人生の目的 「ツインソウル 死にゆく私が体験した奇跡」飯田史彦著
真の成功 「ツインソウル 死にゆく私が体験した奇跡」飯田史彦著
のつづきです
脳内大出血を起こし
肉体から離れた飯田氏(の魂)は
あちら側の世界につながり、
想像を絶するほどに高い波調をもつ「究極の光」から
人生の評価基準となる3つのことを問われます。
その3つ以外は、大切なことは何もない・・・
そこを起点として
飯田氏は「究極の光」に
魂とは、宇宙とは
物質世界でこの宇宙の真理を理解することはできるのか・・・・と
質問していくのでした。
そして「究極の光」の正体について質問すると
なんと光が飛び込んできて一体化し
その瞬間、
じつは目の前に投影された「本当の自分」であり
しかもそれは「宇宙」そのものと同じであったことを悟るのでした。
同時に、周りをいくつもの光に取り囲まれていることに気づきます。
彼ら同志との対話がはじまります。
*****
(引用ここから)
私「人生とは、何なのですか?・・・・・・・つまり、人として人生を生きるというのは、どういうことなのでしょうか?」
光「物質世界のものに例えると、山を登ることに等しいでしょう」
その言葉を聞いたとたん、まだ完全には死んでおらず、人間的な「皮肉っぽさ」を残してしまっていた私は、思わず、失礼な言葉を返してしまいました。
私「それは、人間社会でも、すでに大昔から言われていることであって、ぜんぜん目新しい説明ではありませんよ」
しかし、ほんのりと黄色がかった光は、怒ることも叱ることもなく、にっこりと微笑むイメージのままで、ますます丁寧に答えてくださいました。
光「私たちは、人間社会でいう太古の昔から、いつでも、同じたとえを用いて、同じメッセージを伝えてきました。 したがって、あなたが求めてらっしゃるような、目新しい教えなど、なにもありません」
私「・・・・・・・」
光「人間にとって目新しいと感じる教えがあるとすれば、それはみな、人間が脳と論理によって考え出したもの、つまり、人間の言葉でいう「哲学」や「思想」です。 それに対して、私たちがこの光の次元から発してきたメッセージは、太古の昔から、何ひとつ変わってはいません。 この次元には、物質世界のような時間の観念はありませんから、昔も今もなく、古いも新しいもないのです」
私「なるほど・・・・失礼しました・・・・」
光「謝ることはありませんよ・・・・いま、あなたは、訓練しているのですから」
私「はい」
光「私たちが、この光の次元から発しているメッセージは、物質世界でいう太古の昔から、はるかな未来まで、いつの時代にも、まんべんなく届いています。 光の次元からのメッセージには、目新しいものなど、何ひとつありません。 したがって、あなたが、もしも人生の真理を求めるならば、その回答は、はるかな昔から説かれている教えの中にこそ、存在することでしょう。 すなわち、『さまざまな教えごとの相違』に注意を払うのではなく、『さまざまな教えを超えて共通する基本原理』にこそ、着目しなさい。 それこそが、光の次元からみた、純粋な『真理のかけら』なのです」
私「それでは、はるかな昔から説かれているように、人はひたすら世のため人のために生きるべきなのでしょうか?」
光「いえ、そうではありません。 教えは、時に、人間的な解釈を加えられ、誤解されてしまいます。
人は、決して、世のため人のために生きるべきではありません」
私「えっ!?・・・・では、誰のために?」
光「山は、他の誰かのために登るのではなく、自分のために登るのです」
私「自分のため?」
光「それぞれの人によって、登るべき山が違っています。 高い山もあれば、低い山もあります。 なだらかな山もあれば、険しい山もあります。 美しい花に覆われた山もあれば、密林の茂る山もあるでしょう。 岩や断崖もあれば、ときに絶壁をよじ登ることにも、迫られるでしょう。 小川や滝もあれば、ときに、木の実や果物にも恵まれることでしょう」
私「はい・・・・おそらく・・・・」
光「ご存知のように、どのような登り方をするのも、すべて、それぞれの魂の自由です。
大回りしながら山頂を目指すもよし、一直線に駆け上がるのもよし・・・・のんびりと休みながら登るのもよし、わき目もふらずに走り続けるのもよいでしょう
どのような山を、いかなる登り方をしようとも、登り終えたときの価値には、差がありません。 そして、そのような山であれ、それぞれの魂が自分で選び取った、自分に最も適した山であることを、忘れてはいけません」
私「なるほど・・・・」
私「・・・しかし、『世のため人のために尽くす』ということは、『自分以外の人々を愛する』ということですから、それこそがまさに人生も目的ではないのですか?」
光「そのような考え方こそが、理屈にとらわれた、いかにも物質世界的な思考様式といえるでしょう」
光「山は、自分のために登るのです。
世のため人のために尽くすというのは、『正しい登り方とは何か』を論じる問いであって、『山を登る目的は何か』を問うものではありません。
山は、世のため人のために登るのではなく、あくまでも、自分自身のために登るのです。 その登り方として、愛に満ちた登り方もあれば、愛の乏しい登り方もある、ということに過ぎません」
私「それでは、『世のため人のために、多くの人々を愛しながら生きる』というのは、人生の目的ではないとしても、人生を生きる望ましい方法ではあるのですね?」
光「その言い方は、正しくもあり、間違いでもあります。 何より大切なことは、まず、おのれの魂が、その人生を生きることを選んだ、その人物を愛すること・・・・・・つまり、自分自身を愛するということだからです」
私「なるほど・・・・愛の対象には優先順位があって、まず自分自身を愛し、その次に、他の人々を愛するよう努力すればよい、ということなのですね?」
光「そのような考え方もまた、理屈にとらわれた、いかにも物質世界的な思考様式だと言えるでしょう。 真理は、あなたが論理的に整理しようとするよりも、はるかに単純で、純粋なものです。
愛の対象には、優先順位などありません」
光「真理とは、きわめて単純かつ純粋なものです。
人生の目的とは、自分のために生きること・・・・・・より正確に表現すれば、『人生の目的とは、自分の成長のために、自分なりの学びを積むこと』だといえるでしょう。 他の誰のためでもなく、すべては自分のためなのです。 しかし、真に自分にとって価値のある学びを積もうとするならば、その学びの過程そのものが、ごく自然に、そのままで、世のため人のためになることでしょう。
したがって、『世のため人のために生きよう』と考えるまでもなく、まず『真に自分にとって価値ある人生を生きよう』と考えるだけで、『自分のために生きること』が、そのまま『世のため人のために生きる』ことにもなるはずなのです」
光「そして 望ましい生き方について考えるとき、その答えもまた、きわめて単純かつ純粋なものです。
『望ましい生き方とは、ただ、自分自身を愛して生きること』だからです。
なぜなら、真に自分自身を愛している人ならば、ごく自然に、そのままで、ほかの人々を苦もなく愛せるに違いないからです。
誰かを愛するという行為は、相手のためではなく、真に自分自身を愛している人が、自分自身のために、ごく自然に行うことのできる行為なのです」
(引用ここまで)
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どうぞよい一日を
七色の魔術師まーりん
LOVE&JOY
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