
『富士山』 平野啓一郎著 2024年
平野啓一郎さんの5篇の短編集。
平野さんといえば、人が環境や相手によって使い分けている「分人」のどれもが本当の自分という分人主義を標榜する作家ですけど、本作では人生の中に無数にある選択肢とその結果のどれもが自分の人生、というようなテーマで統一された短編集でした。
表題作の「富士山」は、マッチングアプリで出会った中年の男女が初めての旅行で、新幹線の富士山が見える席に座ったことで遭遇する事件と、それに伴う選択の話。
女性は自分と同じ選択をしてくれなかった男性と別れますが、後に男性も同様の選択をしていたことを知り・・・という展開。分人主義によって一人の登場人物が単純に善人か悪人かと言い切れることができず、それによって物語に深みが生まれるところがこの著者の最大の魅力だと思います。
2番目の「息吹」は今回のテーマを最もわかりやすく提示した一作。男はかき氷屋が満席だったために仕方なくマクドナルドに入ったらたまたま隣の席で内視鏡検査の話を耳にして、癌を早期発見できた。しかし後になぜかかき氷を食べた記憶の方が鮮明になり、「自分は本当に癌の検査をしたのだろうか?」と混乱する・・・という話。
続く「鏡と自画像」と「手先が器用」は何気なくかける一言がいかにその人のその後の人生に大きな影響を与えるかという話。
最後の「ストレス・リレー」はイライラを態度に出すことでどんどん他人にストレスが伝播してしまう話。前の2作は言葉が人に良い影響を与えた話でしたけど、今回は悪影響バージョン。ウイルスの保菌者のように一人で大勢にストレスを撒き散らす人もいれば、他人に移すことなく自分の中で解消させる人もいるということで、作品集のラストにはピッタリなハッピーエンディング。
個人的には長編の方が好きなのですけど、短編集としては理想的な一冊でした。
ほんの小さな選択でその後の人生がガラッと変わってしまうというのは映画『バタフライ・エフェクト』などでも観たような印象なのですけど、イライラを他人にぶつけないとか他人に優しい言葉をかけてあげるとかすることで世界全体が良い方向に変わるのかもしれないという「自分にもできそう」と思わせてくれる範囲内の絶妙なリアリティーで描いているのが本作の良さだと思います。
ベストセラーになるような本ってただ「面白かった」で終わることが多いですけど、平野啓一郎さんの作品は必ず読後に深く考えさせられる何かを残してくれるのですよ。オススメです。