『罪と罰』 | Wind Walker

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読書の秋ですね。

 

今回は私の「座右の書」あるいは「最も影響を受けた本」をご紹介したいと思います。

 

 

『罪と罰』 ドストエフスキー著 1866年 (亀山郁夫訳 2008年)

 

 

誰もがご存知、『罪と罰』ですね。数年に一度、定期的に読み直している作品です。

 

なぜこれが座右の書なのかといえば「人生で最も多感な時期に読んだから」という身も蓋もない理由が一番大きいのかもしれませんが、しかしその時期にもたくさん本は読んでいたので、本作をぶっちぎりの一位に選んでしまうのはやはり特別な何かがあるのでしょう。

 

 

一応まだ読んだことがない方に説明すると、この本は犯罪を犯した青年の心理を追う話であると同時に、彼がいかに生まれ変わるのかという癒しの話でもあるのです。

 

 

「罪と罰」とはまた簡素にして核心をついた素晴らしいタイトルですが、面白いのは主人公が自分の犯した殺人を、最後までまったく「罪」とは考えていないことです。

 

主人公以外の全員、もっと言えば社会全体が、殺人が「罪」でシベリア送りがそれに対する「罰」と考えているのですが、主人公にとっての「罪」とは自分の思想を貫くことができなかった己の弱さであり、自分が思っていたほど特別ではない、ごく普通のどこにでもいる人間だという事実を受け入れることが「罰」に当たるのだと思います。

 

こうして考えてみると「罰」というのは単なる「ペナルティ」ではなくて、「まっとうな人間になるための第一歩」のことなのですね。かつての私も同じ「罰」を受けましたが、誰もが経験するであろうこの「若き日の挫折感」の普遍性こそが本作をして時代を超える名作たらしめているのでしょう。

 

 

終盤に主人公がある女から「十字路に立ち、ひざまずいて、あなたがけがした大地に接吻しなさい。」と言われその通り実践するのですが、つまりこれは「大地に回帰することで人は癒される」という物語なのです。(言うまでもなく女性も大地の象徴です。)

 

そういう目で見ると、本作は現代人の「野生の思考」の入り口でもあるわけです。

 

今にして思えばドストエフスキーの、このロシア風原始的信仰に私は大いに影響を受け、その後の人生の方向が決まってしまったのかもしれません。

 

ひょっとしたら今でもこの「回帰すべき大地」を探しているのかもしれず、インディアンの文化に触れてさらにその想いを強めて帰国してからは、日本文化の底流にそれを見出そうとして民俗学的な本を読み漁ったりしているのでしょう。

 

 

本作は高校生の時に買った新潮社の工藤精一郎訳をずっと愛読してきたのですが、ちょっと前に読んだ『カラマーゾフの兄弟』の亀山郁夫訳がとても読みやすかったので、『罪と罰』も今回は亀山訳で読んでみました。

 

すると単に文字が大きくなって翻訳が分かりやすくなったというだけでなく、巻末の「読書ガイド」がとーっても面白かった! 

 

本文を読んでいるだけでは知りえない情報が満載なのですよ。特に「あのときリザヴェータがなぜ帰ってきたのか」は以前からずっと疑問に思っていたので、その謎が解けただけでも読んで良かったです。

 

まだ読んだことがない人はもちろん、遠い昔に読んだという方にもこの亀山郁夫訳での再読をオススメしたいですね。

 

好きなクラシックの楽曲を指揮者や楽団を変えて聴き比べるように、翻訳者を変えて読むのもなかなか新鮮な読書体験でした。

 

訳が変わろうが何回読もうが、何にせよ泣くんですけどね(笑)

 

 

 

 

 

ところで第1巻の巻末にも地図が載っていましたが、グーグルマップでも物語の舞台が確認できます。すごい狭い地域の中だけで展開される話だったのですね。

 

正直に告白しますと今まで読んでいたときはペテルブルクがロシアのどの辺に位置しているのかすら把握しておらず、漠然と「どこか遠くの物語」としてしか捉えていなかったのですが、ネットで見たらラスコーリニコフの屋根裏部屋(のモデル)は実在していて、今でも人が住んでいるのだそうですよ。

 

ストーリー自体はフィクションですけど、舞台は現実世界にかなり忠実に書かれていたのだなぁ。

 

 

これだけたくさん本を読んできたのに、150年前のロシア人が書いたものが一番深く共感できるっていうのも不思議だし面白いですね。