獅子座と星の話(モーセと阿曇磯良) | まーりんのまりんエッセンス

まーりんのまりんエッセンス

魂・心・体に響き渡る、これから先の時代のエッセンス
「海のエッセンス」「月のエッセンス」の物語

月が昇っています。

 

獅子座の満月です。

 




 

満月の正確な時刻は、16:33

つまり日没前のことでした。

 





この満月の波動取りは

日没をみて開始しています。

 

後は月の様子やボトルの状態をちょいちょい確認して、

夜明け前に撤収する・・・

 

ひと段落した、この宵の時間に

きょう思い出したことを

お話ししましょう

 

 

 

 

それは

この本にあった、モーセの話なのです。

 

 

 

 

著者は、ヘブライ語学者のサバ兄弟。 代々ラビや大ラビを輩出した家系とのことで、兄メソドはタルムードやトーラを修め、弟ロシェはユダヤ教秘書ゾアールの翻訳者シャルル・モシクに師事。

兄弟で聖書とタルムードを研究し、ヒエログリフとヘブライ語、アラム語から

出エジプトの真実はどうだったのか、解明を試みた成果が本書です。

 

 

 

出エジプト記において

モーセの顔容はどのように描写されているかというと

 

「イスラエルの人々がモーセの顔をみると、モーセの顔の肌は光を放っていた。〔かれは角をつけていた〕。

モーセは、ふたたび御前に行って主と語るまで顔に覆いをかけた」

(出エジプト記34・35)

 

 

これに対して、本書ではこう書かれています。

 

”モーセの光る顔は、光の存在であるファラオの特徴の主要なしるしであり、それはピラミッドの文献にさかのぼる。以下にラシの説明がある。

 「光るもの。意味は角(ケラニム)と同じである。なぜなら、光は角のように輝いて、外に出るからだ」

 

ファラオ・セティ1世は、父ラメセス1世を光り輝く存在として説明する。

 「かれが明け方に輝く太陽ラーだったのに対して、わたしはかれのそばでは、地上の星のようだった」

 

神官ヤフウドは聖書に、ヘビ、杖、角、光線(ラー)を移し替えており、それはホルエムへブとラメセス1世の墓でみられたものだった。


モーセのベールは、行列のおりに神聖なショールに「隠された」雄羊の神アメンを連想させる。モーセの「隠された」、光る、「角」をつけた顔は、かれが生涯の終わりに、エジプトのファラオ・ラメセス1世になったことを明らかにし、それはかれの墓(王家の谷)の壁画に相応する。”

 

 

*ラシとは、10世紀の高名なユダヤ教ラビであったラシ師。

ユダヤ教公認の最古の翻訳聖書はアラム語で書かれており、長期間にわたって継承されてきた口承伝承による史実が反映されていると考えられる。これに対してラシ師が注釈をつけていた。

 

 

 

角は、光の象徴であり、

光は太陽神ラー、光る顔はファラオの印。

 

モーセの顔は光を放射していたが、

ふだんは覆いをして

その輝きは隠されていた。

 


モーセは

顔を隠された王(ファラオ)、あるいは、神。

 

 

同じように

顔を隠された人物が

日本にもいます。

 

 

阿曇磯良(あづみのいそら)。

古代海人族、安曇氏の祖といわれ、神功皇后の三韓出兵の際に梶取(かじとり=水先案内)をしたとも。

皇后は三韓出兵の際に諸神を招いたが、海底に住む阿度部の磯良だけは、顔にアワビやカキがついていて醜いのでそれを恥じて現れなかった。そこで住吉神は海中に舞台を構えて磯良が好む舞を奏して誘い出すと、それに応じて磯良が現れた。

 

この伝説をもとにした舞では、志賀海神社国土祭の磯良の舞、奈良春日大社の春日若宮おん祭の細男(せいのう、ほそお、ほそおのこ)の舞などがある。春日大社のそれは、筑紫の浜で老人から「細男の舞をすれば、磯良が出てきて干珠・満珠を授ける」と聞いた神功皇后が舞わせたところ、貝殻のついた醜い顔を白布で隠した磯良が現れたという物語を表現したもので、白布の覆面姿の男たちが舞う。

 

ウィキペディア

 

 

磯良(いそら)は、醜い顔を隠すために布で覆いをした、というけれども

星読みと暦法の口伝をしる真鍋大覚の「儺の国の星」には、

醜いからじゃなく、眩しいからだと書かれています。

 

いわく

いそらとは、人魚のこと、転じて潮見をする女性、そしてシリウスの古い呼び名のひとつだとあり、

さらに こうあるのです。

 

”昔は石籠星(いづらぼし=シリウス)はもっと明るく、もっと眩しく、凝視していると眼が疼(うず)くほどの輝きでありました。

鹿海(しかわたつみ)の伊曽良舞(いそらまい)には神が白布で顔を被う裳いでありますから、まさに石籠星の象徴であり、舟人にとっての無上の目標であったことになります。”

(「儺の国の星 pp.54-55」)

 

 

 

モーセは顔から光を放つので(眩しいから)覆いをつけていた。

モーセはラムセス1世=太陽=ファラオ

 

 

安曇磯良は顔から光を放つので(眩しいから)白布で覆っていた。

してみると、シリウスの輝きは何を象徴するかというと

海人、それも 長 もしくは王 ということになるのかもしれない。

(安曇族の長は龍宮の王とも呼ばれた、磯良が龍宮からやってきたという伝承もある)

 

もっと言えば、このシリウスこそ

古代エジプトの暦(Soput暦)の基準であり、

エジプトから地中海まで 船乗りたちがこぞってあがめたステラ・マリス=女神イシスの本体である。

 

 

 

顔を覆う、隠すというには、秘密がある。

 

ラムセス1世は、在位が紀元前1294~1295年というから、

安曇磯良や神功皇后が生きていた200年頃からしても

1500年ほど違う時代の、違う国のひと。

 

「顔を覆い隠した一族の長」

という、同じモチーフは

偶然(たまたま)かもしれないし、

そうではないかもしれない。

 

 

アラム語聖書の注釈では

光と角が同じ言葉で表されるとある。

 

だから、

モーセは角があったと言われているのだ。


いっぽう、磯良に角はあったのか。

 

角をもつとする伝承はわたしは聞いたことがないけれど、磯良を祖神として祀る志賀海神社には 鹿の角が一万本奉納されている。

 

磯良は鹿ノ島明神とも呼ばれたが、別の名前は

鹿嶋大明神、春日大明神である。

(愚童訓)

 

共通するのは鹿。

磯良が角にも関連すると、いえなくもない。

 


磯良(いそら)が、

シリウス(ソプト)つながりで

エジプトにまでつながっている可能性はないのだろうか。


モーセがじつはラムセス1世であった

という可能性のように、


モーセが示した「ファラオの象徴」が

どこをどういったのか、

1500年後の極東で ふたたび伝説となった

という可能性は…。


もしそうなら、安曇族は

ユダヤ系、それも

アクエンアテンの一神教を奉じたがゆえにエジプトから追放された人々のなかでも、よく伝承を残し伝えてきたグループだということもいえるだろう。

 

 

 

きょうは、獅子座の満月。

 

 



シリウスも獅子座も

ギザのピラミッドに関連する。

 

シリウスは女王の間の南シャフトによって標的とされているし

古代エジプトのテキストで述べられている 「デゥアト Duat」という天空の領域は、オリオン座と獅子座とシリウスによって支配されている。

 

 





古代の近東、波斯国Parchia などの春分を元日とした国では

獅子座を見送ると古い年が去っていくのに名残を惜しんだことだろう。

 

日本でも獅子座は「こそのほし」とも呼ばれており

こぞ=去年との照応が偲ばれるところです。

 

 

春がやってきました。

 

 

 

 

LOVEJOY