修二会・懴悔(さんげ)と祈りの構造 東大寺講演録 | まーりんのまりんエッセンス

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修二会は 一般に

A) 旧年の穢れを祓う懺悔(さんげ)と、

B) 新年の国家の平安や豊穣の祈願

の悔過(けか)の法要行事

・・・と説明されるが、正直いってよくわからん。仏教用語も意味わかってないし。

 

修二会のなかでもずっと気になっていた

東大寺の修二会

その本来的な意味、そこから読み解く行事の構造を、今年からぼちぽち追いっていく。

 

きょうはその第一弾。

 

 

東大寺の

「修二会行法を巡る① 別火 清浄の不思議」

と題した講演会にいってきた。

 

お話は橋村公英管長。

場所は金鐘ホール。

 

 

 

 
 
 

本やネットでは手に入らない、

修二会のこと

現場の生の体験談を伺った。

 

 

【辰年といえば】

東大寺の大仏開眼は辰年のこと

同じ年の二月に、最初の修二会がおこなわれた

ということで、東大寺に縁の深い年回りとのこと。

(龍も東大寺と関係あるんだけどね、とおっしゃったが詳しくは語られなかった)

 

 

【手向山八幡と二月堂の関係】

むかし東大寺八幡といった手向山八幡宮に、以前いた神主さんは、筮竹を使って姓名判断などをやっておられた。お伺いを立てたひとは、そのまま二月堂の石段のところまで行き、玉垣に刻まれた奉納者のお名のなかに、さきほど占術で選ばれた文字を含む名前がないか探す。そこから、よいと思うお名を頂く。すなわち奉納した方々というのは、それだけ経済的に余裕があって、寄進をするだけのよいことが起きたはずだから、その運にあやかろうというわけ(名前もらい)。頂くお名前が決まったら、そのまま二月堂で祈祷してもらう。

歳替えというのもあった。厄年を避けるために、生年を替えるという、スゴ技。これも八卦かなんかで、八幡の神主さんがみていた。生まれ年をどう変えるか決まったら、二月堂のお護摩で祈願。空亡願(くうぼうねがい)というのもあった。

 

 

【不思議なこと】

二月堂のあたりは観音山と呼ばれ、神隠しの山として知られていた。

管長ご自身の知っている範囲でも3人がいなくなって(ある日ふっと)、手がかりが全くつかめないまま。

二月堂の壇下から出てきた白い手につかまれたり、病をおして観音様にお参りにいったら二月堂が皓々と照る月光に振動していたなどの、夢のようだけど印象に残った出来事。

 

 

 

ここから

A)懴悔(さんげ) の説明に入っていきます

 

 

【仏教における清浄】

諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教

(悪をせず、善をなし、自分の意(こころ)を浄くする、これがどの仏にも共通する教えです)

 

というわけで、

清浄は、仏教で基本的な教理。

 

自性清浄心、客塵煩悩染

(人間の心は生まれながら清浄、なんだけども

外から取りついた塵のごとき煩悩に染められ、損なわれている)

 

 

※煩悩は、ノウイング(アトランティス、レムリアの叡智)でいうところの葛藤(conflict)とおなじ。

まるで曇ったメガネのようにマインドを曇らせ、本来あるものを見ることができない/本来持っているものを表現できない状態にする。

 

※塵が曇らせる⇒クリーニングが必要

塵をを拭い去って、もとの輝きや本来の働きを取り戻すように、

煩悩を清浄して、清い心に戻し、仏法が受け入れられる状態にする

葛藤を手放して、心をニュートラルにし、魂との通路をひらく

 

※どの教えも同じアナロジーでいける。

クリーニングが基本のキである。

 

 

華厳経に手洗いと口を漱ぐ作法にあるように、

清めることが解脱につながる。

 

※やっぱり仏教って深い

スピリチュアルが発見したようなことは、2千年以上前からわかってたのね。

※橋村管長は、手洗いと口を漱ぐというのが、神社で参拝前にやる所作でもあるので、神道とのつながりを感じるとおっしゃていた。

 

 

【戒と懺悔と清浄】

受戒し、持戒を心がけるようになると、疎かにしてきたことに気づく

これまで害虫は見つけたら即殺していたとすれば、受戒後同じ場面でどうするか。また無意識の反応にまかせて行動するか、自分の意志で行動を選択するか。

 

※橋村管長は、この意識的な判断を「いまがそのとき」とおっしゃっていた。

ノウイングではこのことをreaction(反応)とresponse(意識的応答)と呼び、トレーニングにより瞬間瞬間を自身の選択=responseにより生きることを教えている。

 

 

戒を十分守れなかったとき僧侶や本尊に告白する=懴悔(さんげ)

懴悔(さんげ)によって清浄が保たれる

 

※キリスト教では懺悔(ざんげ)

※懴悔(さんげ)とは、戒を守れなくてごめんなさい、といった謝罪や罰ではない

ここが非常に重要で、

懴悔(さんげ)によって清浄が保たれる、を言い換えると

懴悔(さんげ)は清浄を保つために必要な行法ということ。

すなわちこれクリーニングである。

 

※懴悔(さんげ)=戒を破ったことに対し、おとしまえをつける

過去にこだわる心=煩悩=葛藤を処理する。

清浄を保つ=「いまここ」に居続ける。

 

※水の特性や魂の重さを測定し、晩年は空海のエネルギーと対話した川田薫先生は、高野山大学で密教を修めておられ、「人生を現在から過去に遡って思いだす行」についてご著書に書かれている。

何歳から何歳までと決めた時間区分に従って毎晩、これまでの人生と直面する。人にされた嫌なことも、人にした嫌なことも思いだされる・・・最もつらいのが、自分が人になした意地悪。布団の中で歯を食いしばって「ごめんなさい、ごめんなさい」と悔悟の念が湧く。些細な出来事でも自分に言い逃れしてはいけない。

これが何に効くかというと、通常の意識レベルから無意識のレベルまでに蓄積された罪悪感や後悔、心を捉えて淀ませる過去の情報を処理し、過去に自縛することをやめ、じゃあどう生きればよいかという点に心を集中させ、「いまここ」に意識を向けるためにある。

誰にも言えない罪を、神さまとか神父や僧に打ち明けてスッキリする、というのも同じことを言ってるわけだけど、本質的なことは、心を、過去や未来に向かわせないためにあると思う。

 

 

・・・さてこうして

持戒⇒懺悔 を繰り返すと、

自らの心身が何をなしているのか(正体)気づいて、自分が何をしているのかどんどん自覚できるようになる(トレーニングによって自動操縦の仕組みに気づき、適宜修正を入れれるようになる)

 

知って⇒気づいて⇒判断し⇒行う

※レスポンス(意識的な応答、選択した行動)を現実世界に返す

これによって心身がさらに清浄に向かう。

 

 

 

以上がA)懴悔(さんげ)の説明。

こころのクリーニング、こころのトレーニングシステム。

 

 

修二会の一般的な説明では

A) 旧年の穢れを祓う懺悔(さんげ)と、

B) 新年の国家の平安や豊穣の祈願

の悔過(けか)の法要行事。

 

この、過ぎ去った旧年の穢れを祓うこと、

という漠然とした「お掃除しましょ」という観念でしかなかった懺悔(さんげ)が、東大寺管長というプロの説明によると

 

葛藤や煩悩のクリーニングであって

解脱、悟り、覚醒、エンライトメントの手段として重要で、だからこそ基本の

真剣にやるべきものだというのだった。

 

 

※わたしのつくる新月/満月のエッセンスでも 乙女座などの浄化にすぐれる地味なエッセンスは、いかに重要性を強調しても地味なだけに人気がなく、宇宙とつながるとかの派手なエネルギーのエッセンスは人気があって、正直ガッカリなのです。

あ。もしかして、わたしが十分に説明できてないのかしら。気づかんかったわ。実用では前者すっごく使えるんだが・・・だがしかし、みよ!

自分のエネルギー状態を変えるのは

1に浄化(クリーニング)、2に浄化なのだよ~。ふふふ。

 

 

 

以上を受けて、つぎは

B) 来るべき新年の国家の平安や豊穣の祈願

を説明しよう。

 

こうして保たれた清浄さ、というのは

功徳というちからを生む。

 

功徳は、清浄な本人だけでなく、他者や周囲(国、自然)に振り向けることができる(廻向)が、功徳がどこに廻向されるかは人知の知る所ではない

 

⇒そこで祈り。

観音力、威神力により、天下泰安、風雨順時、五穀成就、万民快楽、個々の除災招福などに果実が及ぶことを本尊に祈願。

※本尊のパワーで功徳をdirectする、功徳の向かう方向に道筋をつける

 

 

その法会を、悔過会(けかえ)とよぶ。

 

 

悔過会は

懺悔による清浄を通して、

自他~国家~自然にまで及ぶ除災招福を祈願する法会として発展。

 

本尊により、十一面悔過、薬師悔過、阿弥陀悔過など、奈良~平安時代から盛んにおこなわれた。

 

清浄が、悔過会を支えている。

 

 

※清浄が功徳というパワーを生む

クリーニングしてほぼ煩悩・葛藤がない状態になると、仏陀やキリストが示したような超常的なちからや、シンクロがおきまくるなどの現実変容が可能になる。同時に、他人の罪障を引き受けることもできる。自分の机の上が片付いたら他人のファイルが雪崩れてくるようなもので。

こうした、なんやよくわからん、”よいことの種” みたいなものが功徳で、見えないけど確かにある。

 

※しかしその功徳がどこでどのようなかたちで発現するかは、基本的にはわからん。

寄付したけど使い道はわからん、みたいな。

そこで、人知でもって、使い道を指定しよう、というのが観音さまや仏さまに祈るということ。

 

※でもって悔過会とはな、

A) 練行衆という修行者、清浄というのがどんなことで、われわれの心身に何をもたらすかを知り尽くしたプロがな、われわれ市井の人間に成り代わり、心身をフルに使って懺悔(さんげ)して、期待できる以上の、よりおおくの浄化を意図的に進めることによって、より多くの功徳を集める。

B) 練行衆は清浄とともに本尊の威力を称揚もする、そして本尊をパワーアップさせ、集めた多くの功徳の向かう方向を、「天下泰安」などに強力に方向づける。

磁性流体のすっごい太い流れを思う方向に曲げようと思ったら、ものすご大きな磁界をかけないかんでしょ、そんなイメージ。そうやって、功徳の流れの向かう先を、好きな方向に制御する・・・そういう、国家的な修法のことなんやな。 これが国家仏教の面目躍如なんやろうなあ。

 

 

さて

 

魔術とか呪術ではひとつひとつのステップをきちんとクリアすることが重要なんだけども、

悔過会では 清浄が、注意深く守られる。

 

それは別火(べっか)がよく説明している。

 

別火(べっか)とは火を分ける

悔過会を務める練行衆は清浄を実践してその資格を得なければならない

また清浄を保つために、

他の者たちとは火を別にして生活をする

さらに水による浄め、祝詞による浄め、結界によるシールド

そのなかでの、修行

浄化による浄化を重ねてゆく

 

 

 

最後に

橋村管長のメッセージとして

 

どの戒律でも「殺さない」から始まる

それは人間にとって命は何よりも一番大切だから

 

でもそれは 心が命を自分のものだと思って執着しているのではないか

その執着は命の清浄さをそこなっている

 

しかしよく考えてみれば

 

心 は命の働きであって

本来は命が根本

 

命を自分のものと考えていくと

その心に追い詰められることもある

 

命は預かりもの(自分のものではない)と考えてみたら・・・どうだろう

 

東大寺修二会のお水取りは

若水汲みのことだと言われる

若水とは若返り、命を新たにすること。

 

 

 

※命は自分のもの、死ぬのが怖いというのも、心の執着。

これらは煩悩・葛藤。

 

※お水取りの若水による命の若がえりは、

個々人の美容的若返りではなく

わたしたち人間と動植物を含めた世界にいのちあるものすべてがつながっている生命力(手塚治虫の「火の鳥」のような宇宙生命体、ひとつのもの)を賦活すること・・・なのだと思う。

 

これが終わると、奈良に春が来る。

 

※そのような、

とても大きな呪術というか祈りの修法が

これだけ長いあいだ続けられていることを再認識。