古事記では国生みの最後(八番目)に、大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま)として誕生するのが関西域です。

 

 これまでの考察により、倭と大倭、そして大和と日本について書きました。

 そこで、まずは「倭と大倭」の繋がりについて述べておきましょう。

 

 風土記(ふどき)とは、奈良時代初期の官撰の地誌。

 元明天皇の詔により各令制国の国庁が編纂し、主に漢文体で書かれた。律令制度を整備し、全国を統一した朝廷は、各国の事情を知る必要があったため、風土記を編纂させ、地方統治の指針とした。

 『続日本紀』の和銅6年5月甲子(ユリウス暦713年5月30日)の条が風土記編纂の官命であると見られている。

 ただし、この時点では風土記という名称は用いられておらず、律令制において下級の官司から上級の官司宛に提出される正式な公文書を意味する「解」(げ)と呼ばれていたようである。

 なお、記すべき内容として下記の五つが挙げられている。

  1. 郡郷の名(好字を用いて)
  2. 産物
  3. 土地の肥沃の状態
  4. 地名の起源
  5. 伝えられている旧聞異事

 写本として5つが現存し、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残る。

 その他の国の風土記も存在したと考えられているが、現在は後世の書物に逸文として引用された一部が残るのみである。

 ただし逸文とされるものの中にも本当に奈良時代の風土記の記述であるか疑問が持たれているものも存在する。(wikipedia 風土記より抜粋)

 

 これを踏まえまして、

 

 『阿波国風土記』

 『阿波国風土記』 については逸文が残るのみで、一説には、明治初期まで阿波藩に存在したとの説もありますが、実際の所行方が判っていません。
 これまでに確認されている逸文は主に五節。萬葉集註釋いわゆる「仙覚抄」に記載されています。

 そのうちの一節、

 

  アマノモト山 (萬葉集註釋 卷第三)
 
 阿波國ノ風土記ノゴトクハ、
 ソラ(天)ヨリフリクダリタル山ノオホキナルハ、阿波國ニフリクダリタルヲ、アマノモト山ト云、
 ソノ山ノクダケテ、大和國ニフリツキタルヲ、アマノカグ山トイフトナン申。

 

 「天」より「降り下りたる大きなる山」が阿波の「元山」で、
 「ソノ山ノクダケテ」、「大和國に降り着きたる」、のが「天の香具山」
 
 伊予國風土記にも、
 
  天山 (釋日本紀 卷七)
 
 伊予の國の風土記に曰はく、
 伊與の郡。郡家より東北(うしとら)のかたに天山(あめやま)あり。天山と名づくる由は、倭に天加具山(あめのかぐやま)あり。
 天より天降(あも)りし時、二つに分れて、片端は倭の國に天降り、片端は此の土に天降りき。因りて天山と謂ふ。本(ことのもと)なり。

 

 この天の山に関する逸文は「阿波」と「伊予」の風土記にのみ見られるものであり、二つを合わせてみると、
 まず、「天」があり、そこから「阿波」に降り下った山が「元山」であり、その元山から砕け別れ着いた山が「倭」の「香具山」である。
 「伊予」の「天山」は、倭の香具山の兄弟山で、親山は「元山」ということになります。

 

 伊予國風土記には、「大和」ではなく「倭」と記されていることにも注目します。

 

 各国風土記のうち、天地初発より記された風土記は阿波国風土記のみ、という主張の根拠のひとつとなっています。

 

 大和国成立の時代は、風土記が記された時代よりも後なので、本来の原文には「大和国」ではなく「倭国」と記されていたはずだとし、研究者によっては異論もあります。

 「大和国」は、仙覚律師の解釈で書き変えられた可能性があります。
 「倭国」が阿波であるということが分からず、「香具山」は「奈良の山」という固定観念があれば、頭を捻るしかないからです。
 そもそも、仙覚は万葉集でも歌われる有名な「香具山」を調べようとして「大和國風土記」を見るのですが、そこに香具山は登場せず、他の風土記を当たって「阿波國ノ風土記」に行きつくのです。
 詳細は省略しますが、「倭」も「カグ山」も阿波のことなのです。
 この一節に関係する逸文は、伊予國風土記にも見えます。 (阿波国風土記 阿波国風土記とは より引用)
 

 当時の政治背景を考慮すると、713年に風土記編纂が開始された頃からすでに「倭」と「大和」の混同がすでに見当たるということです。

 ヤマト 考察 ②でも書きましたが、現在の奈良県が大和国として定められたのが757年です。

 それまでにも、大倭(701年)→大養徳大倭→大和(757年)となり、最終的には「日本(やまと)」が国土全体を指す名称にも使用されるようになりました。

 

 全ての風土記の意味するものを集約すれば、「大和国」は「阿波からの分国」であると解釈ができるのです。

 

 そこで、これまでの「やまと」の大国魂神を祀る三社である、大和神社、大和大国魂神社、倭大国敷神社の位置を地図で示しますと、

 

 

 図のようになり、古代阿波人が畿内へ(東へ)進出していった経路を示しているように思えるのです。

 これは、阿波青石(古墳の積石などに使用される)が搬出されていったルートと重なります。

 

 ※画像は、ぐーたら気延日記より拝借<(_ _)>

 

 奈良県にある古墳時代前期初頭の前方後円墳であるホケノ山古墳にも、徳島県産の青石が使用されており、構造も徳島県鳴門市にある弥生時代終末期の3世紀前葉に築造されたと推定される萩原2号墳と同一である事が明らかになっています。

 

 つまり、元の倭は阿波にあり、淡路を経由して畿内へ進出し、更に大きくなったことから大倭(奈良)となった。

 古墳や遺跡、神社などの痕跡等から、このように推察するのが至って自然であろうかと考えます。

 何もかも最初から奈良県にあったとするのであれば、「記紀」における「神武東征」の話も全く説明が付きません。

 国土を拡大していく過程として、その当時の天皇が畿内域に中心を据えた、700年頃の時代では、それが奈良県であったということなのでしょう。

 710年4月13日には平城京へ、そして後の794年11月22日には更に北上し、平安京(京都府京都市)へと遷都していくのです。

 

 仮説としては、

 本つ国である倭(やまと)は阿波であり、東へ国土を拡大、それに伴い大きい倭となったのが後の大和(おおやまと)である。

 また、遷都過程において、一時期淡路が大和(おおやまと)であったが、後に奈良県に都を据えたことにより淡路の大和は消滅し、757年からは奈良県が大和(おおやまと)となった。

 淡路には一時期大和大國魂があったので、痕跡を神社として標し置いた。

 ゆえに延喜式神名帳に式内社名神大社従一位としてしっかりと記録が残っているのである。

 …と考えます。

 

 事実として、大宝律令制定(701年)以後、奈良県は紆余曲折の末、757年に大和(おおやまと)へ改名した。

 またそれと同時に700年頃に、国号を「日本」と改めており、次第に国土全体を総称して日本(やまと)と呼ぶようになり、これが浸透していった。

 当時、天皇の活動拠点の中心地(つまり都)であった大和(おおやまと)も、徐々に大和(やまと)と呼ばれるようになり、以後、風土記編纂時頃には、倭(やまと)と大和(やまと)も混同されるようになってしまっていた。

 …と考察致します(´・ω・`)ノ