『破戒』 | Wind Walker

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ネイティブアメリカンフルート奏者、Mark Akixaの日常と非日常

破戒 (新潮文庫)

 

『破戒』 島崎藤村著 1906年

 

 

島崎藤村の『破戒』という作品があってこれが被差別部落出身の主人公の話だということは中学生の頃から知ってはいましたけど、部落差別という問題が身近には無かったので「自分とは関係のない話かな」と思って今まで読んでいませんでした。

 

しかし読んでみたら、物語の流れやキャラクターなどが『罪と罰』とそっくりでビックリです。

 

『罪と罰』は私が人生で一番好きな本のひとつですけど、それだけに「似てて嬉しい」というよりも「パクリじゃねーか!」という感情のほうが強かったです。

 

 

それはともかくとして、読んで思ったことはこの作品のテーマは実は部落差別ではないのではないかということ。

 

それまでの日本文学にはなかった近代的自我をもった主人公が出版当時は話題になったようですけど、部落出身という身の上がどうも主人公の葛藤に深みを与えるためのギミックに過ぎないような気がしましたし、解説でも藤村自身の中にも抜きがたい差別感のあることが指摘されています。

 

 

『罪と罰』の主人公・ラスコーリニコフが自分の犯した犯罪行為に対して負い目を感じて精神的に追い詰められていったのに対し、本作の主人公・丑松の負い目は「生まれた境遇」という誰が悪いわけでもないものであるところも読後の爽快感が生まれ得ない原因でしょう。

 

丑松が自分の出自を告白するシーンは非常にドラマチックでありながら「今まで隠しててごめんなさい」という場面でしかないことがいまいち感動できないのですよ。差別自体はまったく解消されないのですから。

 

 

ただ丑松がその後テキサスで第二の人生を送ることを示唆して物語が終わるのですが(それもラスコーリニコフのシベリア流刑の模倣なのかもしれないですけど)、個人的にはちょっと刺さるところでした。

 

というのも私は若い頃、誰かから差別的な扱いをされていたというわけではありませんが性格的に問題があって周囲の人間とうまく調和して生きることが出来ず、強い疎外感を抱いていました。それから逃れるためにアリゾナに行ったようなものだからです。

 

テキサスもアリゾナも明るいアメリカンドリームが待っているわけではなさそうな不毛の地という意味では似たような土地でしょう。

 

丑松がその後本当にテキサスに行ったのかは判然としませんが、ラスコーリニコフや私がなにもない不毛な、しかしだからこそ「手つかずの自然」を強く感じる土地で人間性を回復させたように、彼が日本的なしがらみから解放されることが期待されるような希望を感じさせる余地のあるラストであったことは確かです。

 

そのような体験談をもたない他の人が読んでどう感じるのかは分かりませんけれども。

 

というか、誰もがタイトルやあらすじを知っているような本であっても、読んだときに自分がどう感じるか分からないというところが読書の醍醐味ですね。読んで良かったです。