『インディアン魂 レイム・ディアー』 ジョン・ファイアー・レイム・ディアー口述 リチャード・アードス編 1993年
翻訳は北山耕平さん。
以前ブログで『ブラック・エルクは語る』を紹介しましたが、今回もブログ創設以前に読んだ本のおすすめ第2弾です。
なぜ前に『ブラック・エルク〜』を取り上げたかというと、その前に読んだデニス・バンクスの半生を描いた『聖なる魂』が「第二の『ブラック・エルク〜』を目指した」と書いてあったからなのですが、私はそれよりも本書の方に構成が似てるけどなぁと内心思っていたのですよ。(調べたらこっちのが後に出た本でした。笑)
『聖なる魂』は前半がデニス・バンクスの生い立ちから若き日の過ちを描いて後半は政治活動の描写になりましたが、本作も前半は若かりしレイム・ディアの自由奔放すぎる冒険、後半ではラコタ族の伝統について語られます。
本作の主人公、レイム・ディアーもブラック・エルクと同じくラコタのメディスンマンなのですが、性格は正反対といっても良いかもしれません。
一般的にアメリカインディアンといえば、無表情で寡黙。たまに口を開けば妙に含蓄のある言葉を紡ぐ、というイメージがあるかもしれませんが実際はそういう人はごく一部で、大半は冗談が好きで笑うのが大好きな連中なのですよ。
ブラック・エルクが前者だとしたら、レイム・ディアーは後者。
酒と女が大好きで、ロディオで巡業した後に羊飼いなったり、警察官になったり陸軍に入ったりしたかと思えば、密造酒を作ったり車を盗んだりして警察に追われるという波乱万丈な半生を歩みます。
話は破天荒で面白いのですが、どうもこれはメディスンマンらしくないぞ、と読者が思い始めた頃にこんなことを言うのです。
メディスンマンは、聖人になどなってはいけないのだ。
メディスンマンは、常に一族の者たちのなかにあって、一族の者たちが感じるありとあらゆるものを、いいことも悪いことも、上のほうも下のほうも、失意の底から喜びの頂点までを、心の神秘とリアリティとを、さらには勇気と恐れとを、そしてその一切すべてを、自ら経験し、感じ取らなくてはならない。
必要とあらば虫けらのように地面にはいつくばってでも生きられるし、鷲のように空の高いところを悠々と舞ってみせることもできる。
それがメディスンマンというものだ。 (p.245 上巻)
もしあなたがインディアンのところに行くことがあったら覚えておいて欲しいことは、本当のメディスンマンは「自分はメディスンマンだ」などと決して得意気に名乗らないだろうということ。
その人にどれだけ知識があろうとも、力があるふりをするのは本当は力がない証拠だし、偉そうにするのは本当は偉くないからなのです。(良いメディスンマンの見分け方は下巻のp.122参照)
さて本の後半はメディスンマンの視点から、セックスや歴史や儀式などについて語られますが、『ブラック・エルク〜』のときに不遜にも「この本は初心者向けかな」なんてことを書きましたが、本作はそれよりもっと詳しく知りたい人向け。
この本はずっと昔に読んだきりで内容もほとんど忘れていましたが、読み返してみたらその後たくさんインディアン関連の本を読んだ中でも、実はこの本が彼らの文化をより深く知るのに一番最適な本だったのではないかと思いました。
ちなみにインディアンは「メディスン」という言葉をよく使いますが、これは「薬」ではなくて「不思議な力」のことだと覚えておくと、彼等の世界観をより理解しやすくなりますよ。
最後に、翻訳者である北山耕平さんによるステキな後書きからの抜粋で紹介を終えようと思います。
この本はあなたを変えてしまうだろう。あなたの生き方を変え、あなたの世界の見方を変える。そして世界を変えていくだろう。それだけの不思議な力、レイム・ディアーがメディスン・パワーとよぶ偉大な力が、この本にははいっている。なんどもなんども読み返されることになるだろう。そして読むたびにちがう発見をするだろう。
ところで、翻訳で「雄牛の糞!」という台詞があったのですが、おそらく原文は「Bullshit!」だと思うのです。
なぜそこを北山さんが直訳したのかは謎ですが、本来は「嘘つけ!」という意味のスラングです。
・・・おや?
「嘘つけ」とは勿論「嘘をつきなさい」という命令ではなく、「嘘をつくな」という禁止のことですけど、なぜ真逆の表現をするのでしょうか?
調べたら「そんなに嘘をつきたいのなら、嘘をつけ」の前半を略した形なんですって。
言葉って、面白いですね。