思い出
「ブルベ記」第4話
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こうしてブログを始める当初は、
泉がわくがごとく、
いろいろ小話、昔話が出てくるのでしょう。
20年前の大学時代
スコットバー付きの白いフレームのファニーバイク
(タイムトライアル用バイクというのか、あの、前輪が後輪より小さい、あれですね)
で友人と皇居周回していた話を述べましたが、
(あれ?なんでその後、ロードに乗らなくなって20年間が過ぎたんだろう)と改めて思った。
当時、1990年ごろは、都会で今のような華やかな自転車ブームが訪れていた時期でした。
そのファニーバイクも、
池袋・丸井の自転車コーナー
(それぐらい自転車は今と同様、ブーム商品で脚光を浴びる位置づけになっていた)
の壁の一番高いところにかけてありました。
後輪はなんと、当時まだ珍しかったアラヤの真っ赤なディスクホイール
(そのディスクホイールも欲しかったが、さすがに学生には高価で、外してもらったが)。
このころにはツール・ド・フランスの様子が日本でもよく伝えられるようになり、
グレッグ・レモンがスコットバーで活躍したことも、よく語られていました
(子どものころ、スキーストックのメーカーとしてスコットというブランドを知っていましたが)。
さて、そんな素敵なバイクになんで乗らなくなったんだっけ?
こうしてブログを始めてみて、
記憶がつながり、乗らなくなったひとつのきっかけを思い出しました。
ああ、落車したんだった。
自戒をこめて、あらためて記録しておこうか、と。
それは20年前の、ある晴れた日曜のお昼ごろ。
場所は皇居周回路の、
最高裁判所から桜田門まで至る、
あの広い内堀通りの下り坂での出来事。
下宿のある早稲田近く、神田川沿いを出発し、友人を追走しながら、いつもの皇居周回路に入った。
二重橋あたりは今も当時も、日曜は自転車専用路になるが、それ以外の周回では当然、車やバイクとの併走になる。半蔵門を過ぎ、下りにさしかかると、CATEYEのメーター(当時のそれはもちろんワイヤレスではありませんでした)は時速50キロ台に入り、さらに速度は伸びていった。
警視庁を右前方に見ながら、下りのゆるい左カーブにさしかかったとき。
もちろん一番左側の車線を走行していたが、ふいに横に、中年男性が乗る中型スクーターが並んだ。
その時は、瞬時に、いろいろなものを観察した気がします。
この併走する煩いスクーター(ちょっと古い型落ちで、色は確かベージュ系だったような気がする)や
左側を流れるガードレール、歩道に一定間隔で立っている皇居警備隊と思われる警察官たちの姿。
メーターも目視した。時速57キロ(!)を表示していました。
とその時、
右横にいたこのスクーターがにじり寄ってきた。
まあ、ほとんど「幅寄せ」だ。騒々しいエンジン音が耳につく。
(なんだこいつ。あぶないなあ)
と思った瞬間、
ブルホーンハンドルが、左側に迫っていたガードレールに触れた(ような気がしました)。
次に覚えているのは、
体だけが前方に飛んでいて、
歩道の樹木などの景色が視界を流れ飛んでいったこと。
次の瞬間、
目のなかを右から左へ黄色い火花が走ったこと(つまり、頭の右から路面に落下したこと)だった。
目から火花、は本当でした。
よく似た光景として思い出されるのはスキーのジャンプ。
ダイビングするように頭から落ちてゆくのは、あまり愉快なものではないでしょう。
その後は記憶は定かでありません。
ただ、覚えている光景は、
道路に横たわっていて、ずっと向こうに国会議事堂が見えたこと、
視線をその手前に移すと、バイクの本体、何かの部品が広い車道上に散乱し、
それを警察官が拾い上げていたこと、ほかにも警察官が大勢いて(たぶん、目の前で目撃していたあの皇居警備の警察官たちでしょう)、盛んに無線交信しており、救急車のサイレンが聞こえていたこと。
ああ、こういうのを「事故現場」というのでしょう。
そんな喧騒の真ん中で、自分ひとり横たわっていました。
飛んだ距離は32メートルだったそう(現場検証から)。
スクーターはそのまま日比谷方向に走り去った(らしい)。
スクーターによる「誘引」(という言葉を警察官はのちに使っていた)事故の疑いがあり、
緊急配備をかけてスクーターの行方を追ったが、
まあ、そのまま見つからなかったそうです。
救急車に生まれて初めて乗せられ、
慈恵医科大病院の脳神経外科に運ばれました。
幸い、頭へのダメージはなかったようで、20年後の今もこうして生きています^^
損傷としては、右ひざの肉が若干欠落したぐらいでした。
前を走っていた友人は、後続に災難が降りかかったとも知らず、
そのまま二重橋方面へ走っていってしまった(らしい)。
あとで、下宿に先に戻っていた友人に一部始終を聞かせたら、
道にでも迷った、とぐらいにしか思っていなかったそうで、
事故の話に驚いていたのを覚えています。
(ちなみにこの友人、のちの夏休みにほぼサドルバッグだけの超・軽装で、本州1周!を成し遂げました)
さて、ファニーバイクのほうですが、大きく壊れた部品もなく
(さすがshimano、とその時はじめて思った)、組み立て直した。
ただ唯一、スコットバーの左側に、大きなへこみができていました。
その後、
就職活動などもあり、一時のサイクリング熱はすっとひいていったような気がします。
最初の都会の自転車ブームも、バブル期の崩壊とともに一度去っていったようです。
バイクはその後、経年変化でフレームの白い塗装がはがれたり、
パンク状態(チューブラータイヤでした)、置き場に困って前輪を外したり、など、
徐々に生活の脇に追いやられていきました。
就職後、転勤で東京をいったん離れ、日本各地を回り、
その間、子どもが生まれました。
何年か後、ある日、その子と一緒にある町外れの廃棄物処理場にもってゆき、(もう自転車に乗ることはないのだろう)と思いこみ、そこにバイクを置いてきました。
そしてまた月日がたち、東京へ戻ってきました。
今、あのバイクが手元にあれば、といまさらながら思います。
しかし、廃棄物処理場で手放した時は、
まさかその10年後に再びサイクリングを再開するなんて、
想像すらできませんでした。
まあ、いろいろめぐりめぐって、今はスコットSUB40が手元にある訳です。
このバイクで先日、まさにほぼ20年ぶりに、皇居周回路を走りました。
(あのころを思い出して、この日は記念に?愛嬌で?プロファイルデザインのDHバーをつけてみたりしました。クロスバイクにDHバー付けてる人は稀でしょう。ま、ブルベの規定上は?なので、今はまた外してます)
この日はあの時ほど速度は出しませんでしたが、
落車した桜田門の手前は、
昔も今も、同じ道でした。
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