ちょこっと又別の切り口で書いてみようかと・・・・・・。
先日、NHKを見ていて成る程なあ、って。。。
細胞性粘菌で研究材料として最も良く用いられているキイロタマホコリカビ、
ってカビが御座います。
このキイロタマホコリカビって優秀で、協力って概念では、ほんと、もんのすごい事を生物としてやるんです!
生物ですがら、栄養を取って繁殖して行くんですが、
その栄養が無くなったら、なんと!
このキイロタマホコリカビ、みんなで協力して、一つの集合体になります。
そして集合体になって、ほんの一部の先端だけが胞子となって遠くに飛ばす。。。
残りのカビは全て死に絶える。。。。。
究極の犠牲です。
種族を残す為に命を犠牲にして、仲間と集合体を作って、
ほんの一部の仲間に未来を託す・・・・・・。
これ、人間って出来ますかね?
(^_^;)
この人の為に!
とかではなくて、
本当に大きな集団の中で、自分の種族の未来を託して、死んでゆく・・・・・。
(私は宇宙戦艦ヤマトのファンなんですが、イスカンダルから救いの手を差し伸べられなかったら、ヤマトは選ばれた人類と動物を逃がす為に作られた船って、設定でしたが……。)
(^_^;)
かつて、日本は戦争をして、多くの若者が、国の為に命を落としました。
ひとりひとり、想いはあったでしょうが、
世の中は、鬼畜米英と呼び、日本の為に戦う事が正義だった。
これも一種の他人と協力するという構造です。
祖国の為に、国にいる愛する人の為に身を犠牲にする。
(赤紙来ても、逃げられない社会だから……etc)
余談ですが、このカビ、集合体になるんですが、
全部が全部、集合体になるわけではなく、
同じ遺伝子を持つ物に別れて、
別の遺伝子の物とは、はっきり別れるそうです。
自分と同じ遺伝子を残したいんですね。。。
つまり、生物の統合という概念がいかに遺伝子Levelで難しいか、
って事です。
統合すれば、する程、分離がはっきりする。
統合、統合と言っても、全く統合などする意識はなく、自分達の業界内にいたがる人が多くないですか?
私は人は、生きる為に他人と協力をしないと生きてはいけません。
今の生活もそうですし、
かつて、ホモ・サピエンスと呼ばれた時代から、我々は協力する事で種の存続を可能にしました。
ネアンデルタール人(ネアンデルタールじん、ホモ・ネアンデルターレンシス、Homo neanderthalensis)は、約20万年前に出現し、2万数千年前に絶滅したヒト属の一種。
彼らは筋肉隆々の種族で、ホモ・サピエンスに比べて、小さな集合体で生きる事が出来る種族でした。
何せ、筋肉隆々なんですから、大勢と協力しなくても、獲物をとらえる能力が高かった。
まあ、栄養を取る事に関して、自分で出来る能力が、ホモ・サピエンスの身体能力より強かったんです。
しかし、この種族は、絶滅してしまった。
研究によると脳に関しても、ホモ・サピエンスと変わらない知能を持っていたと言われている。
でも、滅びてしまった。
何故か???
インドネシアのスマトラ島のトバ火山が噴火して、その灰が地球を覆って氷河期が来た時、
ホモ・サピエンスより、小さな集合体であったネアンデルタール人は、小さな集合体であったがゆえに、
獲物の数が急激に減った状況で、獲物に出会える確率が低くなり、
絶滅してしまった。
人類の先祖であるホモ・サピエンスは、たまたまネアンデルタール人より、身体能力が低かった為、彼らより大きな集合体でいた為、彼らは獲物に出会える確率が高く、
お互いが協力し、分け与えることにより、種の存続をなしえた。。。。。
我々人類の祖先から受け継がれた遺伝子の中には、
この記憶が受け継がれていて、そして、確かに今の社会も他人の力無くして、自分は存在をしえない。
この冬に、服を着ないで一日外にいられるだろうか?
もし、貴方が服を生産する人であっても、糸を生産しているわけではないだろう。
綿を作っているわけでもないだろう。
この分業で、協力と言う概念は、我々にとって
我々が生きる為には欠かせない術なのだ。
私は、仏教で言われる三世の因果をなんとなく受け入れています。
過去世も来世も観る術がない私にはなんともですが、でも、これが無ければどうしても納得がいかない事が多すぎる。
だから、この三世の因があると仮定しても、それでも、
この世で人間として生きて、自分の人生にとって、誰でも無い、
自分へのいいわけがない、
自分が心から満足して、心から生まれてきてよかったと思える瞬間が来るまで、
明日無くなる命かもしれない。
宝くじが当たるより、交通事故で亡くなる可能性の方がずっと高いのだから。。。
そんな人生の中で生きると言う事は、
何を意味しているのだろうか?
人は他人の協力なしには生きられない。
そして、自己犠牲が何を生んだのかは、神風特攻隊を観ても自己犠牲はどうも世の中を幸せにしてくれる術ではないらしい。
前の日記で“駒” って事を書きましたが、人は誰も“捨て駒” になりたくないんです。
でしょ?
自分が生きる為に。。。
そして、子孫を残す。
自分のDNAを残す。
誰もが、自分が大切で、そして、自分の血縁が大切。。。
我々は、生物である以上、
死は避けられない、未来の絶対操作不可能な避けられない事実。
死、だけは絶対避けられない未来です。
でもね、その日が来るまで、人は人として生まれてきた意味を、
たっぷり味わう為に、
生まれきた。
そして、生きてゆく為には、人との協力が不可欠。
他人を助けると言う事は=自分を助けると言う事。
自分を助けると言う事は=他人を助けると言う事。
つまり、愛を突き詰めてゆくと、エゴ無しに、愛など存在しえないと言う事が解る。
私は別に宗教家ではありませんが、
学問として宗教を勉強するのは好きです。
確か仏陀は言っていたと思います。
善人=無知
だと。。。。。。
自分が善人だ!
と、愛に満ち溢れた人格や世の中って言うのは、
自分のエゴってものを直視しない限り、ありえないと私は感じるんですが、いかがでしょうか?
原始人の時から、人は生きる為に協力をしてきたんです。
世の中で、霞を食べて生きていける仙人なら話は違いますが、
私は正直、愛と言う概念に独り歩きに対して、
何とも言えない怖さを感じます。
このアニメの姿は本当に理想の姿なんでしょうか?

ライオンに飢えて死ね!
って上記の姿は言っているように見える私がひねくれているのでしょうか?
それともありえない幻想に、エゴを隠しているだけなんでしょうか?
それとも、高次の自我が滅びても良い生物がいるとでも言っているのでしょうか?
殺生を全くしない生物しか生きてはいけないのなら、
人類は絶滅です。
(ベジタリアンだって、無農薬野菜だって、虫を殺していますよ。)
私は、何故ありのままに観ると言う最も大切で、そして難しい概念が、吹っ飛んでしまう最近の風潮になんとも言えない怖さを感じるのです。
エゴと愛を区別して認識する事って?
エゴと愛を分離させて、愛を語れるのでしょうか?
大体、人はいつから善悪の区別、愛とエゴを区別出来る能力を持ったんですか?
覚醒した人にしかわかり得ないのなら、私の様な凡人は黙りましょう。
しかし、人は無意識の集合体に近くなればなる程、写実的な思想は消えて、
ピカソの絵みたいになるんですが?
(ピカソの初期は違いますが)
どうやって、愛とエゴを区別出来るのか、わたしにはわかりません。
正直、最近の愛について安易な流れは、
こんな感じの怖さを感じるんですけど・・・・・・。

愛とは何か?(過去の日記)
http://ameblo.jp/marisuzuka/entry-11166863655.html
愛=エゴは薬=毒にもなりうる理屈と同じ(過去日記)
http://ameblo.jp/marisuzuka/entry-11168044519.html
ではでは!
この辺で!
Un petit salon "La Place"
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