別府の裏山に志高湖がある。妻の実家に寄った後、そこから5分のこの湖を一周する散歩に出かけた。枝垂れ桜を除いて大半は花びらを落としていた。一周を終わりかけた湖へと向かう斜面に水仙の群生が突然目に飛び込んできた。何度も来ているのになぜ気づかなかったのだろう。ワ-ズワ-スの『水仙』の出だしにあまりにも似ているのでここで紹介したい。
谷や丘を越えて漂うひとひらの雲のように
ひとりさまよっていると
思いもかけずひと群れの
黄金色に輝く水仙が現れた。
湖のほとりの木立の下に
そよ風にゆらゆらと踊っていたのだ。
(まろ訳)
この詩はさらに三連(一連6行)が続く。この叙景を俳句で表現してみると、
水仙や黄金の輝き山笑う (まろ)
というのもありうる。
問題は季語。水仙は俳句では冬の季語。そうではあるが、私の体験では水仙はほぼ春の花。季語に敬意を払いながらも現実に即して自由に詠うことがあっても良いと思う。使い分けをしたい。
さて叙景は続き、三連から四連にかけてたましいへの語りかけが始まる。
(四連)
所在なく物思いにふけり
ソファーに横たわっていると、
孤独の祝福となる内なる眼に
あの時の水仙の光景が蘇ってくる。
すると心は喜びに満ち溢れ
水仙とともに踊りだす。
このあたりは短歌で言い換えることは可能かもしれない。たとえば、
風泊まり
露路の四畳半
独寝(ひとりね)に
いつかの水仙
照る陽に踊る
(まろ)
自然の美は永遠の輝きを失わない。