋根は付いてるが雨が降ってるとバシャバシャと入って来て靴が濡れたりする。タバコのポイ捨ても当たり前で、よく地面に落ちていた。外気の匂いと吸い殻の匂いが混じって独特な乾いた匂いがしていたのを憶えている。

夜になると酔っ払いが吐いたゲロを目撃する事も有った。酒の混じったゲロの匂い。見たくないし嗅ぎたくも無いから、なるべくゲロから距離を開けて通り過ぎた。そんな想い出のある元住吉の駅だったが、今は嘘みたいに綺麗になってハイテクになって都市化された駅に生まれ変わった。吸い殻やゲロも一切無い、地元に愛される元住吉の駅になった。
 

線路沿いの闇屋の爺さんは特異な風貌をしていた。左右どちらの手か忘れたが、片方の手の手首の先が丸々無い。目付きや風貌も余り好印象ではなかった。

体が不自由ながらも器用な動作に視線を奪われた。湯を沸かす為のヤカンを手首の無い方の手に輪っかを通し、使える方の手で本を並べ、口には咥え煙草。そんな風貌が少年ながらに、とても魅力的な大人に見えた。片腕を不自由にした目の前の爺さんは一体何者で、どんな人生を歩んできた人なんだろうと子供ながらに思った。怪しい風貌ながら魅力のある爺さんだった。

どう言う訳か子供達に好かれると言う不思議な特性があった。子供達を言葉巧みに丸め込むようなインチキ臭い大人のものではなく、暖かさと優しさを感じさせる爺さんと少年の心の交わりだった。

此処で一つの疑問。

 

そもそも子供達は何故、闇屋に行っていたのか?

 

明確な理由があった。闇屋の爺さんと少年の点と線を結んだのは<週刊少年ジャンプ>だった。

テレビメディアでも度々取り上げられるジャンプ黄金世代とは、正に私の世代の人達の事であり、当然ながら私も少年ジャンプに取り付かれた漫画少年だった。闇屋の爺さんは少年達と漫画の話で盛り上がると、店の前に出てきてドラゴンボールの孫悟空がやる必殺技・かめはめ波の動きを真似て子供達を喜ばせていた。

不思議に思っていた事があった。通常、週刊少年ジャンプの発売日は毎週月曜日が基本で、地域によっては火曜日、出版社の都合で、たまに土曜日と言うパターンもあったが、爺さんの店では、いつも毎週土曜日に週刊少年ジャンプが置かれていた。月曜日に読む筈の漫画が2日も早く読めるのは、子供達にとっては大変な魅力だった。だが、正規の本屋ではないので仕入れが少ない。30冊置いてあったかどうかだと思う。当然ながらあっと言う間に売り切れた。なので私自身は爺さんの闇屋で少年ジャンプを一冊も買った事が無い。急いで読みたいと言うタイプの少年ではなかったので、2日後の月曜日で不満は無かった。

今から思うに、爺さんがどういうルートで先行販売する為に仕入れて来たのか、ある程度は絞れる。同業者からの横流しが濃厚だったのではなかろうか。だが、早く入手出来る事に漬け込んで値段をちょろまかす様な事はしていなかった。ちゃんと定価の値段で売っていた。第一、そうでなければ子供も買いに来ないだろう。
子供達から人気を得ている闇屋の爺さん。いつの時代も、そういうタイプの人間を大人達は嫌う。闇屋の爺さんも例外ではなかった。やはりと言うか地元の御偉方と折り合いが付かず、度々、路上で口喧嘩をしていた光景を目にする事があった。子供達は何とも言えない心境だった。自分達が敬愛する大人と、見ず知らずの大人が争っていると言う現実を目の前にして、どうしたらいいのか判らなかった。

爺さんにとって、どれほどの長期戦の日々だったかは知らないが、形勢は次第に爺さんをよく思わない大人達へと傾いていく。子供達は闇屋に近づかなくなっていった。

 

「怪しい店に行っちゃ駄目!少年ジャンプが読みたかったら月曜日に本屋さんで買いなさい」

 

とでも言いくるめたのかもしれない。

所で、80年代の本屋と現在の本屋では雰囲気が違う。今時の本屋のイメージは店内も粛々として、例えるなら図書館の雰囲気に近い。だが80年代の本屋は熱気が違う。本屋で平気で立ち話をしたり、買いもしないのにウロウロする事も日常の光景だった。人の出入りも違う。漫画の単行本も飛ぶ様に売れた。今は多くの人が漫画雑誌は買わないけど単行本だけは買うと言う人が多いのだが、私達の世代は漫画雑誌と単行本も両方買うパターンが多かった。
 

小学生から中学生になった私は、闇屋の爺さんへの興味も全く無くなっていた。

ある雨の日、買い物の帰りついでに闇屋の通りを通ると、爺さんは店の奥の椅子に座り、雨の通りをボンヤリ眺めながら煙草をふかしていた。店といっても長机を横並びに3~4台並べただけの単純な店だったが、以前よりも品数が減った様に感じた。店に来ていた当時の子供達は成長し、何事も無かったかの様に違う楽しみを見つけ、新しい友達を作っていった。闇屋は大人達に責められ、子供も寄り付かなくなった。爺さんは次第に商売をする気がなくなっていった。

店は私が中学から高校へ進学した時には無くなっていた。店仕舞いのシャッターなんて気の利いた物は最初から無いから、そのまんま空き地になっていた。時はドンドン流れ、私は現在47歳になった。元住吉には、たまに行くが、闇屋があった場所はコンクリートの壁になっていた。

爺さんはどうしているのだろう。年齢的に考えても生きている筈はない。こうして書きながらも思うのは、あの爺さんは一体何者だったんだろう。どう言う筋の人だったんだろう。何故、片方の手首だけなかったんだろう。後日談の無い話ではあるが、何故か記憶の片隅に残り続ける興味深い爺さんであった。

アメーバと言うレンタルブログ・サーバーに来て4カ月なんだけど、正直な所、このブログを置くカテゴリーに納得がいってない。やってる事は長文ブログだから、コラムのカテゴリーに置きたいんだけど、探しても見当たらない。だから仕方なく、<小説、エッセイ、ポエム>と言う、その他大勢みたいな総合カテゴリー枠に入ったんだけど、本当に無いのかな?と思ってアメーバの公式ホームページを調べてたら、あった。

<公式ジャンル・カテゴリー>と言う特別枠があって、ある種の資格を得てないと登録出来ないらしい。調べてみたら、登録申請フォームがあって、他人からの推薦ではなく自己申告と言うルールで、月の総合アクセス数、フォロワー数、専門知識を持ってるかどうか、人を傷付ける内容かどうか、エロを扱ってるかどうかをチェックされ、テストされるらしい。そこを突破した者だけが、アメーバが公式に認定した優秀なブロガーに生まれ変わり、コラム枠と言う神聖なる聖域に住む事を許されるそうだ。
つまり、私の様なチンピラ・ブログみたいなのは、下層に位置している訳で、アメーバも<公式>なんて大層に括ってる位なんだから、扱うブログを上層と下層に分けてやってる訳だね。

 

ランキングサイトに登録しているブロガー達は、基本的に競争意識が高くて自分の表現力が、どの程度、世間に通用するのか腕試しをしたい連中。

パソコンかスマホを起動させて、毎日、ランキングをチェックして自分が何位なのかを確認する。その際、間違っても他人様のブログのインポイントのロゴを押す事はしない。敵に塩を送りたくないから。見出しのタイトルが気になっても「無視、無視」と自重して耐え忍ぶ。アウトポイントは興味本位で入ってくる偶然の一見さんが多いので、皆、そんなに気にしない。

ランキングサイトに登録しておきながら「競争意識はサラサラ無い」なんて涼しい言葉は通じない。だったら自力で人気取りを頑張ればいい訳だから。
 

私も含めてブロガーと言う人達には、他人様のブログ内容を誹謗中傷してはならないと言う暗黙の了解がある。そこに競争の概念が出て来るから、よほど身近な友達でもない限りブログ同士で仲良くしようとは思わない。

前にも書いたが、フォロワー数とは何かと言うと、自分の意思ではどうにもならない<偶然性の自己顕示>なので、この数字が多いほどマウントを取れると思い込む。アメーバの公式ジャンルブログの上位を覗きに行って、フォロワー数を見に行ったら4桁、5桁は当たり前の数字になっていた。凄いなと思う反面、おそらく、この数字の大半が<あやかりたい人達>で、数字の多いブログに寄生したい従属意識の強いブロガー達なんだろうなと思う。

だからって、従属ブログをクリックすると言う行動には至らない。期待してるほど人様は親切じゃないって事になる。それが無駄だから辞めろとは言わない。アクセスを挙げる為の手段として確率を上げる事にはなる。0が1になるならそうしようと言うポジティブな思考。それはそれでいい。

ブログ運営って飲食店と似ていると私は思っている。

ランキング上位のブログを覗いて見ると、大した内容じゃないし、大した事はやってないなと感じる。派手な事やってる訳でもないし、特別に文章も巧い訳でもない。個性が強い訳でもない。読ませる事が目的ではなく、来させる事を目的としている。と言う事は、此処でなければ無いと言う何かがある。需要とはそうやって生まれてくる。此処には人が集まる何かがあると感じさせれば、そのブログは一気に軌道に乗っていく。

ブログは地道に頑張って結果が出るものではなく、そこに何かが無ければ何年頑張っても、毎日どれだけの膨大な量の内容をアップしても結果が出てこない。これと言う売りも無く、メニューのどれを食べても普通だなと思うと、人はその店に来なくなる。ブログも全く同じ理屈が成り立つ。
 

ブログの上層と下層って言う書き方をしたけど、やっぱり上層のブログ見てると御上品だなと感じる。この前話題にした、最近の傾向として美談が好まれると言うのは本当だった。限りなくライトでダークさの欠片も無い。人様のニーズに答え、当たり障りなく人様に紹介出来る<素敵なブログ>なんだろうなと思う。

だが完全無欠ではない。上品には下品が出来ない。目立つ大通りは歩けても裏道は歩けない。人生の豊かさは裏道をどれだけ知ってるかどうか?と説いた、ある作家が居た。私はその作家に好意を持った。それを想い出した時、上層は嫌だな、下層も中々居心地が良いなと思った。

KDDIの大規模通信障害。ザックリと分けると<電気>と言うカテゴリーの話だと思うんだけど、この事件で判った事って都市社会の脆さだと思う。
誰もがスマホと言う超高性能・携帯機を片手に持ち、電気と通信が途絶えると天変地異の如く大パニックを起こす日本と言う国。先頃の大規模節電も関連するけど、自分自身の日々の生活を振り返っても、とにかく電気に依存している。電動歯ブラシ、トイレのウォシュレット、給湯器、電動髭剃り、テレビ、パソコン、ゲーム、音楽機器・・・まだまだありそうだけど、とにかく電気、電気、又、電気と言う環境。これだけ便利な電気は、人間社会に、どんな影響を与えてるんだろう。
都市社会とは何なのか?
都市社会って本当に人間を幸せにしているのか?
人々は本当に過剰で便利な都市化を望んでいるのか?
突き詰めて考えれば、都市化とは人間が要らなくなる社会。人間の代わりに社会を支配するのはロボットと電気。スマホを使った便利なシステム機能も、人間を通さずに素通りし、物事を進行させる事に需要がある。その心は面倒臭い。知らない人と接するストレスを感じたくない。

都市化が大好きな人の特徴。それは困ってない時は構わないでくれ。困ったら助けてくれと言う御都合主義な精神。SNSに目を通せばネットサディストが蔓延し、人様を虐め、陥れ、辱める。日本が<侍の国>だと煽り立てるのはメディアだけで、今の日本の実態は侍どころか、小悪魔みたいな連中で溢れている。
 

誰が何と言おうと都市化は止まらないし止められない。便利と引き換えに人は人としての何かを失っていく。薪を焚いて風呂に入るなんて生活に戻りたくないだろうし、ウンコしてケツの穴を拭く前に洗浄する事が当然になった御時勢、泥臭そうな過去には戻りたくないのが国民の民意なのだろう。

そのくせ、センチに浸る輩がタイムスリップするなら過去に戻りたいと言い出す。この戻りたいと願う人の心は、過去の辛い状況からではなく、今現在の<都合のイイ自分>を過去に持って行きたがる。あくまでも都合の良くなった自分を過去に持って行きたい。

ウンコをする時もボットン便所じゃ気が済まない。ウォシュレット付きの洋式便器でウンコがしたい。つまり<豊富な電気と言う都市化>と言う現代で身に着けた必殺技を持ってタイムスリップしたいのだ。
 

人間の夢の一つに、ロボットと本格的なSEXをしてみたいと言うのがある。

ロボットとのSEXのメリットって何があるだろうと考えてみる。まず、細かいマナーに拘らなくてイイと言うのがある。アダルトビデオの企画物に「会っていきなりSEX」と言うのがある。男優と女優の観てられない下手糞な演技を取っ払って、女優が登場した途端に男優がモロダシしながら画面に入って来て、すぐにSEXを始める。これって若い人が観ると新しいって感じるかもしれないけど、実の所、似たシチュエーションは昭和の時代にあった。それが裏ビデオである。

モザイク無しのガチ嵌めSEX。この裏ビデオもパターンが決まってて、何処かのホテルの一室を使って、何処からともなくバスローブを着た女がベッドに座っている。間もなくして全裸の巨根男優が現れて女の隣に座って押し倒して始まる。こういう展開は、世間一般の生身のSEXでは実践出来ない。だが、ロボットなら出来る。

「おい、今すぐ服を脱いで俺の所へ来い」

「かしこまりました」

これで準備オーケー。
この際、多くの人が考え込むのはチンコとマンコの結合についてなのだが、これは興味深い。男側からすればロボットのマンコって、どんなマンコなんだと思う訳で、もしかしたら何かの拍子にネジ切られるんじゃないかと言う恐怖心がある。結合の前に咥えさせる際もパワフル過ぎる顎で嚙み千切られるんじゃないかと恐怖する。逆に女側だと、高度を保った立派なモノ自体は大人のオモチャと言う認識でいいだろうが、問題はピストンのパワーと速度で、鬼突きで気持ちイイどころか子宮を突き破られるんじゃないかと言う怖さがある。
別にSEXに限らず、実の所、人間がロボットを当てにした生活をする時、一番恐怖するのはロボットの力加減なのである。マッサージも家事も炊事も全部当て嵌まる。ロボットと人間の意思の疎通が難しい。それはシステムやスイッチの段階レベルで決められるものではなく、加減と忖度の問題であり、そこまで細かく突き詰めないと人間とロボットの共存は非常に難しい。

 

2018年、フランスが制作した素晴らしいテレビゲームがプレイステーション4で登場した。「デトロイト ビカム ヒューマン」と言うアドベンチャーゲーム。

ザックリと概要を説明すると、テーマは人間とアンドロイドは共存出来るのかどうか?と言う内容。物語は3体のアンドロイドが人間と社会を相手に生活を育んでいく。物語は一本道ではなく選択肢で分岐してマルチエンディングを迎える。何処でどういう行動をし、誰とどう触れ合ったかが重要な局面で、細かく枝分かれしていく。

私はかなり、このゲームをやり込んだ。ネットの攻略には頼らず、何度かのバッドエンディングを経験し、ハッピーエンドを目指した。重要な局面での選択肢で、かなり悩まされる。その選択で次の展開が決まる。特に操作する男女三人のアンドロイドの中の女型の物語には引き込まれた。

女型のアンドロイドは最初、ある家庭の家政婦ロボとして登場し、その家には一人の幼女が父親と住んでいる。父親は暴力的であり、家政婦ロボと幼女の娘を傷付けようとする。危険を察知した家政婦ロボは幼女を連れて放浪の旅をする。実は幼女もアンドロイドだった。雇い主の暴力男は、幼女のアンドロイドを娘として生活を共にしていた。旅の中で、家政婦ロボは母性に目覚める。アンドロイドの幼女も母親が欲しかった。二人に疑似的な親子関係が芽生える。旅の最中で知り合った黒人型のアンドロイドは言う。

「お前は母親になりたかった。この子も、お前に母親を求めた。それで良かったんだよ」

ゲーマー歴は40年だが、ゲームで感動して涙し、これだけ緊張させてくれるゲームは素晴らしかった。
 

深夜のラジオ番組を聴いていたら、最近の傾向として辛口批評や批判を嫌って、美談しか好まない人達が増えているのだそうだ。

20年、文章を書いてて感じる事は、批判を書くのは簡単だけど、美談を書くのが難しいと言う事。何故、美談は難しいんだろう。その美談は大体が赤の他人を褒める事なんだけど、気付いた事って言うのは、批判や否定を嫌って肯定と美談しか好まない人の特徴として、集団意識が強くて仲間外れを怖がり、人の眼を気にし過ぎる傾向があると言う事。

SNSでは、気にも留めてない人を無理してでも褒める。それで好感度を上げる。ブログもツイッターもインスタも全部そう。要は数字が欲しい。数字の為なら多少の我慢はしようと言う心構え。

 

SNSでは芸能評論は人気のカテゴリーなんだけども、芸能批評も、この20年、随分やって来た。以前、運営していたブログでは200近い芸能評論の記事を挙げていたのだが、思う所あって此処では敢えて封印している。

最近、意図的に芸能批評を控えめにした。素人の芸能批評は、結局の所、好き嫌いを基準に書く。自分のお気に入りは褒めちぎる。嫌いな奴は徹底的に痛めつける。嫌いな奴が、どんなにイイ事をしても褒める気が無い。認めようとしない。気に入った奴には、反社会的行動も個性の一つとか言って寛容になる。まともな芸能批評って何処にあるの?って感じ。言い換えれば、芸能批評そのものが、まともなコンテンツじゃないと言う事
 

こういう書き方をするから私は好かれない。大衆に好かれるタイプの書き手ではないんだろうなと言う自覚がある。

だがメリットもある。

人目を気にしないで自由に書ける。

人の眼と数字を気にしながらブログやってる人とか見てると気の毒だなと思う。本当に思ってる事、感じてる事、伝えたい事、表現したい事・・・素直に書きたい事を綴れないって言うのはモドカシイだろうなと思う。無理して媚びて、フォロワーの数で優劣を競いあって、その先に何があるの?そのフォロワーも気紛れで出たり入ったり。

人気取りって自分の思うに出来るのか?と言えば、ハッキリ言って出来ない。自分の作りモノに対し、どう評価されるかって言う「他人の感情次第」なんだから、作り手側の意思は反映されない。

人気取りに奔走して困ってる人に言いたい事って言うのは、自分が悪いんじゃないんだよと言う事。ベストを尽くして作りましたって言うなら尚更の事で、人気を取るって事は全くの別次元の問題。

テレビなんかでも目にするけど、「どうやったらフォロワー増えるの?」ってやるけど、増やしてどうすんの?フォロワー増やしたって芸能界なんて入れないよ。

テレビ朝日の長寿番組「朝まで生テレビ」

此処数年で偉い変ってしまったなと感じる。論客達が発言を遮り、言葉に言葉を重ね、怒号が飛び合い、怒鳴り合う。あの熱狂は何処へ行ってしまったのか。この流れを良しとせず、ぶった切った一人の新生の論客が現れた。その名は国際政治学者の三浦瑠璃
ある月の朝生で、番組終了間際に三浦はこう言った。

「イイ歳したオジサン達が大声出して怒鳴り合って、今日は不毛な回でした」

三浦からすれば、これまで自分が視聴者として観ていた朝生は不毛地帯だったようだ。三浦瑠璃がマスコミに露出するようになり、世間から認知される様になって、一番喜んだのは田原総一朗だった。

自分の愛弟子が独り立ちした様な感覚。実際は師匠と弟子ではないが、田原には「三浦を世に出したのは俺だ」みたいな感覚があり、事実、朝生が無かったら三浦も出て来れなかっただろう。
 

どんなテーマの回でも必ず参加している三浦瑠璃。今でこそ自分の席で腕組んで余裕のにやけた表情で他の論客を論破していく三浦だが、出たての頃は逆だった。自分の弁論が他の論客に論破される。その度に、それを察知した田原が話を逸らして流れをぶった切る。毎回の様にこんな事を繰り返しだった。

回が増す度に三浦瑠璃の苦手な論客を番組が排除していった。結果、今の朝生は三浦瑠璃の番組になってしまった。今の三浦は只の論客ではなく、番組進行まで口を出す様になった。番組中、耄碌(もうろく)した田原の進行が滞ると、三浦が横から出てきて舵取りを始める。田原との距離も近くなり、まるで豊臣秀吉と側室の茶々の様なズブズブの関係になった。
テレビ朝日本社は、特別、三浦瑠璃に対する思い入れはない。だが、朝生スタッフと田原総一朗は違う。論客以上の存在。例えれば朝生のファミリーとして迎え入れたい。やがて来るであろう田原総一朗の司会引退。問題は後継者を誰にするのか?それを決めなければならない。

頑固でひねくれ者の田原総一朗は外野の連中が幾ら辞めろと貶しても辞める気はない。ますます続けようと頑張る。「死ぬまでやります」とか「仕事しながら死にます」とか、そんな発言が口癖の様になった。

田原総一朗に一つの考えがある。自分の後継者は三浦瑠璃しか居ない。無理な事ではない。大まかな大体の流れは把握してるし、テレ朝のアナウンサーがサブとして控えてくれてるし、場慣れして物怖じもしなくなった。三浦合わせの番組にする以上、三浦が苦手な論客は参加させない。三浦がまだ処女だった時代からずっと見続けてきた朝まで生テレビ。その司会が出来ると言うならば断わる理由は何処にもない。望む所だ。

三浦瑠璃の良い所を挙げると、公権力に対する反抗精神だろう。力勝負はしない。あくまでもデータで勝負するタイプ。徹底したデータ収集と統計で相手を怯ませる。やり口は論破王のひろゆきと何処か似ている。ひろゆきと違うのは庶民に寄り添った情で、ひろゆきの場合、弱い奴、才能の無い奴は要らないから死ね!と言う突き飛ばした言い方をする。弱者を救えと言う三浦瑠璃と、弱者は排除しろと言うひろゆき。この辺が似た様で違う。
テレビに出過ぎているせいか、最近、三浦瑠璃はこんな事を聞かれる。

「政治家になりたいんでしょ?」

こう聞かれる度に三浦は、全然その気はないですと答える。厳密には「今は、その気はない」なのかもしれない。と言う事は、遠回しに「政治家になります」って事になる。
興味が無い筈はない。あって当たり前なのである。年がら年中、政治経済の事を考えてれば、ああしたい、こうしたいと言う想いはある。想うだけでは足りず、自分でやってみたくなる。自分の考えと研究成果を政界で試してみたい。

同じく国際政治学者を名乗った舛添要一と言う男は政界に進出し、東京都知事にまで登り詰めた。三浦にとって舛添は尊敬する先輩ではないが、その人生の経過には大いに関心がある。