淡路国(あわじのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。

 

 「淡路」の名称

 律令制以前は淡道国造の領域であり、「淡道」の表記であった。律令制において令制国のひとつとなり「淡路」の表記となった。

 

 沿革

 7世紀に成立した。津名郡と三原郡で構成されていた。

『古事記』『日本書紀』の『国産み神話』では、日本列島で最初に生まれた島とされる。島内には伊弉諾神宮が祭られている。

律令制の下で、田畑の面積が少なくとも一国として成立した。しかし『延喜式』や平城京などから発見された木簡によると租庸調に加え、贄(にえ)とよばれた海産物(主に魚)を直接に朝廷の内膳司(天皇家、朝廷の食膳を管理した役所)に納めていたことが分かっている。このことにより、朝廷にとって淡路国が特殊な位置にあったとする説がある(御食国を参照)。(wikipedia 淡路国より抜粋)

 

 淡道国造(あわじのくにのみやつこ・あわじこくぞう)は、後の令制国の淡路国、現在の兵庫県の淡路島を支配した国造。

 『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、仁徳天皇の御世に、神皇産霊尊の9世孫の矢口足尼を国造に定められたとされる。ただし、矢口足尼は伝承的なものであり、実際には『延喜式』神祇践祚大嘗祭の由加物条引導者として出てくる凡直氏が国造と考えられるが、歴史上の活躍はみられない。

 淡路島は神代の国産みの神話で最初に生まれた島とされ、地名の由来は、『日本書紀』では伊弉諾命が島の誕生を不快として胞とし「淡路洲」と名付けたとあり、『釈日本紀』は、思いのほか小島だったため胞として児の数に入れず、深く恥じた故に「吾恥」としたと解している。本居宣長は『古事記伝』では、阿波へ渡る海原にある島だからとしているが国生みの順番も、淡路島の地勢も無視している。また、淡路は古くからヤマト王権との結びつきが強く、伝承では食物を献ずる御食国であったとされる。(wikipedia 淡路国造より)

 

 …今回は、阿波国と海を挟んで隣接する「淡路国」から考察して参りたいと思います。

 

 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。

 

 それでは、例の如く阿波説始まります(´・ω・`)ノ

 

 上で少し触れましたが、「淡路国」は、『日本書紀』天武天皇4年(675年)条に国名が見え、この頃に成立したと推定されています。

  その後は、天平宝字8年(764年)10月、淳仁天皇を廃して「淡路国の公」として淡路に配流された記録があります。

 

 古代に遡りますと、

 銅鐸・銅剣・銅戈が高率に出土し、中でも銅鐸の出土量が多く、全てが初期の小型銅鐸です。

 中でも松帆銅鐸(まつほどうたく)の科学分析を実施した結果、朝鮮半島産の鉛を含むなど弥生時代中期前半(紀元前4~前3世紀)の最古級の銅鐸と同じ特徴を持つことが分かっています。

 

 ●松帆銅鐸

 

 また、御食国として塩を献じていたとされ、淡路島各所で製塩の遺跡が多数見つかっています。

 

 野島浦(日本書紀に登場する「野嶋の海人(あま)」の活動拠点)に位置する淡路市野島平林の貴船神社遺跡は、古墳時代から奈良時代の製塩遺跡。

 

 ●製塩土器

 

 淡路島ではこれまでに160基程の古墳が確認されておりますが、大型古墳や前方後円墳はなく、その殆どが後期の古墳です。

 その中に、海人の痕跡を示す古墳として、鳴門海峡を望む南あわじ市阿那賀伊毘(あながいび)の無人島・沖の島に沖の島古墳群があります。

 

 

 6世紀から7世紀にかけて造られた海人族の古墳17基。

 海人族らしく副葬品は鉄製釣針、土錘(どすい)、蛸壺形土器、軽石製の浮子(うき)など。須恵器も出土しています。

 

 

 また、舟木遺跡(2世紀中頃)の鉄器生産工房跡から、鉄器57点などが発見され、近畿最大の鉄器生産工房(工房12棟と鉄器127点が出土)である五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき:1世紀中頃の高地集落)を上回る国内最大規模の鉄器工房跡の可能性も示唆されています。

 

 

 四国と本土を繋ぐ中間点に位置する淡路島は、古くから銅鐸文化圏であり、また鉄を早くに取り入れた海人の一大拠点であったと想像できます。

 

 また『古事記』による、国生みの神話は有名であり、伊耶那岐神、伊耶那美神による壮大な天地創造の神話の中で最初に誕生する島がこの淡路島です。

 

 『古事記』3代安寧天皇(師木津日子玉手見命)記に、

 「一子、和知都美命者、坐淡道之御井宮、故此王有二女、兄名蠅伊呂泥・亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命、弟名蠅伊呂杼也。」

 「一の子、和知都美命は、淡道の御井宮に坐しき。故、この王、二の女ありき。兄の名は蝿伊呂泥。亦の名は意富夜麻登久邇阿札比売。弟の名は蝿伊呂杼なり。」

 …と「淡道」の名で見え、時代を経た16代仁徳天皇時には、淡路嶋に渡って詠んだ歌の記録も見えます。

 

 また、淡路島で天皇が狩りを楽しむ話は、17代履中天皇やその弟の19代允恭天皇治世時にも見え、18代反正天皇に至っては淡路で生まれたともあります。

 

 概ね15代応神~19代允恭時に多くの記述が見えますが、国名となる「淡路国」とは見えず、「淡路」や「淡路嶋」の名で見えます。

 

 『古事記』国生みの段では、

 「生子、淡道之穗之狹別嶋訓別、云和氣。下效此。次生伊豫之二名嶋、」

 生める子は、淡道之穂之狭別島。次に伊予之二名島を生みき。」

 …とあり、一番最初に国生みが成功した島として、淡道之穗之狹別嶋(=淡路島)の名で登場し、続いて伊豫之二名嶋(四国島)が生まれたと記します。

 

 この創生話の最後に、

 「其伊邪那岐大神者、坐淡海之多賀也。」

 「其の伊邪那岐大神は、淡海の多賀に坐すなり。」

 …とあり、これが後の淡路国一宮 伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)(兵庫県淡路市多賀740)です。

 

 

 

 

 当時は、「淡路」は「淡海」とも書いていたということなんですかね(´・ω・`)

 

 これが滋賀県にある、”近江”の”多賀”大社と混同する所以となっているようです。

 

 多賀大社は『延喜式神名帳』によれば、当時「近江国犬上郡 多何神社 二座」と記載され小社に列し、この「二座」は、伊邪那岐命・伊邪那美命とされていたわけではないとwikipediaにはありますね。

 

 ご鎮座する近くには、琵琶湖があり、これが淡路島をくり抜き逆さにした形状と至極ソックリであるため、その類似地形にあやかり、恐らくですが、社のあった淡路から近江へと地名と共に勧請されていったものと考えられます。

 

 

 15代応神天皇紀に見える、子の仁徳とはきょうだいの阿具知能三腹郞女(=淡路御原皇女)の名が、現存する南あわじ市(旧三原郡)の地名としてその名残りを有しており、和名類聚抄によれば、国府は三原郡にあったとあります。

 

 また『先代旧事本紀:国造本紀』によると、淡道国造は、16代仁徳朝の御世に、神皇産霊尊の九世孫の矢口足尼を国造に定められたとあります。

 

 ●淡路国三原郡

 

 

 『日本書紀』では、「淡路」が具体的な内容として登場するのがこの仁徳治世時からであり、従って国造として当代に矢口足尼を定めたということと考えます。

 

 ちなみに、国造本紀によれば、主だった四国国造配置時期を列記しますと、

 波多国は10代崇神朝の御世。

 長国・伊余国・都佐国は13代成務朝の御世。

 粟国・讃岐国は15代応神朝の御世。

 にそれぞれ国造を定められたとあり、国造を定めた順番からすれば、淡道国は四国より遅かったことになります。

 (ちなみに、怒麻国は神功皇后期、久味国・小市国・風速国は応神朝)

 

 さて、ここからが考察となる訳ですが、

 wikipedia淡路国造に書かれてある地名由来と考えられている「吾恥」についは論外で、我が国始まりの島とされる国名由来にそのような理由付けは有り得ません。

 一方、本居宣長の「阿波へ渡る海原にある島」だからとしている旨も、国生みの順番からすればおかしいのでは?としています。

 

 ではなぜ、この島を「淡路」と呼名したのでしょうか?

 

 少しずつその真相に迫ってみますと、

 「阿波海部と新羅国から考察 ①」でも少し書いた神功皇后の忠臣武内宿禰

 

 『古事記』では、8代孝元天皇皇子の比古布都押之信命(彦太忍信命)と、宇豆比古(木国造)の妹の山下影日売との間に生まれたとし、また『日本書紀』では、屋主忍男武雄心命と、菟道彦(紀直遠祖)の女の影媛との間に生まれたとします。

 屋主忍男武雄心命は、恐らく孝元天皇皇子、少名日子建猪心命が該当すると思われます。

 この山下影日売(=影媛)ですが、「道は阿波より始まる その一」より、「堂浦の蔭浦の女王、宇津比古の妹山下影比賣との間に出来た建内宿禰です。」…とあり、御名に見える「山下」は、和名類聚抄に見える板野郡山下郷(現鳴門市堂浦)のこととします。

 

 ●板野郡山下郷

 

 地図にすると下矢印

 

 また大毛島にも「山下」の地名が見え、

 

 同郷域は、恐らく淡路島と海を跨いで隣接する、島田島、大毛島周辺であったと推測ができます。

 

 

 当地は仁徳記にある、淡路島から本国に帰る海部の黒日売を見て歌った歌に、

 「淤志弖流夜 那爾波能佐岐用 伊傳多知弖 和賀久邇美禮婆 阿波志摩 淤能碁呂志摩 阿遲摩佐能 志麻母美由 佐氣都志摩美由

 「おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島 オノゴロ島 アジマサの島も見ゆ さけつ島見ゆ…の裂けつ島(裂けている島)のこと。

 

 ちなみに黒日売が途中で船から降ろされたとある「大浦」は下矢印

 

 嫉妬深さで有名な、仁徳天皇の大后である石之日売命(=磐之媛命)は、葛城襲津彦の娘であり、葛城長江曾都毘古(=葛城襲津彦)は武内宿禰の子です。

 

 この「葛城」も阿波説ならすぐわかりますが、決して奈良ではありませんヨ。

 

 この山下影日売には、wikipediaにもあるように「兄」に宇豆比古(=珍彦:うずひこ)がおり、また『日本書紀』によれば「父」にも、菟道彥(うじひこ)がいます。

 

 椎根津彦(しいねつひこ、『日本書紀』)、槁根津日子(さおねつひこ、『古事記』)、倭宿禰(やまとすくね)、または珍彦(うずひこ)は、記紀に登場する国つ神。神武東征において登場する。倭国造(倭直部)の祖。 

 

 

 概要

 神武天皇が東征において速吸門で出会った国つ神で、船路の先導者となる。このとき、『日本書紀』では曲浦(わだのうら)で魚釣するところを椎の棹を授けて御船に引き入れて名を珍彦(うづひこ)から椎根津彦に改めさせたとあり、『古事記』では亀の甲羅の上に乗っていたのを棹をさし渡し御船に引き入れて槁根津日子の名を賜ったという。

 その後、神武天皇に献策し、兄磯城を挟み撃ちにより破る。

 速吸門については諸説ある。『日本書紀』では豊予海峡を指すと考えられており、大分県大分市佐賀関には、椎根津彦を祀る椎根津彦神社がある。『古事記』では吉備国の児島湾口を指すと考えられる。岡山県岡山市東区水門町には、珍彦(宇豆毘古命、うづひこのみこと)の乗った大亀の化身とされる亀岩を祀る亀石神社(かめいわじんじゃ)がある。あるいは『古事記』が吉備の高島宮から浪速に行く間に速吸門を通ったとある点から、これを明石海峡とする考え方もある。

 また、椎根津彦命を祭神とする神社には、兵庫県神戸市東灘区本山町の保久良神社がある。保久良神社由緒書によると「社名の起因も 1、椎根津彦命の子孫たる倉人水守等が祖先を祭祀し奉る 2、三韓役の戦利武器を収蔵するより」とあり、神武東征時速吸之門(明石海峡)に現れて軍勢を先導したとある。

 椎根津彦命は保久良神社の南に位置する神戸市東灘区の青木(おうぎ)の浜に青亀(おうぎ)の背にのってこの浜に漂着したという伝承があり、それが青木(おうぎ)の地名の由来となった。

 吉井良隆は保久良神社について「椎根津彦命は大阪湾北側を支配する海部の首長であったとされ、西宮夷(兵庫県西宮市西宮神社)の奥夷社の元宮」と推測している。

 

 丹後半島の籠神社(このじんじゃ)には「別名・珍彦・椎根津彦・神知津彦  籠宮主祭神天孫彦火明命第四代 海部宮司家四代目の祖 神武東征の途次、明石海峡(速吸門)に亀に乗って現れ、神武天皇を先導して浪速、河内、大和へと進み、幾多の献策に依り大和建国の第一の功労者として、神武天皇から倭宿禰(やまとすくね)の称号を賜る。外に大倭国造、倭直とも云う。」とあり、境内には亀の背に乗った倭宿禰の像がある。

 海部氏系図二巻のうち『勘注系図』の註文には「彦火明命―建位起命―宇豆彦命(うずひこ)」とも「彦火明命―彦火火出見命―建位起命―倭宿祢」ともある。(wikipedia 椎根津彦より)

 

 纏めますと、

 

 宇豆比古(木国造)の山下影日売

 菟道彦(紀直遠祖)の影媛

 

 その配偶者が比古布都押之信命屋主忍男武雄心命少名日子建猪心命、つまり海部氏系図でいうところの、建位起命(たけくらおき:たけいたて:たけいたち)の子が武内宿禰

 

 従って、宇豆比古菟道彥武内宿禰

 

 まぁ、先代の彦火明命 - 彦火火出見命のラインから見ても、例の如く延々と引き延ばしておる訳でしょう。

 亀に乗ってる亀仙人な宇豆比古と、高良玉垂神な武内宿禰、海路の道案内が得意なお二人の理由もこれでわかりますね\(^o^)/

 

 またこの珍彦は、神武天皇時代の人物であり、妹の山下影日売が8代孝元天皇皇子の比古布都押之信命と結ばれ(つまり9代開化天皇の時代頃)、生まれた武内宿禰が12代景行天皇~16代仁徳天皇まで使えたとするのには相当に無理がありますね

 (亀の長寿性にあやかったのかねぇ…

 

 さて、通説によれば、宇豆比古が案内し渡ったとされる速吸門(はやすいのと)を豊予海峡のこととしますが、私説においては、例の如く皇祖の出自隠蔽を施してあると考えており、神武天皇は四国を全く立ち寄っていないことにしていますから、他所地に無理矢理比定し記しています。

 

 逆に隠してあると思えば、これはどう考えても鳴門(なると)のことですよね。

 

 

 速吸門(はやすいのと)とは、「速吸」=「渦」の門(のと⇒なと⇒なると)という訳です。

 

 水先案内人である珍彦(うずひこ)の御名からも、これが鳴門の渦潮であることは、現代の一般人ですら場所を問われれば誰でもわかりまっせ。

 まぁ南九州東遷説や畿内奈良説を妄信されている頭のお固い記紀研究家さんにはわからんでしょう。

 

 この珍彦ですが、『古事記』には木国造の祖、『日本書紀』では神武天皇2年に、倭国造に任じられたとあります。

 また『国造本紀』によれば、神武朝の御世に、椎根津彦命を大倭国造とした。すなわち、大和直の祖であるとも書かれていますね。

 

 従って、珍彦は神武朝に倭国造&大倭国造になっておりますが、これまた通説では「やまと」と「おおやまと」を一括りに考えて纏めて同所として現在の奈良県大和(やまと)の直の祖として考えています。

 

 大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。現在の奈良県。大国。

 

 国名について

 当国は、律令制定の際に表記を「大倭国(やまとのくに)」として成立したとされる。ただし藤原京出土の木簡に「□妻倭国所布評大□里」(所布評とは添評を指す)とあるように、「倭国」と記載された様子も見える。

 その後、奈良時代の天平9年12月27日(ユリウス暦:738年1月21日)に表記は「大養徳」に改められた。天平19年3月16日(747年4月29日)には元の「大倭」に改称。その後、天平宝字元年(757年)頃から「大和」に定められたとされる。平安時代以降は「大和」で一般化した。

 国名に使用される「ヤマト」とは、元々は「倭(やまと)、大倭(おおやまと/やまと)」等と表記して奈良盆地東縁の一地域を指す地名であった(狭義のヤマト)。その後、上記のように「大倭・大養徳・大和(やまと)」として現在の奈良県部分を領域とする令制国を指すようになり、さらには「日本(やまと)」として日本全体を指す名称にも使用された。(wikipedia 大和国より抜粋)

 

 これ等の下りは一度「ヤマト 考察 ④」にて記しておりますが、奈良県の大和は、恐らく大宝律令制定が701年に大倭国(やまと)として成立したと「される」とし、(確証の無い記述)

 738年、その大倭から「大養徳(おおやまと)」に変更

 747年「大倭(おおやまと)」へ戻す

 757年「大和(おおやまと)」に改める

 以降、大和(おおやまと)も後世に大和(やまと)と改め、これが後に我が国全体を指す日本(やまと)へと変わっていきます。

 

 つまり、738年以前となる、『古事記』(712年成立)、『日本書紀』(720年成立)や、記紀制作を着手した7世紀後半にはまだ、「大倭」は実際は奈良県にはなかった可能性が考えられるのです。

 もう一ついえば、「記紀」完成以降の757年に大和国の名が定められていますから、当然のことながら「記紀」には「大和」は存在しません。

 

 ではこれら「記紀」や『国造本紀』等に記される古名の「大倭」は一体どこにあったのでしょうか?

 

 ヒントは『巻第十 国造本紀』序文にあります。

 

 『天孫・天饒石国饒石天津彦火瓊々杵尊の孫の磐余彦尊が、日向から出発され倭国(やまとのくに)に向かわれて、東征されたとき、大倭国で漁夫(あま)を見つけられた。側近の人たちに尋ねて仰せになった。
 「海のなかに浮かんでいる者は何者だろうか」
 そこで、粟の忌部首の祖の天日鷲命を遣わして、これを調べさせた。天日鷲命が戻ってきて報告した。
 「これは、椎根津彦という者です」
 椎根津彦を呼んで連れてきて、天孫はお尋ねになった。
 「お前は誰か」
 椎根津彦は答えて申しあげた。
 「私は、皇祖・彦火々出見尊の孫で、椎根津彦です」
 天孫は詔して仰せられた。
 「私に従って、水先案内をするつもりはないか」
 答えて申しあげた。
 「私はよく海陸の道を知っていますので、道案内としてお仕えいたします」

 天孫は、詔して椎根津彦を案内とし、ついに天下を平定された。
 はじめて橿原に都を造り、天皇に即位された。
 詔して、東征に功績のあった者を褒めて、国造に定められた。また、逆らう者は誅し、県主を定められた。
 これが、国造・県主の由来である。』

 

 …磐余彦尊が日向から倭国に向かわれ、東征された時に、大倭国で漁夫(あま)を見つけたとあります。

 つまり、日向-倭国-大倭国は、東征時に通過する国名であり、しかも倭国と大倭国は別々の国であることがわかります。(珍彦は、倭国造=大倭国造ではなく、倭国造&大倭国造ということ)

 

 しかも大倭が奈良県の大和国であれば、既に神武は目的地に到着していますので、以降に水先案内する必要もないでしょう。

 

 また、大倭国には漁夫(あま=椎根津彦)が居たとあり、そこの海の中に浮かんでいましたが、奈良県は皆さんが知っての通り、海と面していません。

 

 更に言えば、神武は四国を立ち寄っていないはずなのに、粟の忌部首の祖の天日鷲命(後の伊勢国造)を遣わしています。…と突っ込みどころが満載ですな。

 

 従って阿波説を地図にすると、

 

 珍彦が倭国(粟国)の速吸門(鳴門)を渡って淡路島、つまり「大倭国」を通過し、本土に渡って東征していったということになるはずです。

 

 ここでの倭国は当然のことながら、式内社 倭大国魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)がご鎮座する、徳島県(粟国)のこと。主祭神:大国魂命(倭大国魂神)。

 

 

 

 そして(当時の)大倭は、淡路国二宮 式内社 大和大国魂神社(祭神:大和大国魂神)がご鎮座する淡路島のこと。

 

 

 

 

 国璽がある意味は大きいですよビックリマーク

 

 そして最終的には、当時の都となる奈良県 式内社 大和大国魂神社(おおやまとにますおおくにたまじんじゃ⇒現在の大和神社:おおやまとじんじゃ)に移転しました。

 

 

 御祭神は、日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)。

 

 「坐:います」が社名にあることの意味、今ここに座す、つまりあるところから移され、現在ここにイマスという意味。

 

 ●ヤマトの国魂の移動の図

 

 要するに、これらに書かれてある大倭とは淡路のことで、淡路国が制定されるまで(675年頃)は、大倭国と呼ばれていたのではないでしょうか?

 

 もちろん淡路国の大国魂神社にある「大和」の文字は、当地が元大倭であった故に、奈良県が大和国に改名以降に再び戴いた名とも考えられます。

 実際は当時の「大倭」の認識がまだ淡路島にあり、奈良県(後の大和国)に至っては、738年から757年までに立て続けに国名変更を余儀なくされたと考えれば辻褄もあいます。

 

 つまり、珍彦が国造に任ぜられたのは、徳島県(倭国)であり、その後勢力を伸ばし、四国島を脱して本土進出の足掛かりとして淡路島を拠点としたことから、当地を”当初”の大倭国と名付けた。

 そして、更に東征を重ね、710年に本拠となる皇居を奈良県の平城京に遷都したため、当地の国名を、大倭…国名変更を重ね、最終的には757年頃から”大和国”に改め直したと推測します。

 

 従って、「淡路国」は7世紀(675年頃)に「大倭国」から変更されて付けられた名と考えられ、往古、倭(い=やまと)の国と呼ばれていた徳島県が後に粟(あわ)国と呼ばれるようになって以降の成立と考えます。

 

 国生み物語としては淡路⇒阿波の順ですが、「国造本紀」による国造配置の順からすれば逆の、粟→淡路となっています。(これについては、本居宣長説に賛同します(ノ∀`)

 

 恐らく、『国造本紀』序文は真意として、元つ国である徳島県(倭)から、淡路島(大倭)を経由して、当時の都である奈良県(大和)に至るまでの東遷の経緯を順に記したのではと考えられます。

 

 その徳島県も713年に発令された諸国郡郷名著好字令により、粟国と長国を併合し、阿波国へと生まれ変わるのです。