人生の目的 「ツインソウル 死にゆく私が体験した奇跡」飯田史彦著 | まーりんのまりんエッセンス

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Oscillococcinum

(野生の鴨の肝組織からつくられたホメオパシーレメディ、インフル用症状にあう) 

をとると、午後必ず寝てしまふのでした汗

 

 

レメディとったら寝てしまうのは

ヒットしてる証拠

 

 

いま風邪をひきかけてる感じの状態なので

ここで押しとどめる!

ためにレメディ使っています。

 

 

そんななか、

本の整理をしていて 手に取ったのが

 

 

 

「ツインソウル 死にゆく私が体験した奇跡」

飯田史彦著

 

 

 

人の生きがいとは何か

 

経営学の視点から問うてきた飯田氏が、

臨死体験を通じて得た「貴重な学び」を世に送り出したのが

この本でした。

 

 

 

 

2006年第一版、

今また、読み返して

 

あるとき 半分夢のなかで体得した

”時空の歪み”についての真理が

ここに書かれている(!)のを見つけたことなんかも

思い出しました。

 

この時空のシステムに関しては、

目をつぶって寝ている頭の中でみたアニメーションと

どこからか聞こえるナレーションで説明を受けた、と記憶していて

 

その内容については

それ以前も、それ以降も

他の誰からも聞いたことがないものでした。

 

それが、

この本のなかに書かれていたのでした。

 

 

 

 

 

飯田氏は2005年12月28日

脳内出血で緊急手術を受け、後30分遅れていたら間違いなく死んでいたという生死の境にあって、

魂は「生まれる前」の次元に戻っていました。

 

そこで、「究極の光」や同志と呼ぶ光存在たちと対話し

飯田史彦という人間としての人生での疑問を確認していきます。

 

 

 

 

*****

 

 

(引用ここから)

 

 

 

 ふと気づくと、私の前に、ものすごくまぶしい光が、現れてきました。

 

(より正確な表現をすれば、「私は、何らかの力によって、自分の波調をはるかに超えると思われる、想像を絶するほど高い波調の次元に、つなげてもらっていました」という言い方になります。 しかし、こんな表現ばかりしたのでは、あまりにも読みづらいので、これ以降は、わかりやすい物語風の表現を用いながら、ご報告していきます)

 

 

 私は、その波調のあまりの高さに、驚きました。まさに「究極の光」(極限までまぶしい光)と呼ぶしかない、唯一無二の存在であるかのように、感じられました。魂(意識体)の姿に戻っている私には、肉体的な「目」はありませんでしたが、もしも「目」があったとすれば、あまりのまぶしさに目がくらんで、目を開けておくこともできなかったことでしょう。

(物理学的な用語として「波長」という単語がありますが、ここで述べる報告は、物質世界ではなく精神世界での経験であるため、意図的に「波調」という漢字を用いて区別しておきます)

 

 

私「あなたは・・・・・」

 

 

その、ものすごくまぶしい光は、ただ、微笑んでいるように感じました。

 

 

私「なぜ、こうして、私とあなたと、つなげてくださったのですか?」

 

 

(物質世界的な表現をすれば、「なぜ、あなたは、私をお呼びになったのですか?」という問いになるでしょう)

 

 

すると、その「究極の光」は、私に向かって、このように語りかけてくださいました。

 

 

光「お前が望んだからだ」

 

 

私「私が?」

 

 

光「そうだ、お前が、生まれていく前に、望んだではないか」

 

 

私「・・・・・」

 

 

困惑する私に向かって、「究極の光」は、少しいたずらっぽい、優しさに満ちた表情で、このように答えてくれました。

  

 

光「お前は、『生と死の境界』を通らなかったので、記憶が甦らないだけなのだ」

 

 

私「わかりません・・・・何でしょうか」

 

 

光「のちに、同志たちに、教えてもらいなさい」

 

 

私「同志たち?」

 

 

私には、理解できなことだらけで、何が何だか、さっぱりわかりませんでした。

 

 

光「そうだ。お前の同志たちだ」

 

 

私「わかりました」

 

 

私には、その時点で、まだ「同志たち」の意味が理解できませんでしたが、なぜか、そのまぶしい光の言葉を、そのまま受け入れることができました。

すると、その光は、真剣な面持ちになって、私に問いかけてきました。(実際に見えるわけではありませんが、そのような表情として感じられた、という意味です)

 

 

光「充分に、学んできたか?」

 

 

その問いに対して、私は、不思議なほど謙虚な気持ちで、こう答えていました。

 

 

私「いえ、まだまだ不充分です・・・・・・申し訳ございません・・・・・」

 

 

光「謝ることはない。それでいいのだ・・・・学ぶことについては、決して『これで充分』という限界はないのだから」

 

 

私「・・・・・・・・」

 

 

光「それでは、充分に、愛してきたか?」

 

 

私「・・・・いえ、それも、まだまだ不充分です・・・・すみません・・・・・」

 

 

光「謝ることはない。どうしても謝りたいならば、人生を通じてめぐり逢ってきた、数々の魂たちに謝りなさい」

 

 

私「・・・・・はい・・・・・」

 

 

光「お前については、もう一つ尋ねるべきことがある・・・・充分に、使命を果たしてきたか?」

 

 

私「・・・・・いえ・・・・というか・・・・はい・・・・・充分かどうかはわかりませんが、私なりには、精一杯、お役目を果たそうと努力してきたつもりです・・・・」

 

 

光「それでよい。大切なのは、お前自身が後悔を残すことなく努力したか、ということなのだから」

 

 

私「はい・・・・ありがとうございます」

 

 

光「礼を言う必要はない。礼を言いたければ、自分自身に対して、誇りに思いなさい」

 

 

私「はい・・・・わかりました」

 

 

そして、その言葉どおりに、私が私自身を誇りに思った瞬間・・・・・なんと、「光」としての私自身の輝きが、いちだんと増したのです!

 

 

そこで、嬉しくなった私は、調子に乗って、次の問を催促しました。

 

 

私「ほかに、ご質問は?」

 

 

光「無い」

 

 

私「えっ?・・・・・・それだけ・・・・・ご質問は、たったの三つだけなのですか?」

 

 

光「それで、すべてだ」

 

 

私「ということは・・・・充分に学んだか、充分に愛したか、充分に使命を果たしたか・・・・たった、この三つなのですか?」

 

 

光「その通りだ」

 

 

私「人生を終えてから問われるのは、それだけなのですね?」

 

 

光「その三つの問いに、すべてが含まれているからだ」

 

 

私「すべてが?」

 

 

光「ほかに、何を問えば良い?」

 

 

私「・・・・・たとえば、人間社会で、どれだけ成功したかということも、少しは価値があるのではありませんか?」

 

 

光「人間社会での成功には、価値はない」

 

 

私「そこまで言い切ってしまって、良いのでしょうか?・・・・・表現が、極端すぎるのではありませんか?」

 

 

光「かまわない」

 

 

私「しかし、すべてのことには価値があると・・・・あらゆることには価値があると、私はそう信じながら、人間社会で生きてきたのですが・・・・・」

 

 

光「人間社会では価値があるのかもしれないが、人間社会での成功が、こちらで問われることはない」

 

 

私「もちろん、人間社会での地位や名誉や、お金や財産が、こちらで大きな評価に結びつくとは思いませんが・・・・・それでも、人間社会での成功を目指して頑張った、その努力にさえも、価値がないとおっしゃるのですか?」

 

 

光「無い」

 

 

私「しかし、あらゆる努力には、それぞれ価値があるのではありませんか?」

 

 

光「価値があるのは、ただ、学ぶ努力、愛する努力、使命を果たす努力・・・・・この三つの努力だけだ。それ以外は、人として生きる、本来の目的ではない」

 

 

私「つまり、ただ純粋に、学ぼうと努力し、愛そうと努力し、使命を果たそうと努力した、その結果として、人間社会での成功がついてくるならば、その成功には価値がある、という理屈なのですね?・・・・・・成功そのものを目的とした努力には、価値はないということなのですね?」

 

 

光「そのような、理屈の問題ではない。人間社会での成功は、こちらに戻ってきた際に、すべて取り払われているということだ」

 

 

私「たとえ、学ぼうと努力し、愛そうと努力し、使命を果たそうと努力した結果としての成功であっても、こちらの世界では、全く評価の対象にしていただけないのですか?」

 

 

光「こちらの世界で問われるのは、学ぼうと努力したか、愛そうと努力したか、使命を果たそうと努力したか・・・・・ただそれだけだ」

 

 

私「ということは、人間社会で成功してもしなくても、人生を終えたあとの評価は、まったく同じなのですね?」

 

 

光「同じではない。学び、愛し、使命を果たそうと努力したならば、その結果として社会的に成功したかどうかにかかわらず、それは望ましい人生である。しかし、たとえ人間社会で成功しても、学び、愛し、使命を果たそうと努力したのでなければ、それは望ましくない人生だ」

 

 

私「・・・・・・・・」

 

 

光「したがって、人間社会での成功そのものは、あらゆる意味において、こちらの世界では、評価対象にならない。こちらの世界で問われるのは、充分に学んだか、充分に愛したか、充分に使命を果たしたか・・・・・・・ただ、それだけだ」

 

 

私「しかし、そのような評価システムだと知ってしまうと、人間たちは、社会的成功を目指して努力する気がしなくなり、懸命に働く意欲を失ってしまいます」

 

 

光「社会的成功を目指す努力など、必要ない。働く目的も、また、学び、愛し、使命を果たすためだからだ」

 

 

私「それならば、人間たちは、何を目標にして、努力すればよいのでしょうか?」

 

 

光「学び、愛し、使命を果たすことだ」

 

 

私「たった、それだけなのですか?」

 

 

光「それだけだ」

 

 

私「それでは、ただ、学び、愛し、使命を果たそうと努力すれば、その結果は、いっさい気にする必要はないと?」

 

 

光「こちらの世界に戻るときには、その結果は、いっさい問われない」

 

 

私「・・・・・・・・」

 

 

光「空しいか?」

 

 

私「・・・・・・・・」

 

 

 

(引用ここまで)

 

 

*****

 

 

 

 

 

科学者が、科学的視座から自らの臨死体験について語った本としては

エベン・アレグザンダーの

『プルーフ・オブ・ヘヴン 脳神経外科医が見た死後の世界』

などもあります。

 

こちらの作品は、

肉体は医学的には死んでいる、にもかかわらず別の世界を体験した、早くに亡くなって顔もしらなかった叔母に会った(生還後、写真で確認して肉親とわかった)というできごとがメインで、つまりは臨死体験というのが死ぬ間際に脳がみせる幻想以上のものだということを示したのですが

 

飯田氏の作品は、

”あの世”での対話の内容自体に意味があります。

 

 

 

おまけ

 

 

 

 

 

 

 

 

LOVE&JOY

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